『新撰21』を読む(中後編)
堂: こんにちは。
五: こんにちは。
堂: 今日は花粉がいっぱい。短歌行です。
五: 春のつまらなさは花粉が原因と断言できましょう。
堂: そうですねー。冬が終わって春になるのは本当に憂鬱ですね。まあ、僕は花粉症ではないけれど。
五: そして、今日は横浜に来ています。
堂: 横浜のよいところはなんでしょう? 神奈川博士。
五: とくにありませんね。
堂: え!? 言いきるの? 前回と同じく、本当に横浜キライなんだなー。
五: しかし、そんな中でも自然は神々しい姿を見せてくれます。
堂: いきなり何を言い出すのか。
五: 横浜駅西口から沢渡中央公園へと向かう、無味乾燥のオフィス街の一角に「万年茸」が生えているのです。
堂: 万年茸ってなんですか?
五: 朱塗りの漆器のような質感、重量感、すばらしい茸なんです。ガンに効くという噂もあって、一本3万円くらいするんですよ。
堂: 3万!? マジで!?
五: まあ、お金はどうでもいいんだけど、万年茸自体が割と珍しいし、存在感があるのでみなさんもぜひ見に来てください。今のところ横浜駅周辺で唯一の名所です。
堂: といっても茸マニア以外は容易に見つけられない気がするけど。
五: ふふん。
堂: いやでも3万はすごいよ。オフィス街にずーっと3万落ちているようなもんでしょう。つーか、なんでそんなこと知ってんの、五島さん。
五: その筋では常識なんだけどね。
堂: はあ、その筋ですか。どの筋なんだ。
五: といったところでそろそろ始めますか。「『新撰21』を読む」の続きですね。今日は五十嵐義知さんからです。好きな句を挙げますね。
- 山の端の光の帯や酉の市
- 人影をあきらかにして冬の月
- 釣針に鮟鱇の顎残りけり
- かまくらをつくる職人気質かな
一句目、かなり大きな景です。酉の市のにぎわいが光の帯と対置されて、そこに吸い込まれていくようです。光の帯が消えてしばらくするとにぎわいも終息に向かいます。天象と人為のそこはかとない重なりあいがいいですね。
堂: うまいこといいますね。すごく目立つ句ではないけれど、雰囲気があるね。
五: 五十嵐さんは大柄でクラシックな作風が一つ特徴的ですね。「流域に寺町のあり更衣」とか。
堂: たしかにね。
五: 二句目も非常にクラシックな風景です。新鮮味というのは感じないけれどこういう句が入るのはとても潔い感じがする。作句姿勢が鮮明に見えてきます。三句目、鮟鱇を吊るしてさばいた後に顎だけが残っているという。切り取り方が鮮やかで、一片の湿り気も感じさせないところが魅力です。
堂: 「鮟鱇」の句は僕もとりました。見事な句だよね。
五: 四句目、かまくら作りに「職人気質」を見出したのがすごい。普通思わないですよ。でも五十嵐さんは思う。なぜなら常日頃から職人気質を意識しているからです。
堂: それは、作句信条にもあらわれていますね。読みますよ。
五: 読んでくれよ。
堂: 「有季定型を基本とし、平明、明快な作句を心がけている。」
五: まさにその通りの作風だね。
堂: 「季語についてはその使用が適当か、語句や表現は説明的ではないか、多くを語り過ぎてはいないかという点に留意している」。
五: 職人的だなあ。
堂: 「留意している」が特にね。
五: そこが一番のポイントだね。
堂: では僕のとった句に。僕は
- 滝壺に届かざるまま凍りけり
