2011年4月12日 (火)

『新撰21』を読む(中後編)

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 今日は花粉がいっぱい。短歌行です。

五: 春のつまらなさは花粉が原因と断言できましょう。

堂: そうですねー。冬が終わって春になるのは本当に憂鬱ですね。まあ、僕は花粉症ではないけれど。

五: そして、今日は横浜に来ています。

堂: 横浜のよいところはなんでしょう? 神奈川博士。

五: とくにありませんね。

堂: え!? 言いきるの? 前回と同じく、本当に横浜キライなんだなー。

五: しかし、そんな中でも自然は神々しい姿を見せてくれます。

堂: いきなり何を言い出すのか。

五: 横浜駅西口から沢渡中央公園へと向かう、無味乾燥のオフィス街の一角に「万年茸」が生えているのです。

堂: 万年茸ってなんですか?

五: 朱塗りの漆器のような質感、重量感、すばらしい茸なんです。ガンに効くという噂もあって、一本3万円くらいするんですよ。

堂: 3万!? マジで!?

五: まあ、お金はどうでもいいんだけど、万年茸自体が割と珍しいし、存在感があるのでみなさんもぜひ見に来てください。今のところ横浜駅周辺で唯一の名所です。

堂: といっても茸マニア以外は容易に見つけられない気がするけど。

五: ふふん。

堂: いやでも3万はすごいよ。オフィス街にずーっと3万落ちているようなもんでしょう。つーか、なんでそんなこと知ってんの、五島さん。

五: その筋では常識なんだけどね。

堂: はあ、その筋ですか。どの筋なんだ。

五: といったところでそろそろ始めますか。「『新撰21』を読む」の続きですね。今日は五十嵐義知さんからです。好きな句を挙げますね。

  • 山の端の光の帯や酉の市 
  • 人影をあきらかにして冬の月
  • 釣針に鮟鱇の顎残りけり
  • かまくらをつくる職人気質かな 

一句目、かなり大きな景です。酉の市のにぎわいが光の帯と対置されて、そこに吸い込まれていくようです。光の帯が消えてしばらくするとにぎわいも終息に向かいます。天象と人為のそこはかとない重なりあいがいいですね。

堂: うまいこといいますね。すごく目立つ句ではないけれど、雰囲気があるね。

五: 五十嵐さんは大柄でクラシックな作風が一つ特徴的ですね。「流域に寺町のあり更衣」とか。

堂: たしかにね。

五: 二句目も非常にクラシックな風景です。新鮮味というのは感じないけれどこういう句が入るのはとても潔い感じがする。作句姿勢が鮮明に見えてきます。三句目、鮟鱇を吊るしてさばいた後に顎だけが残っているという。切り取り方が鮮やかで、一片の湿り気も感じさせないところが魅力です。

堂: 「鮟鱇」の句は僕もとりました。見事な句だよね。

五: 四句目、かまくら作りに「職人気質」を見出したのがすごい。普通思わないですよ。でも五十嵐さんは思う。なぜなら常日頃から職人気質を意識しているからです。

堂: それは、作句信条にもあらわれていますね。読みますよ。

五: 読んでくれよ。

堂: 「有季定型を基本とし、平明、明快な作句を心がけている。」

五: まさにその通りの作風だね。

堂: 「季語についてはその使用が適当か、語句や表現は説明的ではないか、多くを語り過ぎてはいないかという点に留意している」。

五: 職人的だなあ。

堂: 「留意している」が特にね。

五: そこが一番のポイントだね。

堂: では僕のとった句に。僕は

  • 滝壺に届かざるまま凍りけり 
  • 川幅のこの先狭き雪解川 
  • 木の実落ち採光窓にとどまれり 
  • 釣針に鮟鱇の顎残りけり

をとりました。一句目、滝が滝壺に届かないまま空中で凍っている。冬の力がこの景に凝縮されています。二句目は川のゆく先を想像していて、なんか川の変遷とか連続性そのものに打たれる。メタファーにならずにね。リズムも好きです。

五: なるほど。

堂: 三句目。採光窓だから、高いところにあって、この木の実に触れることができないんだよね。この距離感が木の実の印象へのちょうどよい存在感を演出している。採光窓にあると、木の実の木の実性が強まるというか、あっ木の実あるなあ、というか。四句目はさっきあげましたが、印象が鮮明なよい句だと思います。

五: はい。

堂: 全体的に、キチッ、キチッ、という感じですね。季語や名詞の持っている存在感をひとつひとつ測りながら作っているような。

五: そうですね。僕は五十嵐さん、けっこう好きだな。絶対にウェットにならない感じが。木の実が落ちたら何か気持ちを言いたくなりそうだけど、採光窓にとどまっているというだけなんですね。その辺が「木の実性」と関連している。

堂: はい。では次にいきましょうか。次は矢野玲奈さん。

五: 良いと思った句は、

  • 川二つ越えて八十八夜かな 
  • 大胆な足の運びの西瓜割り 
  • 艫綱を結びてよりの遅日かな

です。一句目、少し長めの散歩でしょうか。「川一つ」だと物足りず、「川いくつ」だとしんどい。少し汗ばむ感じが八十八夜の季節感と響き合う句ですね。二句目、「足の運び」という言い方がユーモラスです。

堂: ユーモラスかあ。まあ、大胆、に見えるんでしょうね。でも、実際どういうものなんだろうか。

五: なんかフラメンコを想像してしまった。作家信条に引っ張られた読みですけど。でもそういうちょっとぎょっとするような運びなんでしょうね。

堂: ふむ。

五: 三句目は一番好きな句です。遅々として進まない太陽と、網でくくられて動かない船とをリンクさせているのですが、こう表現されると太陽自体に艫綱がかけられているように見えて面白い。

堂: ふむ。僕がとったのは

  • 箱庭に天動説を思ひけり 
  • 秋冷やまはる遊具の淡き色 
  • ぎちぎちと革手袋の祈りかな

です。一句目、箱庭を覗き込んでいると、自分が大きくなったように感じる。その大きさが天動説と連想させたんだと思います。いや、もっと単純に箱庭=動かない、周り=動くという感じかもしれませんが。この、なんか自分を大きくする自意識の持ち方がすごいな、と思って。

五: これは箱庭を覗き込んでいるととるか、自分の今いるところを箱庭と認識したととるかが難しい。ぼくは後者でとりました。しかし、自分を大きくするというのは同じで、その開き直り方が、少し気になる

堂: あー、そうか、どっちだろう。僕は覗き込んでると思ったけど、「箱庭に」を箱庭にいる、とも読めるか。まあ、どっちにしろ、この偉そうさはすごい。

五: なるほどね。

堂: 二句目は、さらっとしててよかったですね。三句目は、革手袋をしたままお祈りをすると、ぎちぎちと音がする。それは発見ですよね。

五: そうだね。

堂: ただ、全体的になんというか自足しているというか、そういう感じなのがどうも。あと、お金持ちだなーって。

五: どういうところが?

堂: 句に出てくる言葉言葉にちょっとした裕福感が。あと、活花やってたり、とか。

五: 気になる?

堂: うーん、うがちすぎかもしれないけど、気になるなあ。いや、活花やってていけないということじゃないですよ。当然。そんなこと非難されることじゃないし、絶対。

五: ふーむ。

堂: ただ、言葉にあらわれる世界の背後にすごくそういう価値観が出ている。つまり、ここにあらわれる素敵さは、だいぶ限定された素敵さなんだろうな、と。

五: 必ず出ますからねそういうのは。では次に、中村安伸さんです。

堂: ではとります。

  • 馬は夏野を十五ページも走ったか
  • 茄子の馬より茄子の血の滴れり
  • 切り口を運河へ向けて西瓜売る

です。一句目は「十五ページ」とあるから、本の中の出来事なんでしょう。いや、そうとも限らないか。とにかく想像の中で馬が夏野を走っている。その走った感じとページが進んでいく感じがリンクする。「夏野」を駆ける広さ、と同時にそれが限定されていること。大きな視野と、本というものに対する権力愛みたいなもの、そうしたものが混ぜ合わされていると思いました。

五: そうだね。夏野を馬がはしるという光景が本の中にしかないっていうのが独特のフェティシズムと閉塞感を生んでいますね。ブッキッシュなものに対する権力愛という見方もわかるけど、ここまであからさまに出されると逆に趣味的な感じもします。

堂: なるほど。

五: 文芸のフィールドでの権力を握っているのは、ぼくは感情だと思う。政治では文字通りパワーで、感情は抑圧されるけど、文芸ではそれが逆転する。

堂: むき出しの権力というのはそれほど怖くないから趣味的ということですね。たしかにそれもそうなんだけど、この句の言葉っていうのはブッキッシュな権力をまとった形で出てくる。その意匠をまということに快感を感じているということです。

五: それはそうだね。

堂: で、私はそのブッキッシュな感じがいいな、と思ったのです。そして、二句目、「茄子の馬」。お盆に飾る、あれですよね。

五: この二句目あまりぴんとこないんだけど、「血」というのは不吉なニュアンスでいいのかな。

堂: たしかにこの句はちょっと難しいですね。不吉なニュアンスかー。そういうところもあるけれど、もっと単純に、植物である茄子の馬から血が流れているように見える気持ちの強さと、そう見立てる見立てのかっこよさ、だと思う。

五: 単純なかっこよさで「血」っていうのはいいの?

堂: うーん、僕は快感があったけどね。

五: なるほど。そしてこれも非常にブッキッシュなものだよね。

堂: そうですね。

五: 「茄子の汁」だとその感じは出ないもんね。ぼくの好みは「茄子の汁」だけどね、この場合。

堂: 五島さんがそう言うのはよくわかるよ。でも、この「血」に中村さんのフェティシズムがよく出てきますね。三句目も、ある意味ブッキッシュ。運河に向けて西瓜を売るんだけど、ここで目立つのは西瓜の持っている季節感ではなく、西瓜の切り口のその赤の鮮やかさです。「運河」という語の好みにも出てるけど、やはり想像界の出来事なんだろうな、と。

五: ですね。ぼくが好きな句は

  • 黒潮を時には僧の流れけり
  • 立秋の手紙は箱に妹は野に
  • ぼうたんや印度独逸のあと津軽

あたりです。一句目、黒潮に乗るのは魚だけじゃないんですね。二句目、手紙は箱で輝くものだけど、妹はやはり野に遊んでこそのものでしょう。

堂: こそのものでしょう、って面白いですね。

五: 三句目、津軽というのがおかしくてなつかしくていい。健全な視野の狭さ。「印度独逸」という表記もいい。何かというと早期の英語教育が大事だなんてことを言いがちな薄っぺらい国際性に比べれば、大輪のぼたんの価値は十分です。

堂: 一句目のこれは、昔、中国から日本に僧が来た、とか文化交流とかの話なの?