- 川幅のこの先狭き雪解川
- 木の実落ち採光窓にとどまれり
- 釣針に鮟鱇の顎残りけり
をとりました。一句目、滝が滝壺に届かないまま空中で凍っている。冬の力がこの景に凝縮されています。二句目は川のゆく先を想像していて、なんか川の変遷とか連続性そのものに打たれる。メタファーにならずにね。リズムも好きです。
五: なるほど。
堂: 三句目。採光窓だから、高いところにあって、この木の実に触れることができないんだよね。この距離感が木の実の印象へのちょうどよい存在感を演出している。採光窓にあると、木の実の木の実性が強まるというか、あっ木の実あるなあ、というか。四句目はさっきあげましたが、印象が鮮明なよい句だと思います。
五: はい。
堂: 全体的に、キチッ、キチッ、という感じですね。季語や名詞の持っている存在感をひとつひとつ測りながら作っているような。
五: そうですね。僕は五十嵐さん、けっこう好きだな。絶対にウェットにならない感じが。木の実が落ちたら何か気持ちを言いたくなりそうだけど、採光窓にとどまっているというだけなんですね。その辺が「木の実性」と関連している。
堂: はい。では次にいきましょうか。次は矢野玲奈さん。
五: 良いと思った句は、
- 川二つ越えて八十八夜かな
- 大胆な足の運びの西瓜割り
- 艫綱を結びてよりの遅日かな
です。一句目、少し長めの散歩でしょうか。「川一つ」だと物足りず、「川いくつ」だとしんどい。少し汗ばむ感じが八十八夜の季節感と響き合う句ですね。二句目、「足の運び」という言い方がユーモラスです。
堂: ユーモラスかあ。まあ、大胆、に見えるんでしょうね。でも、実際どういうものなんだろうか。
五: なんかフラメンコを想像してしまった。作家信条に引っ張られた読みですけど。でもそういうちょっとぎょっとするような運びなんでしょうね。
堂: ふむ。
五: 三句目は一番好きな句です。遅々として進まない太陽と、網でくくられて動かない船とをリンクさせているのですが、こう表現されると太陽自体に艫綱がかけられているように見えて面白い。
堂: ふむ。僕がとったのは
- 箱庭に天動説を思ひけり
- 秋冷やまはる遊具の淡き色
- ぎちぎちと革手袋の祈りかな
です。一句目、箱庭を覗き込んでいると、自分が大きくなったように感じる。その大きさが天動説と連想させたんだと思います。いや、もっと単純に箱庭=動かない、周り=動くという感じかもしれませんが。この、なんか自分を大きくする自意識の持ち方がすごいな、と思って。
五: これは箱庭を覗き込んでいるととるか、自分の今いるところを箱庭と認識したととるかが難しい。ぼくは後者でとりました。しかし、自分を大きくするというのは同じで、その開き直り方が、少し気になる。
堂: あー、そうか、どっちだろう。僕は覗き込んでると思ったけど、「箱庭に」を箱庭にいる、とも読めるか。まあ、どっちにしろ、この偉そうさはすごい。
五: なるほどね。
堂: 二句目は、さらっとしててよかったですね。三句目は、革手袋をしたままお祈りをすると、ぎちぎちと音がする。それは発見ですよね。
五: そうだね。
堂: ただ、全体的になんというか自足しているというか、そういう感じなのがどうも。あと、お金持ちだなーって。
五: どういうところが?
堂: 句に出てくる言葉言葉にちょっとした裕福感が。あと、活花やってたり、とか。
五: 気になる?