五: たぶんそれもあります。渡ろうとして潮に流される僧が多くいたという。でも、魚たちの中に僧が泳いでいても楽しいですよ。

堂: そういう非現実的なイメージを楽しんでもいいかもしれないね。

五: 文化交流だと黒潮じゃなくて対馬海流になっていてもいいはずだしね。

堂: 全体的に知性の句、という感じで、そうした姿勢が僕は好きです。ただ、ときにはそうした知性が鼻につくときもなくはないかな。

五: はい、といったところで次。田中亜美さん。

堂: ではあげます。

  • 胎内は河原の白さ日傘差す
  • 冬すみれ人は小さき火を運ぶ
  • 耳尖るフランツ・カフカ柚子ゼリー

一句目は濃厚な女性性と、景の印象深さに驚きました。胎内、っていきなり言われるとびびるけども、それを白さ、日傘、と言葉をついでこられると、納得したわけでもないけれど、寄り切りで説得されるというか。余白の少なさが効いている気がします。二句目はすみれの小ささと火の小ささ。大切なものの大切さを、抽象的な目盛りを調節しながら伝えようとする姿勢、ですね。三句目はカフカは確かに耳尖ってんなー、と。

五: なるほど。まず一句目ですが、これはどこまでが景なんでしょう?

堂: 答えにくいんですが、僕はこういうふうに読みました。まず主体は「胎内」のことを考えている。この「胎内」は自分なのか、他人なのか、あるいは人間一般なのかわからないですが、そこは河原のように白いのだ、と考えている。胎内、という生と死が交わるところなので、三途の川のイメージとかが関係しているのかなあ。で、ここまでが考えていることで、そうしたことを考えている人が日傘を差していると、まあこういう感じ。

五: 河原に立って胎内を連想しているのかもしれないですね。ただ、暗いとか赤いではなくて胎内は「白い」のではないかという見方を読者に納得させるには、「日傘差す」が少し弱い気がします。作者にとっては「白い」ということでいいとも言えますが、難しいところです。

堂: そうだねえ。「作者にとって」というのは僕も感じますね。「日傘差す」も弱い、というより「満足」という感じだと思う。

五: そもそも説得を意図していないということですね。そういう感触はあります。自分の感受性に忠実な言葉を選んでいるんでしょうね。三句目の柚子ゼリーはどう効いているいるの?

堂: うーん……、実はよくわかんないんだよね。「耳尖るフランツ・カフカ」が好きでとったから。基本的には二物の句で、カフカと柚子ゼリーのギャップを楽しむ句、だと思うけど、その関わり方が正直よくわからない。でも、なんか好きなんですよ、この句(笑)。

五: 難しい句ですが、迫力ある対比ではありますよね。ではぼくの好きな句を挙げます。 

  • 首の骨もつとも白く鵙高音
  • 自我いつかしづかな琥珀霜の夜
  • 紙燃やす焔のゆらぎ馬酔木咲く

一句目、詠い切った心地よさがあります。一途さに対してさらに一途というか、シニカルに見ようとしないところに感動しました。二句目はクリティカルヒット。この句は中高生に読んでほしいです。自我の解消を目指すのではなく、結晶化を目指し、しかもそれは可能だという。内容的には平凡かもしれませんが、普遍的な力があると思いますね。

堂: なるほど。説得されます。

五: 三句目は官能的で、美しい句。「紙燃やす焔」の着想に惹かれます。ただ、観念が類型的な作品があるのが気になります。仮象や欲望に「シャイン」や「デジール」というルビを振るのはどうかなあ。

堂: そうだね。僕もぜんぶがぜんぶ乗れたわけじゃないなあ。

五: 全体的に自我というか個人性の強い言葉つきですね。

堂: うん。なんだか短歌的な気もした。

五: わかります。さて、田中さん締めますか。ふーそろそろ疲れたね。

堂: そうですね、あと3人で終わらせたいけれど、まあ、やめますか。日も暮れたし。

五: だね。

堂: じゃあ、今日は五島さんから中高生へのメッセージで終わりますか。

五: はい。えー、現在日本には学名のついた茸だけでも約2000種が存在しています。しかし、更に数千の名もない茸たちが発見を待っているのです。特に亜熱帯地方、奄美や沖縄は新種の宝庫。みなさんもぜひ新種の茸を発見してください。

堂: 数千も!? それはすごい!!

五: まあ、こういう数字には諸説あって、どこで茸を分類するかにもよるのですが。

堂: なるほどー。しかし夢のある話です。これを読んでいる中高生のみなさんはぜひいますぐ山野へ出かけましょう!

五: がんばっていただきたいところです。

堂: はい。しかし、何のブログだろね、これ。

五: まあまあ。

堂: それでは締めましょう。次回は『新撰21』の最終回!

五: ご期待ください!

堂: お疲れ様です。

五: お疲れです。

2011年3月23日 (水)

『新撰21』を読む(中中編)

こんにちは。「『新撰21』を読む」の第3回をお送りします。今回の収録は今年の2月でした。そのつもりでお読みいただければと思います。

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 『新撰21』の第三回です。

五: はい。今日は誰からでしたっけ。

堂: 誰からでしたっけ。なにしろ、半年以上たってますからね。

五: そうだね。ところで堂園くん、僕の『新撰21』を見てくれよ。

堂: え、なに? ふつうの『新撰21』じゃ……。おおっ。

五: ふっふっふ。

堂: サインが書いてある! しかも5人も!

五: いいでしょう。さる俳人の集まりでもらったんですよ。いずれは収録作家全員にもらいたいです。

堂: そっかー、すごいなー。

五: でしょうでしょう。そうでしょう。

堂: さて、ひととおり自慢を聞いたところで始めますか。今日は渋谷のジョナサンです。今回は北大路翼さんからです。

五: 好きな句は、

  • 米の字の肛門に見ゆ秋祭
  • 簡単に口説ける共同募金の子
  • 男は手女は足を入れ炬燵

あたりですね。北大路さんは秋冬がいいと思った。

堂: 僕は春夏のほうが好きだったかな。

  • 入学児花壇の石を裏返す
  • 息かけて止めるカタツムリの進行
  • 文系は海好き理系はプール好き

らへん。

五: へえ。くっきり分かれるものだなあ。「文系は」の句はぼくも印を付けました。しかし全体的に言うと、秋冬の印象が強かった。秋の句に

  • 五人中四人が眼鏡そぞろ寒

というのがあって、この何となくそぞろ寒い感じが滑稽味を帯びた作風にうまくひびき合うと思いました。

堂: なるほどね。

五: ぼくの挙げた一句目や三句目など、何と言うか江戸時代みたいです。滑稽かつ洒脱で、非常に完成度が高い。

堂: わかりますね。載っている近影の印象や、語の押し出しの強さに対して、春夏の句を読んだとき、繊細なところに気づく人だなあ、と思った。それで、これらの句をとったのだけれど、背後にある洒脱な意識が繊細な発見を支えているのかもね。なんというか、繊細さが自己目的化しないというか。

五: うん。

堂: しかし、江戸時代って面白い言い方だね。

五: 洋画よりも浮世絵の手法に近いものを感じるんですよ。少ない描線で現実をデフォルメしていくあたりが。

  • 男は手女は足を入れ炬燵

に顕著ですが、漫画チックというのとも少し違いますね。

堂: たしかに浮世絵っぽいですね。形式の得意不得意をよくわかっているのかもしれないね。

五: そうですね。挙がった句の他には、たとえば

  • 遺言の録音をして柿一つ

ではもろもろの思いを周りから枯らしていって最後に柿一つに収斂させているんだけど、やはりタッチをできる限り単純にしていこうという美意識があるんだと思う。力業で一句みたいなものは少ない。

堂: あー、よくわかる。力業ないね、たしかに。

五: 力が抜けているんだよなあ。内容はやぶれかぶれなのもあるけど、言葉は全然そうじゃない。かなり計算された美意識が目につく。

堂: 今読み返していると、秋冬もよいですね。他に僕が好きだったのは、

  • 風呂に湯をためてをり虫鳴いてをり

です。静かな感じが。あと、シンプルさというか。俳句の良さが出ている気がする。

五: うん。

堂: さっき細かく言わなかったけど、

  • 息かけて止めるカタツムリの進行

も好きです。止めたあとまた歩き出すカタツムリの姿の時間の細かさ。

五: 堂園くんはこういう経験があるからね。僕はカタツムリは殻をむいて遊ぶものだったからなあ。

堂: 「もの」って。なにそれ。

五: いや、昔、子供のころに教えてもらったんですよ。小1のときに、近所の小6のお姉さんに。「こういうものだよ」って。

堂: え、すごい話ですね。

五: その人は小動物が好きでねえ。あと、椿の中にいる蛾の幼虫を手いっぱいに集めて愛でていたよ。

堂: 豊かな子供時代だなあ。

五: その椿はぜんぶうちの椿だったんだけど、ぜんぶ花をむしり取られてね……。

堂: えーっと、正直すごく興味あるけど、そろそろ次の人に行きましょうか。その話はまた今度ね。

五: はい。豊里友行さんですね。

堂: 僕がとるのは、

  • 地球独楽春夏秋冬痩せ細る
  • 夜のパンに鮫のかなしみをぬる
  • 自転車の車輪がみがく冬の空

です。一句目、地球独楽ってあれですよね。ひもひっぱると、回転するおもちゃ。あれって、ずーっと回っているんですよね。それが、なにかこう一年が流れて、どこか消耗する感覚にかかるのかな。

五: 「痩せ細る」には現代への風刺がやっぱりあるのかなあ。

堂: そうかもしれない。二句目は、ちょっと難しいけれど、夜のパンにかなしみを塗るのは、感覚としてわかります。そこに「鮫の」。これはたぶん、鮫の孤独っぽいイメージとか、攻撃性ゆえのさみしさとか、顔のイメージとか、そういうものを混ぜていっている。

五: 鮫って、本当は群れで狩りをしたりもするんだけどね。まあ、孤独なイメージはありますよね。

堂: 三句目はさわやかな感じが好きでした。ただ、全体的にちょっと難しかったかなあという気がします。

五: ぼくが選んだのは、

  • 轟音の鼠となり空齧るフェンス
  • 捨石か要石かと蜥蜴鳴く
  • 青蛙ニライカナイの地図をとぶ

です。「鼠」「蜥蜴」「青蛙」といった小型の動物に思い入れというか馴染みがあるんだと思います。ほかにもいろいろ出てくるよね。

堂: そういえばそうだなあ。

五: 沖縄をめぐる不条理を語るために人間ではない生き物が意図的に導入されているんだろうと思うんです。人間だとどうしても立場や思惑だけで読まれてしまうから、摂理みたいなものを語りにくいうらみがあるからかもしれません。もちろんそういう生き物に語らせること自体がひとつのギミックとも言えますが。

堂: そうですねえ。「沖縄」はとても難しいテーマですから、何らかの工夫は必要でしょうしね。

五: 二句目などは、「蜥蜴」が仙人みたいに石の上に乗って鳴いている絵柄が「捨石」「要石」の語からなんとなく想像されますね。といったところで、そろそろ次に。相子智恵さんに移りましょう。

堂: はい。僕のとったのは、

  • 北斎漫画ぽろぽろ人のこぼるる秋
  • 初雀来てをり君も来ればよし
  • 木犀や漱石の句に子規の丸

です。

五: 「初雀」の句はぼくも好きです。「君も来ればよし」という感情の発露が自然なかたちで、もっと言えば「もののついで」になされているのが心地よいです。

堂: そうそう。素直、というのとは全然違うけれど、立ち姿がへんにねじれてないんですよね。全体的な人格はおおらかというよりもむしろ修辞派だと思うけど、ふいにふっと余白が生まれるというか、ユーモアが入る。解説の甲斐由起子さんも「諧謔味」と書いていたけど、そういうのがいいのかな。一句目、三句目にもそういったところがあると思います。

五: そうですね。わかりますよ。一句の中にちょっとした余裕があるんですね。

堂: はい。一句目、北斎漫画で人が細かく動いている様。あれってちっちゃい人が色んな動きをしててかわいいんですよね。ぽろぽろって。で、その楽しくさびしい感覚でしょうか。二句目は、五島さんが言いましたが、「来い」じゃなくて、「来ればよし」が心地よい。三句目、「漱石の句に子規の丸」。文豪、という大仰さと「丸」のギャップ。たぶん、漱石や子規も俳句を楽しんでたんだろうなあ、と体感レベルでわかる。好きな句です。

五: 余白とか余裕というところで思ったんだけど、それが生まれることの一端はやっぱり切れが担っているんじゃないかという気がする。

  • 阿形の口出て銀漢や吽形へ

は好きな句ですが、散文的に言えば切れ字の「や」が「は」でも問題ないところです。でも広がりという点で言えば、やっぱり「や」の方が圧倒的にいいんですよね。

堂: たしかにね。

五: 全体的に言っても相子さんは「や」がとても多いですね。他に好きな句は、

  • 煽ぐほど鮨飯照るや桃の花
  • 雪掻の仕上げや軒の氷柱薙ぐ
  • 掌を当てて茅の輪に熱のありにけり

あたりです。一句目、鮨飯が美味しそうに仕上がってくるにつれて心も華やいでいきます。そこに桃の花の明るさが置かれる。掛け値なしの快ですね。二句目、この「や」も散文では「に」であるところ。以前の私ならこの「や」は拒否したでしょうが、今は違います。

堂: へー。違うんですか。

五: 大人になったということです。三句目、この熱の正体は人々の「罪」であると言っているわけではないけれど、かすかにそう感じさせる。そのほのめかし方が渋くて好きです。

堂: はい。ではそろそろ相子さんはしめまして、ふー、次はどうしましょう。

五: うーん、今日はちょっと時間ないし、今回はここでしめましょうか。

堂: そうしましょうか。またやりましょう。五島さん、ここ半年はなにしていたんですか?

五: 秘湯めぐりですね。

堂: ほう。秘湯めぐり。他には?

五: 他には何もしていませんよ?

堂: はー、してないんですか。それでは、半年間も秘湯めぐりのみを。五島さんは何者ですか。秘湯ハンターなんですか。

五: そんなところです。大楠温泉はおすすめですよ。昔、横須賀にあったんですけどね。今はもう建物しか残っていない幻の秘湯です。部活の合宿なんかにも使ったんですよ。

堂: 結局何をしてたんでしょうね。まあいいや。お疲れ様です。

五: お疲れです。

堂: お疲れです。

2011年1月16日 (日)

『新撰21』を読む(中編)

堂: こんにちは。短歌行です。

ごぶざたしております。

諸事情により、またこれほど更新が遅れてしまいました。

申し訳ありません。

今回の収録は、文中にもありますが、昨年6月でした。

どうか、そのつもりでお読みくだされば幸いです。

それでは、どうぞ。

※※※※※

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 六月。雨の短歌行です。

五: 今日は弘明寺(ぐみょうじ)に来ています。午後四時です。

堂: 到着早々少し小腹が空いたので、鮨屋に行きました。いや、昼の鮨屋はいいですねえ。

五: はい。僕はバッテラをいただきました。押し鮨って好きなんだよね。魚の風味がよく出ててさ。

堂: 僕は金目鯛を食べました。うまかったなあ。

五: 鮨はとてもよろしいファーストフードですね。

堂: そして今はガスト。弘明寺はどんな町ですか? 神奈川博士の五島さん。

五: 弘明寺といえば何と言っても桜ですよ。京急線の駅を降りて駐輪場の上の階段をのぼると公園があります。そこの桜がとってもいいんです。

堂: もうすっかり葉桜ですけどね。

五: 小雨と葉桜だね。そして、公園を抜けると小高い丘に住宅街が広がっていて、これまたとってもいいんですよ。さびれたクリーニング屋さんとか駄菓子屋さんとかもあって。ただの住宅街ってすごくいいよね。何で?

堂: なんでだろうなー。僕も休日はただの住宅街をひたすら歩いたりするんですが、すごく喜びを感じる。あ、この庭バラが咲いてるや、とか。

五: いいですよね。

堂: ところで、ここ弘明寺は弘明寺観音が名物です。家庭教師で何度もこの町を訪れている五島さんは当然……。

五: 一度も行ったことありません。

堂: だと思いました。では始めましょう。

五: 「『新撰21』を読む」の中編です。

堂: それではさっそく前回の続きから。中本真人さんです。前回と同じように句を挙げつつやりましょうか。では、挙げます。

  • 野遊のボールに腰を降ろしけり
  • それらしき穴のすべてが蟻地獄
  • 釣具屋の磯の匂ひの水を撒く

一句目、サッカーボールとかバスケットボールとかの大きさのボールに屋外で座る。今はあんまり球技をやらなくなったからやらないけど、そういえば中学くらいのときはしょっちゅうボールに座ってました。

五: ああ、座った座った。座ると急に疲れた気がして、足元の草に目をやったりね。空を見上げたり。

堂: そういう風通しのよいイメージに惹かれました。二句目、家の庭とか砂場とかに、なんか穴がいっぱいある。それはみんなアリジゴクの穴だと。「それらしき」が面白い。そういえば、あの穴、あるとなんか気になってしまうよね、というところをとらえている。

五: うん。

堂: 三句目が一番好きかな。釣具屋って、私、見ると、おっ釣具屋だとか思うんですけど、その釣具屋から撒かれる水もなんか普通の水じゃなくて、特別な水なんだというのが少し嬉しいというか。まあ、海のそばだろうから、磯の匂いでも普通なんでしょうけど、こういうふうに詠まれると、お、水までいいなというか、撒いてんな、というか。

五: 三句目、ぼくも一番好きかもしれません。この釣具屋ってたぶん田舎の小さな釣具屋ですよね。オキアミとかイソメとか売っているから、独特の磯臭さがある。そういう店の中の感じとか、潮風の匂いとか、そういう諸々がぱーっと思い出されるんですね。こういう句を読むと、俳句って二物衝撃みたいな手法よりも似つかわしさを生かしていく手法のほうが合っているのかなあ、なんて思ったりします。

堂: 似つかわしさってどういうこと?

五: 釣具屋→磯臭さ→海風みたいな自然な連想が働くってことかな。もちろん二物でいい句があるのは分かるけどね。

堂: もしかすると、二物のほうがハードルが高いのかな、分かんないけど。

五: せっかく多くの人が共有している連想の体系があるんだから、それを使わないってい手はないかもって。中本さんのこの句だと自然にああ、おれもメバル釣ったことある、とか、ルアーってかわいいよねとか思ったりするじゃない。二物だと、読者ももっと頭を使わないといけないから、そこまで広がらなかったりして、読み手によっては含める情報が少なくなってしまう気がするのね。読者を選んでしまう。

堂: それはあるかもしれませんね。しかし、ルアーかわいいか? いや、かわいいけどさ。

五: まあ、だからといってどっちが優れているという話ではないんですけどね。

堂: ふむ。五島さんは中本さんではどんな句が良かったですか?

五: 釣具屋の句と、あとは、

  • 落第のすぐに広まる噂かな
  • 登山口よりいきなりの難所かな
  • 遠泳の二の腕に書く背番号
  • 顔舐めに犬寄ってくる帰省かな

あたりです。一句目、「落第の」から「噂」までに7音分の距離があって、そこにそこはかとない感慨が入り込みます。

堂: ふむ。

五: 人の口に戸は立てられませんね、堂園くん。

堂: 長屋のご隠居ですか。

五: 二句目、びっくり感が出てて、結構生き生きしている。

堂: そうだね。いきなりの難所に入ると、お、山だな、と気持ちが山へ入り込みますよね。それが、句を読むときにもシンクロして、ぐっと山道に入るように、ぐっと句に入り込める。いい句です。

五: いいこと言うね。三句目、質の良い筋肉が見えますね。「二の腕に書く」がすごく効いている。晴れててほしいな、この句の風景は。四句目、そういえば、前回の藤田哲史さんにも帰省の句があったような。ああ、これこれ。

  • 粉わさび醤油に溶かす帰省かな  藤田哲史
  • 顔舐めに犬寄ってくる帰省かな  中本真人

どっちも好きだけれど、どっちがいいかな?

堂: う~ん、そうだねえ、「粉わさび醤油に溶かす帰省かな」かな。

五: どうして?

堂: どうしてかー。うーん……、句の価値とはぜんぜん別かもしれませんが、個人的に僕は犬に親しんだ経験に乏しくて、うまく自分の中で再生できなかったのですね、この感情を。それよりも醤油に親しみがありまして。

五: わたくしも犬よりも醤油に愛情を持っている口ですけれども、どっちも帰省っぽさがよく出てて甲乙付けがたいなあ。藤田さんの句のほうがなんとなく可笑しみがあって、中本さんのほうがすっきりてらわない感じかな。

堂: うん。

五: でも俳句って文字数が少ない分だけ個人的な経験値によって好みが分かれるような気がするなあ。

堂: そうかもしれませんね。まあ、短歌よりも読み慣れていないという経験値の差も否めないですけれども。

五: そういえば中本さんは上から下まですっきりした感じの句が多いですね。そして、最後に「けり」「かな」が多い。

堂: あー、そう? 数えてみようか。ひー、ふー、みー……。うわ! 38句もある!

五: 実に40%ですね。これは多いんじゃないでしょうか。

堂: 『新撰21』でその次に並んでいる高柳克弘さんは、えーと、イー、アル、サン……。25句ですね。

五: やっぱり多い。

堂: あと、さっきから読んでても分かるけど、やはり季節を大事にしている感じがありますね。それが伝わってよかった。

五: それでは次に高柳克弘さんです。好きな句は、

  • 浴衣着て思ひがけない風が吹く
  • 目を寄せて試験管振る木の芽かな
  • うみどりのみなましろなる帰省かな
  • 入れかはり立ちかはり蠅たかりけり

です。一句目、洋服では感じられない風なんですね。「思ひがけない」が目立ちすぎるような、でもやっぱりこれでいいと思わせるような。少し判断に迷うんだけど、好きな句です。

堂: あ、その句覚えています。けど、うーん、ちょっと嫌かな。ちょっと。

五: どうして?