堂: うーん、うがちすぎかもしれないけど、気になるなあ。いや、活花やってていけないということじゃないですよ。当然。そんなこと非難されることじゃないし、絶対。
五: ふーむ。
堂: ただ、言葉にあらわれる世界の背後にすごくそういう価値観が出ている。つまり、ここにあらわれる素敵さは、だいぶ限定された素敵さなんだろうな、と。
五: 必ず出ますからねそういうのは。では次に、中村安伸さんです。
堂: ではとります。
- 馬は夏野を十五ページも走ったか
- 茄子の馬より茄子の血の滴れり
- 切り口を運河へ向けて西瓜売る
です。一句目は「十五ページ」とあるから、本の中の出来事なんでしょう。いや、そうとも限らないか。とにかく想像の中で馬が夏野を走っている。その走った感じとページが進んでいく感じがリンクする。「夏野」を駆ける広さ、と同時にそれが限定されていること。大きな視野と、本というものに対する権力愛みたいなもの、そうしたものが混ぜ合わされていると思いました。
五: そうだね。夏野を馬がはしるという光景が本の中にしかないっていうのが独特のフェティシズムと閉塞感を生んでいますね。ブッキッシュなものに対する権力愛という見方もわかるけど、ここまであからさまに出されると逆に趣味的な感じもします。
堂: なるほど。
五: 文芸のフィールドでの権力を握っているのは、ぼくは感情だと思う。政治では文字通りパワーで、感情は抑圧されるけど、文芸ではそれが逆転する。
堂: むき出しの権力というのはそれほど怖くないから趣味的ということですね。たしかにそれもそうなんだけど、この句の言葉っていうのはブッキッシュな権力をまとった形で出てくる。その意匠をまということに快感を感じているということです。
五: それはそうだね。
堂: で、私はそのブッキッシュな感じがいいな、と思ったのです。そして、二句目、「茄子の馬」。お盆に飾る、あれですよね。
五: この二句目あまりぴんとこないんだけど、「血」というのは不吉なニュアンスでいいのかな。
堂: たしかにこの句はちょっと難しいですね。不吉なニュアンスかー。そういうところもあるけれど、もっと単純に、植物である茄子の馬から血が流れているように見える気持ちの強さと、そう見立てる見立てのかっこよさ、だと思う。
五: 単純なかっこよさで「血」っていうのはいいの?
堂: うーん、僕は快感があったけどね。
五: なるほど。そしてこれも非常にブッキッシュなものだよね。
堂: そうですね。
五: 「茄子の汁」だとその感じは出ないもんね。ぼくの好みは「茄子の汁」だけどね、この場合。
堂: 五島さんがそう言うのはよくわかるよ。でも、この「血」に中村さんのフェティシズムがよく出てきますね。三句目も、ある意味ブッキッシュ。運河に向けて西瓜を売るんだけど、ここで目立つのは西瓜の持っている季節感ではなく、西瓜の切り口のその赤の鮮やかさです。「運河」という語の好みにも出てるけど、やはり想像界の出来事なんだろうな、と。
五: ですね。ぼくが好きな句は
- 黒潮を時には僧の流れけり
- 立秋の手紙は箱に妹は野に
- ぼうたんや印度独逸のあと津軽
あたりです。一句目、黒潮に乗るのは魚だけじゃないんですね。二句目、手紙は箱で輝くものだけど、妹はやはり野に遊んでこそのものでしょう。
堂: こそのものでしょう、って面白いですね。
五: 三句目、津軽というのがおかしくてなつかしくていい。健全な視野の狭さ。「印度独逸」という表記もいい。何かというと早期の英語教育が大事だなんてことを言いがちな薄っぺらい国際性に比べれば、大輪のぼたんの価値は十分です。
堂: 一句目のこれは、昔、中国から日本に僧が来た、とか文化交流とかの話なの?
五: たぶんそれもあります。渡ろうとして潮に流される僧が多くいたという。でも、魚たちの中に僧が泳いでいても楽しいですよ。
堂: そういう非現実的なイメージを楽しんでもいいかもしれないね。
五: 文化交流だと黒潮じゃなくて対馬海流になっていてもいいはずだしね。
堂: 全体的に知性の句、という感じで、そうした姿勢が僕は好きです。ただ、ときにはそうした知性が鼻につくときもなくはないかな。
五: はい、といったところで次。田中亜美さん。
堂: ではあげます。
- 胎内は河原の白さ日傘差す
- 冬すみれ人は小さき火を運ぶ
- 耳尖るフランツ・カフカ柚子ゼリー
一句目は濃厚な女性性と、景の印象深さに驚きました。胎内、っていきなり言われるとびびるけども、それを白さ、日傘、と言葉をついでこられると、納得したわけでもないけれど、寄り切りで説得されるというか。余白の少なさが効いている気がします。二句目はすみれの小ささと火の小ささ。大切なものの大切さを、抽象的な目盛りを調節しながら伝えようとする姿勢、ですね。三句目はカフカは確かに耳尖ってんなー、と。
五: なるほど。まず一句目ですが、これはどこまでが景なんでしょう?