堂: 思いがけない、って言ってるけど、なーんか思いがけなくないだろう、その風は、と。

五: たしかにそこが少し人工的な感じがするんですよね。三句目、これも帰省ですね。「うみどりのみなましろなる」がドラマチックです。「醤油に溶かす」や「顔舐めにくる」のアナログ感がなくて、もっとずっと観念的っていうのかな、だいぶ味わいが違いますね。四句目、「入れかはり立ちかはり」の感触が説明しがたいんだけど、たしかに蝿ってそうだよね、と思わせられるというよりも、映像美みたいなところに力点があるような気がする。三、四句目共に、若干出来すぎな感じがあって、手放しでいいとは言いにくいけれど。

堂: そうですね。かなりデジタルな把握な気がします。「うみどりのみなましろなる」も、「あれ、さっき黒いのいませんでしたっけ? 高柳さん」と言いたくなる。

五: トビもいたしウミウもいましたよってね。でも「みなましろなる」が帰省をドラマチックにしているんですね。心情をがちっと固定していく。二句目、「目を寄せて試験管振る木の芽かな」は一番好きな句です。一生懸命目を見開いている感じが木の芽の生命感というか息吹に合っている。景色がぱっと窓の外に飛ぶのが気持ちいい。

堂: 私がとったのは、

  • 秋の暮歯車無数にてしづか
  • くろあげは時計は時の意のまゝに
  • 秋冷や猫のあくびに牙さやか

あたりですかね。全体的に抽象的、かつコントロールの利いた把握だなあ、と。一句目、時計か何かの機械か分からないけど、歯車がたくさんあって、それが動かないでいる。その美しさだったり、怖さだったり、世界のルールみたいなものを見ようとしていますね。それが秋の暮っていうのも、滅びの予感みたいなとこで雰囲気に合っている。まあ、「秋の暮かー、ベタだなー」とも思いましたけれども。

五: ふむ。

堂: 二句目、これもルールですね。こういうふうに言われると、確かにそうだな、と。普段見ているものの裏側を見せられたようなね。

五: 僕は二句目は嫌だなあ。生理的に。いい句だと思いもするんですけど、なんか希望がない。時の意のままでいいのか、と思ってしまう。僕らは単に時の乗り物ですかって。

堂: そこらへんも非常にデジタルな把握だね。ドラマチックさを前面に出すために、現実の複雑さは犠牲にしている。でも、記憶に残るよね。これだけクリアーに提示されると。

五: それはその通りですね。しかも百句通読して安定している。短歌の若手では光森裕樹さんの、角川短歌新人賞受賞作について、デジタルだと言ったことがあるんだけど、どこか冷めていて(?)理知的で安定度の高い印象は共通しているような気がします。光森さんは最近は作風が変わってきているけど。

堂: そうですね。私も光森さんを思い出しました。

  • ストローの向き変はりたる春の風

のON・OFFに切り替わる感覚とか、

  • 文旦が家族のだれからも見ゆる

の視界を幾何学的にとらえるところとか、

  • 六面のうち三面を吾にみせバスは過ぎたり粉雪のなか   光森裕樹

を思い出します。素材の好みもどことなく似ている。

五: 「文旦の家族のだれからも見ゆる」は

  • 柚子風呂の四辺をさやかにいろどりて湯は溢るれど柚子はあふれず   光森裕樹

も思い出しました。

堂: 読みどころがこれだけきっちりしているのは、なかなかできないし、目に留まりますよね。僕のとった三句目「牙さやか」なんて、きらっとした把握が冴えている。

五: うん。というところで次に。村上鞆彦さんです。

堂: では挙げます。

  • 万緑や鞄一つが旅の枷
  • 月の夜の大きな橋と出会ひけり
  • 街灯下寒の轍の殺到す

一句目、いいですね。旅の感覚よく出ています。鞄は旅の必需品で、他は手放せてもそれだけは手放せないものだけれど、これさえなければより自由になれる。それが、自由にどこにでも行けるけど、自由にどこにでもは行けない感じ、あの旅の最中の独特な気分をよく表しているなあ、と。「万緑」も効いていますね。

五: 僕もこの句が一番良いと思いました。「枷」という言い方が身軽さ、自由さを求める気持ちを引き立てている。でも何もかもはうまくいかない、空想の自由さに浸りきらない感じがとても気持ちいいです。空想に浸ってしまうといろんなものが見えなくなってしまいますから。

堂: 二句目は「橋」がいいですね。特別なものに出会ったわけではなく、たくさんある橋のひとつだと思うけど、それが月の夜の散歩への距離に合っている。こういう特別じゃない特別さって、日常にあるなあと思って。

五: うん。

堂: 三句目も、そういった感じの句かな。冬の街灯の下にたくさん自転車か自動車の轍が見えて、それになんか心打たれる、と。100年ほど前のアメリカの、アルフレッド・スティーグリッツの写真とか思い出しましたね、私は。ただ、「街灯下」はちょっとつまった感じがして。「街灯に」じゃだめなのかな。

五: そこが少し残念だよね。でも情景はすごくかっこいい。僕の好きな句は「旅の枷」のほかに

  • 伊勢海老の髭の先まで喜色あり
  • うしろより手が出て恋の歌かるた
  • つむりては眼いたはる青葉雨

などです。一句目、立派な伊勢海老を手放しで賞賛しているのがいい。おおーっ、いい伊勢海老だ、という感じ。「喜色」は伊勢海老のものではあるけれど、作者の顔もほころんでいる。

堂: うん。

五: 二句目、なんとなく格言めいていて面白い。いやあ、恋って怖いですね。

堂: いきなりなんですか

五: 三句目、眼精疲労はつらいけれども青葉雨がしっとりとあたりをつつんで優しい。眼をつむっても雨と青葉がふっと香ります。

堂: 無視か。ともあれ、三句目もいいですね。全体的には、地味なんだけれど、抽象に向かって半歩、歩を進めるようなところがあって、それが特徴かなあ。無理に飛ぶのではなく、堅実な印象。

五: そうですね。それから、こぼれるもの、消えるもの、傷むもの、を句にしているのに、あるいは、しているからか、背後にとってもロマンチックなテイストがあるのが特徴だと思いました。

  • 父の日の夕暮れの木にのぼりけり

とかにその特徴がよく出ている気がします。この句はこぼれるとか消えるとかはないですけど。

堂: はい。では次に、冨田拓也さんです。

五: 好きな句は、

  • 気絶して千年氷る鯨かな
  • 晩秋の夢殿を掌(たなごころ)かな
  • 眼にのこる鉄(くろがね)の旗いなびかり

です。一句目、「気絶して」がいい。死んでいるんじゃないですね。また動きだす。千年王国の連想で、鯨はメシアか!? というような風情。神話っぽい。同時にマンガっぽい。

堂: はー、千年王国。そんなことは、私は思いませんでしたが、この句は印、ついていますね。やっぱり「気絶して」かな。ちょっと意外。死んだりすると、より視野が狭まる。気絶のほうが視野がやや広い。

五: 二句目、「掌」に焦点を絞っているのがいい。「掌」だけが夢殿を浮遊しているような感じがして。山岸凉子の『日出処の天子』を思い出しました。

堂: あー、僕は掌の上に夢殿があるのかな、と思いましたが。

五: そうか、そうかもね。三句目、稲光が明るいので残像は黒っぽい。それを「鉄(くろがね)」と言っているんですね。「鉄(くろがね)の旗」は何を意味するのか。

堂: 何なのでしょう。

五: 思い出すのは山中智恵子の

  • この問いを負へよ夕日は降(くだ)ちゆき幻日のごと青旗なびく

の「青旗」。山中にとって青旗は一生をかけていくべき問いであり、魂の道しるべだったんですね。それはたぶん肉体を離れた思想はどこまで行けるのか、という問いで、正統なメタフィジックの要素を多分に含んでいます。それに対して冨田さんの「鉄の旗」はどことなく「魔王」っていうか、ロボットっぽい。不吉さとか不安の象徴っていうふうに読んでもいいんだけど、RPGで倒すべき魔王軍のの旗印みたいな感じに、チープに読みたい気がする。何でかなあ。

堂: あ、そうなんだ。五島さん、ほとんどテレビゲームやんないのにね。まあ、分かりますよ。あまり象徴性を取りすぎると逆に面白みが減ってしまう気がする。

五: たぶんだけど、背後に何か背負っている、とあまり読まないほうがいいような気がする。ほら、前衛短歌、塚本邦雄とかは「戦後社会」が射程に常に入っているわけじゃないですか。冨田さんはそうじゃなくて、もっと単にこのイメージすごいでしょって、趣味的に提示している気がするんですよね。

堂: はー、なるほど。

五: ロボットアニメのロボットに、別に実際的な意味はないけど、ただかっこいいから角をつけるとか、いかつい装飾をいっぱいつけるみたいな、そういう男子的な趣味を感じるのね。そして、それはそれで豊かなものだと思うんです。もしかしたら、全然的外れなことを言っているかもしれないのを、覚悟して言うんだけど。

堂: うーん、どうだろう。僕はそこまで断言できないかなあ。僕の採る句は、

  • 黒揚羽旅は罅(ひび)より始まりぬ
  • 芹たべて一日一日をまぼろしに
  • 自転車のうすくひかりぬ緑の夜
  • しぐるるや水底にあるオートバイ

です。二句目、「芹」が効いているね。毎日毎日山菜ばかり食べて、一日一日の感覚が薄くなっていく、って感じかな。三句目は、「緑の夜」が良くて、夜の自転車は発光しているように、私も見える。四句目、見えてないオートバイの存在感。全体的に抽象性が高くて、空中に絵を描くような。

五: はい。というところで4人終ったね。7人いきたいところだけど、日もすっかり暮れたし、今回これくらいで締めますか。

堂: そうだねー。雨に体力を奪われたしね。

五: 今日はどうでしたか? 堂園くん。

堂: やっぱりガストだと、体力の低下が著しいね。前回の五島さんのご友人のお店が居心地がよかっただけに。

五: それはたしかに。前回は途中で自由にウイスキーもいただけたしね。

堂: 弘明寺自体はいい町なんだけど。ガストがなあ……。僕の頼んだロールケーキ、クリームが凍ってたよ!

五: しかも漂白したような白さのクリームだったね。

堂: あー、こんなんじゃなくて、もっとおいしいものが食べたいよ!

五: はいはい。じゃあ、どっかビールでも飲みに行こうよ。

堂: そうしようそうしよう。「『新撰21』を読む」はまだまだ続きます!

五: 次回はちょっと更新が先になっちゃうかもしれないですね。でもなるべく早く。

堂: はい。

五: では今回の気分に合わせて、今日は「ダウナーな食べ物しりとり」をしながら行こう。

堂: え~、今度はダウナーかー。難しいな……。

五: 早く。

堂: ちょっと待ってくださいよ。うーん……。

五: はやくはやく。

堂: 駄目だ思いつかない。アッパーな食べ物ならたくさんあるけど、ダウナーな食べ物ってあるかなあ!?

五: あるよ。牡蠣フライ。

堂: 牡蠣フライ!? なんで?

五: あんまり好きじゃない。

堂: 嫌いなだけじゃん。

五: 生牡蠣はうまいのに。フライにしないで生で食べようよ。

堂: え~、じゃあ、僕はさっきのロールケーキ。

五: ああ、あれは非常にダウナーだね。

堂: なんか趣旨が変ったところで締めますか。

五: はい、お疲れさまです。

堂: お疲れです。

2010年5月13日 (木)

『新撰21』を読む(前編)

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 初夏ですね。短歌行です。

五: 今日は横浜から3駅、黄金町に来ています。

堂: 黄金町。すごい名前ですね。なんか変わった町ですね。

五: 今はそれなりに小奇麗な町になっているけど、一昔前は相当治安の悪い町だったんですよ。それこそ夜に一人で出歩けないような。

堂: いわゆる「ちょんの間」という売春のお店がたくさんある、青線地帯だったとか。今も風俗店とか多いですしね。しかも大通りに堂々とあります。

五: 4,5歳のときだから、1980年代の黄金町に来たことがあります。誰かの家に珍しいサルがいっぱいいるというのでそれを見に。僕は横須賀の田舎から来たので、なんかすごいカラフルな町に来たなあと。すごい強い印象が残っています。

堂: 猿はどんなサルだったんですか?

五: メガネザルみたいな小さいサルがいっぱいいましたね。たぶん外国から連れてきたような。かわいいから触りたかったんだけど、「あぶないから触るな」って言われて悲しかったなあ。

堂: へえー。しかし、珍しい猿を人の家に見に行くってすごい思い出ですね。悪夢っぽい。黄金町にぴったりだなあ。

五: そうそう。

堂: 昔はそんな感じだったんですね。しかし、さっき散歩したら商店街、面白かったですね。

五: コロッケ30円だったね!

堂: よい意味での昭和の商店街でした。すばらしい。お惣菜とか、魚とかおいしそうだったな。太刀魚が5尾で1000円でしたね。あと、子供が超真剣な顔で車えびが泳いでるのを見てた。

五: 堪能しましたね。天気もよいし、最高。

堂: 商店街最高。

五: 最高。

堂: では、そろそろ始めましょうか。

五: はい。今日は僕の友人が一日店長をしているカフェの2階からお送りします。

堂: 実はさっきの散歩はお手伝いの買出しでした。

五: では今日のテーマは、『新撰21』を読む」です。

堂: 先日出版された、若手の俳句アンソロジーですね。

五: 最近俳句の若手が元気だという話が方々から聞こえてくるので、俳句を取り上げたいと思っていたんだよね。

堂: で、よいタイミングで出た『新撰21』を読んだら面白かったから、短歌行で取り上げようとなったんです。

五: 俳句行だね。

堂: 我々は俳句は門外漢なので、どういうふうに読んだらいいか、正直、短歌ほどは分からないです。俳句の勘所がどこか、いまいち自信はない。

五: そうだね。ちょっと分からないところがある。先行作品の影響とか。

堂: ただ、いつものようにひとつひとつの作品に触れていけば何か分かってくるかなと思います。

五: ですね。

堂: 自信はないけど。

五: 頓珍漢なことを言うと思いますが、そのときは優しく教えていただけるとうれしいです。でも歳時記って面白いよね、変った言葉がいっぱいあるし。子供のころ、遊びに行くより祖父の歳時記を読んでたほうが面白いなあと思ってたぐらいだからね。

堂: へえ。相変わらず変な子供っぷりですね。じゃあ始めましょう。

五: はい。いつものように全員分やります。本のアタマから順番に一人ずつ取り上げましょう。

堂: では一人目。越智友亮さんです。どうでしたか、五島さん。

五: 好きな句をいくつか挙げると、

  • 暇だから宿題をする蝉しぐれ
  • 草の実や女子とふつうに話せない
  • 重力が人にほどよしハンモック

あたりです。一句目、夏休みの宿題と蝉しぐれの取り合わせはとてもベタなんだけれど、だからといって悪いとは言えないのが不思議なところです。「暇だから」あたりに時間を湯水のように浪費できるという夏休み特有の気だるさがよく出ている。

堂: 「暇だから」はかまえたところのない言葉ですね。だからこそ出ている気だるさだ。

五: かまえたところが無いだけに個性っていうよりも万人の持っている観念にアクセスできる。それを極端にすると、

  • 通学の電車とバスと桜かな

になる。これは読んでいてのけ反りましたね。びっくりした。これでいいのかあって。

堂: うん。言いたいこと分かります。

五: これにOKを出すのか出さないのかにとっても興味がある。堂園くん。

堂: うーん……、そうだなあ、うーん、うん……。出さないね。やはり。

五: なんで?

堂: のけ反る感じも分かりますし、好感を持って読んだけど、心の喜びは感じなかったかな、自分でよく考えたら。一読したときはこの句はスルーしちゃったし。

五: 個性とか表現意識みたいなものを求めるとそうなるよね。僕も悩む。OKを出すかどうか。

堂: 悩むよ。

五: でも、僕はこの句を読んだときに心の喜びはあったよ。だから僕はこの句にはOKを出します。

堂: そうかー。僕はなかったなあ。

五: これぞまさに通学だなあって。

堂: ただ、この句はさっき五島さんが言ったみたいに、「極端にすると」だと思うんだ。その「極端」には僕は反応できなかったけど、さっき五島さんが挙げた「重力が人にほどよしハンモック」は好きですね。重力→ハンモックの流れは素直だと思うけれど、その力みのなさが、非常に緩やかな雰囲気を出している。いいなあと思った。

五: うんうん。

堂: 僕は他に、

  • 地球よし蜜柑のへこみ具合よし

が好きだったなあ。「地球よし」という大きい肯定が気持ちいい。

五: 僕も印つけた。ただ「地球」はどうかなあ、ちょっと構図っぽすぎるような気もする。

堂: うーん、まあね。確かに。

五: 全体的にはどうだった?

堂: 一連を読んでて自然に好感を抱きました。嫌みなところがない。読者に反感を抱かせないなー、と。そういうところが個性なんでしょうね。

五: あと季語の力を生かしているところもいいと思った。さっき挙げた「草の実や女子とふつうに話せない」の「草の実」とか効いているよね。季節感と心の萎縮した感じの取り合わせ。

堂: 「草の実」のちっちゃい感じね。

五: はい。では越智友亮さんはこれくらいで。次は藤田哲史さんです。

堂: では今度は僕が良いと思った句を。

  • ペンギンの飛び込むに岩濡れて秋
  • めつむれる木乃伊に展示室涼し
  • 紐あれば結界となる秋の暮

一句目は目の付け所が面白い。二句目は木乃伊の存在感かな。ミイラって展示室にデンとある感じだし、ミイラに対面したときに、細かいディティールを観察するよりも、なぜかこの部屋寒いなーとか、そっちを思ってしまうのは、なんか記憶にあるな、と。三句目は渋い感じが好きです。秋の暮も効いていると思う。

五: じゃあ、僕も。

  • 三人が傾きボブスレー曲がる
  • 海に沈め泡盛醸す快楽かな
  • 御所の警備かつては弓や猫じやらし
  • 粉わさび醤油に溶かす帰省かな

あ、四つになってしまった。一句目、ちょっとコミカルで楽しい。力感がよく出ているし言葉に無駄がないと感じます。二句目~四句目もなんとなくユーモラス。この四句にはなんとなく共通点があります。

堂: そうですね。ユーモアがあって、ちょっとズレてる。で、そのユーモアが、少しの豊かさにつながるのがよいなあ、と。バーっと世界が広がる感じではないけど、ちょっと広がるんだよね。世界が。「御所の警備かつては弓や」と言われると、ちょっと世界が開く。ピョッと。ちょと。

五: 何度も「ちょっと」と言ったね。

堂: いや、この「ちょっと」がけっこう大事かなと思って。

五: 若いのに粋だよね。あんまりきっちり作りすぎず、主張しすぎず一歩引いた地点から言葉を出している感じが出ている句が僕の好みかな。

堂: 「三人が傾きボブスレー曲がる」は五島さん好きそうとなんとなく思った(笑)。

五: うん好き。堂園くんの挙げた「紐あれば結界となる秋の暮」も好きです。「結界となる」で句の焦点がぐっと絞れている。でも一句目の「濡れて秋」はどうかなあ。「秋」が取って付けたような感じもする。

堂: それは僕も少し感じました。

五: ちょっと気になる。

堂: はい。では、次は山口優夢さん。

五: ダイナミックな句が結構あるなと思いました。

  • 三十三間堂中が冴返る
  • 曇天の下を雲飛ぶまむし草

特に二句目は「まむし草」の不気味な感じが天気の不安定な感じと合っている。

  • 目のふちが世界のふちや花粉症

も好き。花粉症で目がはれて、視界が狭くなってっていうような連想が働く。近すぎず遠すぎない「花粉症」はいい気がします。

堂: 僕は

  • 水温むかがやきやすき若白髪
  • 心臓はひかりを知らず雪解川
  • あぢさゐはすべて残像ではないか

あたりが好きです。全体的に頭がよいというか頭のよさを恃みにしている印象。それがダイナミックさにつながるから、観念性が強いのかな、と思いました。

五: 「かがやきやすき若白髪」はいいよね。百句読んでいくと、文体にはかなり幅がある感じがして、悪く言うとブレのようでもあると思うんですけど、その分思い切った文体を使ったりしていますよね。

堂: たとえば?

五: 

  • 小鳥来る次にからすがやって来る

とか。同じ山口さんに

  • 真っ白な塔あり長き晩年あり

というのもあって、文体の違いが面白いなと思いました。この二句だと上のほうがいいかな。

堂: どちらかといえば、僕は下のほうがいいかな。まっすぐ立っている塔のイメージが、ある人の晩年の長さにかかってくる。塔のイメージから、その人が自身にプライドを持っていることが分かる。その象徴のさせ方がなるほどなと。

五: でも、ちょっと理が勝るような。上のほうがしなやかな感じがする。「小鳥」と「からす」ってくくりが小鳥の方が大きくて具体性がないですよね。すずめとかめじろとか、とにかく小さい鳥っていう意識。ある意味適当なくくりです。だから意識の上で「からす」に大きな比重がかかっているのが分かって、なんだかリアリティがあるんです。「からす」って存在感あるじゃないですか。「げ、からすだ」とか「お、からすだ」とか思いますよ。目に入ると。

堂: 二句目の理が勝るのも、分ります。ただ、そう言えば「小鳥来るつぎにからすがやって来る」も実感というよりも、十分観念的ではないかな。この句は

  • ビルは更地に更地はビルに白日傘

と同じような感じがする。どういうことかというと、実際に小鳥とからすを見た驚きというより、「物事は連続するんだなあ」という観念を表している気がする。もっと抽象的な世界の把握だと思う。

五: はー、なるほどね。そうかも。面白いね。

堂: 山口さんはたぶん観念につながりやすいというか、ダイナミックが好きなんだと思う。さっきも言ったけど。

五: ダイナミックフェチなのかもね。「小鳥来る」が観念性に抜けるのは分る。「からすがやって来た」じゃないし、実際に見ているとは限らないからね。でも、からすの存在感、質感、を通路にして観念性に抜ける。そこにリアリティーが生まれているような気がします。「塔」の句は通路がなくてはじめから観念的なので、理が勝る感じがするんだと思う。