堂: 答えにくいんですが、僕はこういうふうに読みました。まず主体は「胎内」のことを考えている。この「胎内」は自分なのか、他人なのか、あるいは人間一般なのかわからないですが、そこは河原のように白いのだ、と考えている。胎内、という生と死が交わるところなので、三途の川のイメージとかが関係しているのかなあ。で、ここまでが考えていることで、そうしたことを考えている人が日傘を差していると、まあこういう感じ。
五: 河原に立って胎内を連想しているのかもしれないですね。ただ、暗いとか赤いではなくて胎内は「白い」のではないかという見方を読者に納得させるには、「日傘差す」が少し弱い気がします。作者にとっては「白い」ということでいいとも言えますが、難しいところです。
堂: そうだねえ。「作者にとって」というのは僕も感じますね。「日傘差す」も弱い、というより「満足」という感じだと思う。
五: そもそも説得を意図していないということですね。そういう感触はあります。自分の感受性に忠実な言葉を選んでいるんでしょうね。三句目の柚子ゼリーはどう効いているいるの?
堂: うーん……、実はよくわかんないんだよね。「耳尖るフランツ・カフカ」が好きでとったから。基本的には二物の句で、カフカと柚子ゼリーのギャップを楽しむ句、だと思うけど、その関わり方が正直よくわからない。でも、なんか好きなんですよ、この句(笑)。
五: 難しい句ですが、迫力ある対比ではありますよね。ではぼくの好きな句を挙げます。
- 首の骨もつとも白く鵙高音
- 自我いつかしづかな琥珀霜の夜
- 紙燃やす焔のゆらぎ馬酔木咲く
一句目、詠い切った心地よさがあります。一途さに対してさらに一途というか、シニカルに見ようとしないところに感動しました。二句目はクリティカルヒット。この句は中高生に読んでほしいです。自我の解消を目指すのではなく、結晶化を目指し、しかもそれは可能だという。内容的には平凡かもしれませんが、普遍的な力があると思いますね。
堂: なるほど。説得されます。
五: 三句目は官能的で、美しい句。「紙燃やす焔」の着想に惹かれます。ただ、観念が類型的な作品があるのが気になります。仮象や欲望に「シャイン」や「デジール」というルビを振るのはどうかなあ。
堂: そうだね。僕もぜんぶがぜんぶ乗れたわけじゃないなあ。
五: 全体的に自我というか個人性の強い言葉つきですね。
堂: うん。なんだか短歌的な気もした。
五: わかります。さて、田中さん締めますか。ふーそろそろ疲れたね。
堂: そうですね、あと3人で終わらせたいけれど、まあ、やめますか。日も暮れたし。
五: だね。
堂: じゃあ、今日は五島さんから中高生へのメッセージで終わりますか。
五: はい。えー、現在日本には学名のついた茸だけでも約2000種が存在しています。しかし、更に数千の名もない茸たちが発見を待っているのです。特に亜熱帯地方、奄美や沖縄は新種の宝庫。みなさんもぜひ新種の茸を発見してください。
堂: 数千も!? それはすごい!!
五: まあ、こういう数字には諸説あって、どこで茸を分類するかにもよるのですが。
堂: なるほどー。しかし夢のある話です。これを読んでいる中高生のみなさんはぜひいますぐ山野へ出かけましょう!
五: がんばっていただきたいところです。
堂: はい。しかし、何のブログだろね、これ。
五: まあまあ。
堂: それでは締めましょう。次回は『新撰21』の最終回!
五: ご期待ください!
堂: お疲れ様です。
五: お疲れです。