堂: うーん、そうかもね。

五: あ、あと、

  • マフラーの中の眠りと目覚めかな

も好きな句です。時間的なダイナミズムがあるよね。

堂: おおなるほど。このダイナミックさは、ぜひもっと先鋭化させていって欲しいですね。我々はダイナミック、大好きなので。では次に、佐藤文香さんですね。

五: はい。まず作句信条がいいね。「俳句ラブ」。

堂: ラブ。

五: 「それも本気で。」で改行して一行空いて、「俳句ラブ。あなたも。」と飛ぶのがレトリカル。

堂: うん。

五: 「俳句ラブ」は俳句本当に好きなんだなあ、と思うし、さらに「あなたも。」と言われると、もしかすると僕も俳句好きだったかもと思ってしまう。

堂: 俳句好きだったんだよ、たぶん。

五: たぶんね。

堂: じゃあ、僕の好きな句を挙げると、

  • かたまりの雲が遠くにある花野
  • あけがたの詩集に頁毎(ページごと)の冷え
  • 知らない町の吹雪のなかは知っている

ですね。

五: 「かたまりの雲が遠くにある花野」、良いですよね。広々としてて。

  • うづくまれば小さくなるなり花野原

も逆説的に広さを感じさせます。

堂: あ、それもいいと思った。二句目も手触りがあって好きですね。三句目はどうですか、五島さん。

五: うーん、これはあまり好きではないです。吹雪を出せば全部初期状態。だからどこも同じっていうのは……。

堂: たしかに。でも、この句を読んだときに、なるほどな、とすごく思ったし、あらゆる町の吹雪のなかは知っているという思うと、自分が広がる感覚があると思います。

五: 「知っている」と言い切る感じがたくましいと思うけど、連想として、吹雪で全部帳消しになって、その帳消しの場所はすべての根源みたいな場所であり、一番はじめに私もいた場所だから、だから知っているっていう風に読めてしまった。僕の好きな句は、

  • 梅雨晴の広告塔を母と思う
  • 国破れて三階で見る大花火
  • 嗚呼(ああ)夏のやうな飛行機水澄めり
  • 祭まで駆けて祭を駆けぬけて
  • 風はもう冷たくない乾いてもいない

などです。全体的に言葉ひとつひとつが強くてたくましいと思いました。そのことと微妙にリンクするんですけど、二句目、国がなくなっても花火は上がっているだろうって、心のどこかがどっしり落ち着いている感じが何か分かる。

堂: 説得されるなあ。言葉が強い。でもギクシャクしていないところがうまい。

五: 奇妙に落ち着いている。

堂: 三句目、いいですね。さわやかで。

五: 五句目は評価は難しいですけど、確信を持って言っているのが伝わってきます。それから、

  • 秋草の渦巻(うずま)くことも人の家

っていう句、「人の家」という落とし方がなんとなくレトロ(?)で渋いんだけど、「渦巻く」が強い。ここが現代のひとつの言葉の様相かなと思った。

堂: どういうこと?

五: 前衛っていうモードでもなく、かといって客観写生とか、あくまで生活に寄り添うのでもない行き方っていう感じ。レトロと強さが両立する感じっていうのかな。うまく言えないけど。

堂: ふむ。佐藤さんは、たくましさが特長な気がしますね。では次は、谷雄介さんです。

五: 挙げます。

  • 奥山に曙光いたれり鳥兜
  • 田楽のぶつかつてゐる皿の上
  • 一本の柱を崇め夏休み

一句目、何か花札みたいな絵柄だなあとまず思います。奥山とか、フェイクっぽいですよね。そう思うと、鳥兜の、紫の花や毒がやっぱり何かフェイクっぽくて結構決まっているなあという驚きがありました。二句目、田楽のぷりぷりだけ取り出していて面白い。三句目は宗教ごっこ。全体的にフェイクなトーンは共通です。

堂: フェイク。たしかに。他の句にも、全体的にそういう雰囲気ありますね。僕の好きな句は、

  • 冬の暮おほきな穴を掘りたくなる
  • 大いなる椿となりし椿かな
  • 焼跡より出てくるテスト全部満点

とかかな。フェイクともつながるけど、一連に「無意味の意味」みたいな姿勢があって、一句目なんかそれが顕著かな。それはとても俳句的ではないか。二句目も椿は椿のままだけど、こう詠むと椿のままでどんどん巨大化していくような。三句目もよく分かんないけどおっかない。

五: うん、椿の句は「大いなる」と面白がって言ってしまうところが逆に信仰の無さを表している感じがしますよね。

堂: そうだね。この感覚は短歌の若手で言うと、「町」の吉岡太朗さんとか、望月裕二郎さんを思い出しますね。以前の回でやったけど。

五: 分かるなあ。世代で言うと、25歳くらいから下。それも男子。もちろんその世代全員が全員こうではないですけど。特徴が出ている。

  • 扇もて水を運んでゐたりけり
  • 屏風もて運ぶ草生す屍かな

のセットには笑ってしまいましたけど、自分の部屋の中で遊んでいる。

堂: うん。自分の部屋の中だね。

五: でも笑ってしまったからにはやっぱり外に通じるものはあるんだと思います。

堂: 笑ったら負けですよ。

五: 負けました。(と句に向かって頭を下げる)

堂: あと、

  • ヤクルトレディに蜜柑をぶつける未来の遊び

も笑いました。ただ、なんていうか、「小劇場感」というか、そういう感じがどうもなあ。小劇場でなにが悪いのか、と言われると、別に悪くないけど、どっか楽屋落ちというか、横を見てニヤリというか、もっと大きなものが見たくなる。読んでると。

五: そうだね。でも、「田楽のぶつかつてゐる皿の上」とか言えるのがいいよね。

堂: それは本当にそうで、季語の強さ、俳句の強さだと思うけど、この「田楽」はなんてことのない言葉だけど、それでも歴史を背負っている言葉で、谷さんが自分でコントロールしきれない部分のある言葉だと思う。俳句を作るとそうした言葉を含まなくてはいけないところが、言葉全体の複雑さを増している。全部自分の中から言葉を出していくと、だんだんつらくなってしまう気がする。こういう作風だと。

五: では次に外山一機さんです。

堂: 好きな句を挙げます。

  • 母訪へばあまたの柘榴裂かれたる
  • 妹二人頻り蹴りあふ冷夏かな
  • 神父らの弱き野球やかきつばた

などです。特に二句目かな。ちっちゃい子がはしゃいでるところ。「冷夏」もよい。「猛暑」だとダメで、やっぱり少しひんやりしたイメージがここで効いていると思う。

五: 二句目、僕もいいと思います。それ以外には、

  • 川はきつねがばけたすがたで秋雨くる
  • 物売りの胸があかるし雨蛙
  • よくふえる兎をもらふクリスマス

あたりが好きかな。

堂: 奇想、イメージの句が多いですね。そして、

  • 梨を落とすよ見たいなら見てもいゝけど
  • よもつひらさかそこは三杯酢がいるの
  • バスタブ洗ひつつ人参の自生が怖い

など、ちょっとずらした句が目立ちます。こうした句は笑うのか笑わないのか、読んだ人が微妙な表情になる句だと思うけど、そういう風になんともいえないところに人の思考を持っていく、現実をずらすことがやりたいのかな。

五: そうだと思う。ちょっと気持ち悪くなるような微妙な路線の句が多いですよね。

堂: ただ、そのずらし方がちょっとピンと来ないというか、「三杯酢、うーん……」、「人参……、分かるけど……」と、ちょっとためらってしまう。たぶん、そういうギリギリを狙ってるはずだから、こっちの俳句感度が鈍いかもしれないですが。

五: 句で説得しようっていうよりも、読者の頭にふわっと奇妙なスライドを映写するという感じ。「川はきつねがばけたすがたで秋雨くる」だと、川がきつねだったら秋雨の雨つぶはきつねに降っている。じゃあ雨つぶがまざった川はやっぱり全体がきつねなのか、っていう風にどんどん連想が浮遊していく。そういう味わいのぼかし方が持ち味かも知れませんね。

堂: そうですね。では次に神野紗希さんです。

五: 好きな句は、

  • トンネル長いね草餅を半分こ
  • 今鮎が跳ねたと言って立ち上がる
  • 明け方の雪を裸足で見ていたる
  • 涼しさのこの木まだまだ大きくなる

などです。全体にサービス精神を強く感じます。それから、良いと思った句には、健やかさがある気がして四句目なんか特にそう思うんだけど、自然の事象に対してとても伸びやかな反応をしていて、そこがいいと思います。

堂: 僕も一句目、とても好きです。他には、

  • 白鳥座みつあみを賭けてもいいよ
  • 管のどこ切っても円や春眠し

とかが好き。「白鳥座みつあみを賭けてもいいよ」もサービス精神かつ、さわやかでいい。

五: あ、それもいいですよね。

堂: 同時に、一連に「管のどこ切っても円や春眠し」みたいなのもあるのもよくて、幅の広さを感じます。

五: サービス精神っていうところでは、短歌では永田紅さんの『日輪』を思い出します。

  • ああ君が遠いよ月夜 下敷きを挟んだままのノート硬くて

とか。あと、神野さんの俳句では月や星が普通に輝いているのがいい。

  • コンビニのおでんが好きで星きれい

などですね。何か文学趣味が昂じると月や星が意味を持ち始めるじゃないですか。それが嫌みだったりするけど、それがない。

堂: ないね。それはかなり珍しいような気が。健やかさはあとから身につけられないものですしね。

五: いや、それはあとからでも身につく可能性はあると思う。実感として。

堂: そうかなー、うーん。

五: ほかにも、

  • 釘は木を衰えさせて天の川

とか、好きな句が多かったです。というところで、三分の一終了ですか。もうすっかり辺りは暗くなってしまいましたね。今回は、前編ということで、ここらへんでしめますか。

堂: しめましょう、しめましょう。またやりましょう! 

五: そうしましょう。ふー、つかれたね。

堂: つかれたけど、面白かったですね。

五: 俳句いいねー。

堂: いいですねー。ところで、お手伝いしているお店は、いつのまにやら繁盛してますね。われわれは何にもしなかったですけど。

五: でも僕はたまに皿洗いとかしたよ、収録しながら。あと、僕の作ったピクルスも出してるし。

堂: ああ、あのピクルスは美味い。

五: まあでも他のお客さんに不気味がられていたね。

堂: いたね。ずっと2階の片隅にいたからね。「歌人なんですよー」とスタッフの方に気を使って紹介してもらったけど、確実に「歌人って何だろう……」と思われていたはず。

五: ご迷惑おかけしました。お世話になりました。じゃあ、さっきの商店街にもんじゃ焼でも食いに行きますか。あんまり居ると邪魔だからね。

堂: いいですね、もんじゃ。アッパーな食い物だよね。行きましょう、行きましょう。

五: では、「アッパーな食べ物しりとり」をしながら行こう。「ビール」。はい、堂園くん、「る」。

堂: いきなり「る」!? えーと……。

五: る。

堂: る、ルイボスティー……。

五: ぜんぜんアッパーじゃないよ。

堂: そうかなあ。

五: では、皆さん「『新撰21』を読む」、次回、めくるめく中編をお楽しみに!

堂: お楽しみに! いつになるかは未定です!

五: なるべく急ぎましょう。では、お疲れ様です。

堂: お疲れです。

2010年4月21日 (水)

2009年を振り返る WEBバージョン

堂: こんにちは。おひさしぶりです。短歌行です。

いつのまにか、前回の更新から半年も隔たってしまいました。

今回は、昨年の年末に収録された「2009年を振り返る」という記事をお送りします。

内容自体は、昨年12月にとっくに収録されていたのですが、

私の都合により、ずるずると更新を延期してきてしまいました。

申し訳ありません。

もう4月も半ばを過ぎましたが、読者の皆様は今このときだけ、年末の気分で見ていただけると幸いです。

ちなみに収録場所は堂園宅近くの「ガスト」でした。

それではどうぞ!

※※※※※※※

堂: さてそろそろ始めましょう。

五: 今日のテーマは「2009年を振り返るWEBバージョン」です。

堂: NHK短歌では話し足りなかったことなどをしゃべっていきたいと思います。で、今年はどうでした? 五島さん。

五: 今年もいろいろありましたね。不況の波が日本を覆い、ついに政権交代。

堂: そこからか。しかし、いったいこの混迷はいつまで続くのでしょうか。

五: 続くのでしょうか。それはともかく、短歌界もなかなか賑やかな一年でしたね。まずは新人賞から振り返ってみましょう。

堂: NHK短歌では、ちょっとスペース上、話せなかったですからね。ではまず、今年2月の歌壇賞から。

五: 受賞は佐藤羽美さんの「ここは夏月夏曜日」ですね。

堂: 夏の学校生活を歌にした作品が多い連作ですね。作中主体はその学校の生徒の一人なんですね。

五: はい。ただ、学校といっても中学なのか高校なのか大学なのか、すっきりとは確定できないですよね。たとえば

  • 千億の生徒の指紋を受け取って体育倉庫で眠る跳び箱

は小・中学校だし、

  • 民俗学講義の間中ずっと鬼が窓枠つかんでおりき

は大学ですよね。

堂: そうですね。まあ学校っぽい雰囲気がずっと続いているくらいでしょう。五島さんは、この連作の受賞理由は何だと思います?

五: 雰囲気を出すのがうまいんだと思うよ。ほら、

  • バス停で夕方からの霧雨はぼやんと終わり西瓜の匂い

の「西瓜の匂い」とか、良い匂いとも悪い匂いともつかないじゃないですか。それが、学校への思いと重なるんでしょうね。学校も良いとも悪いとも分かんない場所だからね。思い出の中で。これは公立小・中学校の場合特にそうだと思うけど、性格も出自も違う人間が同じ空間に、まったく物理的にぶちこまれるわけだから、不思議な場所ですよ。

堂: ふむ。

五: あと、「鬼」とか、「生霊」とか、「民俗学」とか、そういう時空をずらすような存在をだしてきたり、良い―悪い、美―醜などで割り切れないものを出したりすることによって、「学校」というものを平面的にとらえていないことが雰囲気につながるんでしょうね。

堂: あー、分かります。その出し方にあまりムリがないから、口当たりがいいんでしょう。

五: と思います。

堂: でも、僕はあまり評価は高くないかな。

五: どうしてですか?

堂: うーん。評価しないっていうのを言うのは難しいなあ。どうしても感覚が混じってしまうからね。

五: それはそうだよね。でも、いちおう言ってみてよ。

堂: まず、よくないと思う歌を具体的に挙げて話をしますね。

  • 友達の呉くんちには沼亀がいてさ思春思春って鳴くんだ

僕はこれはよくないと思う。

五: うん。なんで?

堂: うーん……。まず「思春思春」って鳴かないだろうと思ってしまう。世界にはいろいろなものがあって、亀だっていろんなふうに鳴くかもしれないけど、それを「思春思春って鳴く」とひとつの秩序に押し込めてしまうことで、もともとあったいろんな良さが消えてしまっているように感じてしまうんだよね。

五: なるほど。

堂: でも、逆から言えば、「言葉を使って現実の新たな側面を見せている」とも言えるわけだから、それを楽しめばいいはずなんだよ。そもそも、言葉にした時点でどうしたって一定の秩序になるし。

五: 現実を再構成しているわけだからね。

堂: でも、これはパッと見で「嘘だ」と思ってしまう。

五: そうですねえ。そこはかなりデリケートな問題で、現実をある秩序に向かって再構成するっていうことが悪いのではなくて、再構成されたものがどれだけ説得力を持つのかっていうことですよね。「嘘だ」というのはその時の説得力のなさを言っていると思うんだけど、何というか、ここは本気で言っているんですよ、という感じがこの歌からはあまり読み取れないんだろうね。

堂: そうでしょうね。その対立で考えるより、どれだけ本気か、言い換えると、どれだけ細部まで神経が通っているかが大切なんでしょうね。そういった意味でこの歌はちょっと見積もりが甘いかなあ。

五: そうかもしれないね。

堂: ほかにも、

  • 帰り道これっくらいの定型に昨日の思慕をちょいっと詰めて

とか見るとね。そう思うね。ちょっと軽すぎるのではないか。

五: ふむ。

堂: あと、一首でとれる歌がないのもちょっとなあ。

五: まあこの連作は全体としてあるふくらみを持っているわけだから。

  • ぐんにゃりと間延びしたまま消えてゆく下校時刻を告げるチャイムは

の、「間延びしたまま消えてゆく」あたりは身に覚えがある。学校特有のゆるーい時間の流れが思い出される感じがしました。

堂: そういう良さは分かります。

五: ただ、短歌でできるのは大体これくらい、ってはじめに規定した中で作っているような感じはする。リミッターをどこかで外すべきなんじゃないかと思う。

堂: そうだね。それはすごい感じる。あとで言うと思うけど、今年の新人賞作にはすべてそんな感じがあって、それが今年の特徴かなあ。「短歌でできるのは大体これくらい」感。

五: それでは、他の注目作を見ていきましょう。次席の塚本理加さんの「ビー玉図鑑」は完成度の高い一連だったと思います。好きな歌を挙げるなら、たとえば、

  • 見送りのためのくちびる両端をわずかに上げて描いておりぬ

でしょうか。そこはかとないさびしさと同時に明るさも感じます。見送りの場面に備えてあらかじめ微笑みを用意しておく、という歌ですが、自分の感情と、それに関係なく微笑んでいられる唇とのギャップが少しさびしい。でも、見送りを気持ちの良いものにしようという意志に明るいものも感じ取れて、そこがいい。

堂: そうですね。完成度はなかなか高いと思います。しかし、問題点はさきほどの佐藤羽美さんと同じで、「大体これくらい」感があることでしょうか。

五: そうですね。作りもわりと端整な歌が並んでいますし、振れ幅は小さいですよね。それは読み取りやすさにもつながるので、そういうやり方があってもいいと思いますけど。

  • 走るひと走るリズムに見送れば遠くさきまでひかる水面

も好きです。さらっとしているんだけど、特に上の句がいいと思う。

堂: 確かに。それから、歌壇賞の候補作には、早稲田短歌会の人が何人か入っていますね。

  • 夕立を抜ける東海道線をつかの間夢へ迎へ入れたり 服部真里子 
  • 願わくは海月のように透きとおるひとすじの概念になりたし 吉田恭大 
  • この世界で信じてもいいイヤホンの中のドラマーのタムタム連打 望月裕二郎

五: そうですね。やはり、早稲田短歌会の人たちは面白いと思いますね。僕は。自分がOBであることを差し引いても。

堂: では、次は短歌研究新人賞に移りましょうか。やすたけまりさんの「ナガミヒナゲシ」です。3首ほど挙げましょうか。

  • なつかしい野原はみんなとおくから来たものたちでできていました
  • ある年の数字がならぶ「ナガミヒナゲシ 発見」と検索すれば
  • 完璧なロゼットになれなくたって体育座りで空を見るから

そうですね。やはりひとつの世界観を立ち上げているのがよいと思います。

五: たしかにはかなげな文体で、はびこっていく(?)帰化植物を題材にしたところなど、新しいかなと思いますが、一読したときのインパクトがちょっと弱いような感じがしました。

堂: ふーむ。それは確かにそうですが、連作で読んで全体の雰囲気を読み取るのが、よい楽しみ方なんでしょう。

五: 一首一首の統語をゆるめてもいいから全体である雰囲気を作ろうとしていますよね。作中主体の存在感の薄さも特徴ですね。

堂: 帰化植物と同化してますからね。なんか、でかいものとつながろうとしている。

五: その同化の仕方が在来のものに対してではなくて、外部から侵入してきたものに対して行われている。というか、生命ってそういうものでしょう? という感じがある。常によそ者であるっていうような、そういう感覚が全体をつらぬいていますね。そこは少し新しい。

堂: そうですね。そして、その感覚は時代に合っているんでしょうね。それが受賞の一因にはなっている気はします。

五: 次席は雪舟えまさんの「吹けばとぶもの」でした。

堂: 夫が求職中という設定だったり、ビッグイシューが出てきたり、時代に対する感性と、歌としての神秘性を同時に保った一連でした。

五: 夫が面接に行く場面で、

  • ホットケーキを持たせて夫送りだすホットケーキは涙が拭ける

という歌があって、これなんかも作品としての次元と時代に対する感性という次元が平行して現れています。現実的に考えれば、お弁当がホットケーキというのはまずないですよね。この選択は作品を創造するという意識がなければたぶんできない。だから、ポーズだからだめとかいう批判は当たらない。ポーズとしてやっていると思うから。

堂: でもこの歌を読んで何がしかの迫真性を読者が受け取れるのは、「ホットケーキは涙が拭ける」という下句に力があるんですね。

五: 捨て身のユーモアという感じ。思わず笑ってしまうんだけど、心のどこかがすごく真面目になるというか、正座してこのメッセージを受け取ろうと思わせられるところがあって感動する。

堂: そう思います。

五: そういうテーマ性とは別に好きな歌もありました。一番いいと思ったのは、

  • はつなつの風おとなりは息子たち声変わるまで住んでいますか

です。隣の家にはまだ小さい兄弟がいるんだけど、「声変わるまで」という期限設定がすごい。

堂: どうすごいんですか?

五: たとえば、その部分に「5年経っても」を代入してと比べれば明らかなんですけど、「声変わるまで」のほうがずっと立体的なんです。時間の経過だけじゃなくて息子たちの肉体の変化が重なってくるからです。子供の声から青年の声になるというだけじゃなくて、両親や学校に反発したりするようになるだろうとか、好きな子と手をつなぎたいだろうとか。あるいは服装に気を使うようになったり、新聞を読むようになったり、部活が忙しくなったりするだろう、そういう頃までっていうような情報がばーっと駆け巡るんですね。

堂: しかも隣人として、となりの子たちの成長を見守る喜びみたいなものも感じられますよね。

五: それに加えて「声変わるまで住んでいますか」という質問自体がとても謎めいている。言い換えればいくつかの位相が同時に介在している感じがするんです。

堂: どういうことですか?

五: うーん、説明しようとすると難しいけど、まず素直に形だけ見れば、息子たちに対する質問という位相がありますよね。だけどそんな問いは答えることはできないでしょう。それにそんな質問が何を意図して発せられているのか分からない。それから、この子たちはいつまで隣りに住んでいるかなあという自己完結的な軽い疑問という位相がある。最後にもう一つ、「はつなつの風」の効果もあるんでしょうけど、何かもっと大きなもの、神様とか運命とかに問いかけているような感じがするんですよ。この子たちと私の時間が交差するのはあとどれくらいの期間なんですか? というような問いかけですね。

堂: そういうもろもろが自然に読み取りうるような形になっているんですね。なるほど分かりました。僕はこの連作を読んでいるとなんだか英雄的なところがあるなあと思って。今の話を聞いていてもそうだけど、個人的な実感とかが、簡単に大きなものへの信仰に結びつく。そういった意味で個人的なんだけど、同時にすごく無私ですよね。呟きが個人の感慨で終わらない。オイディプスとか、個人の考えで動いているけど、でもあれは同時に人間の代表みたいなとこありますよね。ああいう感じ。

五: ヒロイニズムは濃厚に感じます、無償で何かするっていうような雰囲気に満ちている。

堂: あ、そうそう。オイディプスっていうか、アンティゴネーって感じかも。たぶん、けっこうナチュラルにそういう感じがあるんだろうね、その方面への努力があんまり見えないから。普通、もっとがんばった結果、英雄的になるから。いや、逆かも。自然にやっている感じに見えるから、英雄的に感じられるのかも。

五: 「父母わたしから生まれなよ」とかすごいよね。

堂: ほんとに。びびります。

五: ナウシカっぽいっていうか、ほとんど「ついておいで」という声が聞こえてきそう。

堂: できないよね。あと他で注目したのは、フラワーしげるさんの「ビットとデシベル」です。

五: 目立ちますね。

堂: 選考委員の意見も様々で、加藤治郎さんが一位に推して絶賛、穂村さんが二位に推して、面白いけど、いまいち最後に推しきれない、米川さん、栗木さんが、意欲的なところは面白いけど、よく分からない、佐佐木さんが面白くない、とざっくり言うとそんな感じですか。

五: だいぶざっくりだけどね。

堂: で、これらの意見は全部分かります。なんか、問題作だし面白いけど、面白くないといえば、面白くないかなあ。

五: 僕はいろいろ考えさせるし、問題作ということは認めるけど、この作品世界に何か邪悪なものを感じる。

堂: ふーん、それはなんで?

五: なんでかなあ?

堂: うーん……。たぶんそれはここに出てくる言葉の質の問題ではないですか。これらの言葉はなんていうか、言葉自体の自律性とか生命感をあえて排除した言葉で、言葉の中に出てくるものたちを要素として扱っている。もちろん、言葉へのフェティシズムとか愛着は感じられるけど、現れる人物や世界に人格を認めていない感じがする。そういうSFっぽさというか、試験管の中の実験として言葉を使う感じとかが、「自然」とかを信じたい五島さんの気持ちと相反するのではないですか。

五: あー、まあそうかもね。

  • 橋のまえに濃い色の服の男ならび誰にでもある手首はふたつ

とかにそう思う。

堂: さっきの雪舟さんと比べるとよく分かるよね。

五: そうですね。フラワーしげるさんのはヒロインではなく、神の視点だよね。コンピューター制御の神。

堂: たとえば、

  • 小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく

とかも、「おまえが彼女の何を知っているんだ」と言いたくなる。そういうところは諸手を上げて賛成はできないけど、でも、文体が短歌のリズムを踏襲していることは明らかだし、そこにムリはないと思いますね。やりたいことはけっこう高いレベルで成功していると思いますよ。

五: それはその通りです。短歌の生理で言うと、読むときに上の句と下の句の間で一拍置きますよね。その生理には適った作りになっている。目につくのは用言の連用形で一拍置く方法です。さっきの歌だと、「男らならび」の「ならび」ですね。「ビットとデシベルぼくたちを明るく照らし薬指に埋めこんで近づいていく」の「照らし」もそうだし、この形がとても多い。

堂: あ、本当ですね。「きびしい言葉で叱責し」「つるばらに音はなく」。ほとんどそうだね。面白い歌を挙げると、僕は

  • ただひとりの息子ただひとりの息子をもうけ塩のなかにあるさじの冷たさ

かな。

五: 私は、

  • 壁面をなだれおちるつるばらに音はなく英国のレスラー英国の庭にいる

ですね。

堂: はい。では、次は角川短歌賞に移りましょう。11月号。受賞は山田航さんの「夏の曲馬団」です。

五: どうかなあ。

堂: 僕はなんていうかある種の模範解答みたいな作品だなあと思いました。よくできてるし、しっかりしてるけど、あまりにも「短歌」すぎるというか。修辞もほとんど、誰かのコピーですしね。

五: うーん……。

堂: まあ、コピーでもいいけど、それが分かりすぎるよ。

五: 選考委員の人々も同じようなことを言っていましたね。

堂: まあ歌を挙げていきましょうか。では、表題作の

  • 積乱雲に呼ばれたやうな感覚を残して夏の曲馬団去る

どうですかね。

五: 僕なら「積乱雲に呼ばれた」まで作ってあきらめると思う。すでにパーツがはまりすぎている感じがするのね。そのはまった感じでさらに持続していくっていうのは何なんだろう。

堂: なんでしょうね。穂村さんが『短歌という爆弾』の中で「○○おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏」の「○○」に何を入れるか、っていう話をしていたときに、普通は「コーラのビン」て入れちゃうけど、村木道彦の元の作品は「うめぼしのたね」でそのインパクトの差を解説していたけど、山田さんは、この「コーラのビン」の側の作品に見える。どの歌も。

五: 

  • 地に落ちる水の未来をおもふとき涙はふいに逆流をする

はいいと思いませんか?

堂: あっ、ちょとこれは公式から外れているかも。「涙はふいに逆流をする」というところに、ちょっと体感が含まれていて、それが他の歌と違う。涙が体の中に入っていく感覚ですね。

五: うん。次に、候補作の平岡直子さんの「瓶を流れる水のように」です。

堂: 平岡さんについては、「町」のときにかなり話しましたから、あまり今回は詳しく話さないですが、やっぱり注目してしまいますね。

五: 言葉にある種の官能があるのが面白い。

堂: そこが平岡さんの本質でしょうね。選考会でも触れられていた

  • 弟と妹連れてデニーズへ行く君たちを産んだ気がする

も梅内美華子さんが「誠実で使命感を持った作者の姿」と言っていて、それはその通りと思うけど、それ以上にこれは官能性の強さをより感じますね。

五: 

  • 父が育った部屋に貼られたメーテルの流し目のした眠ろうとする

もそうですね。空間が官能性の方向にぐにゃーとねじ曲がっていくような感じ。

堂: はい。といったところで今年の三賞を振り返ってみたわけですが、今年の新人賞はどうでしたか? 全体として。

五: 短歌研究新人賞が面白かったです。新しかったり振り切れていたりする作品が多かったような気がしました。

堂: そうですね。僕もそんな気がします。しかし、三賞全体を見渡すと、今年は短歌という枠におさめる作品が多くて、そのことを思いました。

五: 思いましたって。どういうこと?

堂: いや、なんか、そういう作品を選んでいるところに今年の気分が反映されているかな、と。安心したい、というか。

五: ほう。あまり冒険はなかったと。

堂: いや、そんなことはないけど、たとえば短歌研究の年鑑で「評論の時代」という言葉があったけど、それも、このよく分からない混沌とした時代を説明したい、してほしいという欲求が表れていると思いますね。で、それは年々高まってきている。

五: ふむ。

堂: 今は「次の新しいことを」っていうよりも、「今、目の前のことを何とかしてくれよ」という声が大きい気がします。どんな世界でも。

五: 時代と照らし合わせて「ここを何とか」というのは言いやすいからね。新しいものというのは、そういう形では言えない性質のものなんだよ。

堂: で、そんな状況だからこそ、自分としては次のことを考えたいというか、小さな変化は今でも刻々と起きていると思うし、そこに目を向けたいと思います。

五: それは短歌の世界で具体的には?

堂: NHK短歌の年間回顧でもちらっと言ったけど、歌人がいろんな場所で活躍し始めたのが、私は面白いと思いますね。石川美南さんとか、雪舟えまさんとか。まあ、まだそれほど目立った動きでもないですが。

五: 同人誌も続いていますしね。「町」は早くも第二号です。それに新人賞では早稲田短歌会の人たちが多く候補になっていますし、若い人がたくさん出てきましたね。面白くなってきた。

堂: 実際嬉しいですよね。

五: 少し気になったのは、角川の新人賞の座談会で三枝昴之さんが、「若い人たちの短歌は神経過敏の競争をしているようなところがどこかにある」とおっしゃっていたんだけど、本当にそうなのかどうか。三枝さんがそう感じるっていうのを否定するわけにはいかないけれど、僕はむしろ全体として風景や世界との和解に向かって動き出している気がして、そのための苦しさみたいなものはあっても、単に神経質さを競うというやり方は減っているような気がする。10年前とはだいぶ景色が違うなあと。

堂: そうですね。ナイーブさを前面に押し出して、それですべての価値が逆転する、というようなモードから徐々に変わってきている気がします。少なくとも、身近な若手には、そういう人はあんまり見ない。

五: と思いますね。あとはそうだなあ、うーん、歌集にも触れたい気がしますが、そろそろ疲れてきましたし、今年はこれで終了にしますか。

堂: ですね。残念ですけど。

五: 来年にも期待したいですね。というところで締めましょう。

堂: はい。では、今年の最後に五島さんの年末ギャグでお別れしましょう。

五: 粘膜が冷える年末!

堂: ダジャレにもなっていないですね。

五: そう?

堂: まあいいか。それではみなさんよいお年を。

五: お疲れさまです。

堂: お疲れです。

2009年10月21日 (水)

長塚節の歌を読む

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 秋の短歌行です。よろしく。

五: 今日は大井町駅にいます。

堂: そして、我々はいまバーミヤンにいますが、ここにたどり着くまでに、さんざん迷いました。

五: さまよいましたね。西大井で降りたんですけど、そこから大井町までちょっとした小旅行でしたね。ファミレスがどこにもないっていう。

堂: 途中で交番でお巡りさんに「ファミレスないですか」って聞いて、ありますよって言われたけど、そのファミレスはどこにもなかったね。

五: そう。ファミレスじゃなくて煮豆屋とかしかなかった。

堂: 昭和20年くらいから動いていそうな洗濯機のある家とか、路地裏で遊ぶ子供とか、染物工場とか。

五: 昭和をくぐり抜けてきましたね。そういった意味で、風情のある、なかなかいい旅でしたけど。

堂: で、けっきょくコンビニの店員さんに聞いて、バーミヤンを教えてもらったんですよね。

五: はい。ようやくたどり着いて、もう一仕事終えた気になってますが、始めましょうか。

堂: 秋の日はつるべ落としですし。帰りたくなっちゃう前に始めましょう。

五: 「島山のつるべ落としの喫茶室」という句は誰の作だったかな。まあいいや。始めましょう。

堂: はい。では今日のテーマは長塚節です。今回も五島さんおすすめで。

五: そうそう。長塚節、いいんだよー。いっぱい取り上げたいけど、まずはじめはこれからいきましょう。

  • 暑き日は氷を口にふくみつつ桔梗(ききょう)は活けてみるべかるらし

どうですか、これ?

堂: そうねー。……いいですねえ。桔梗がいい。桔梗が。

五: あー、桔梗いいですねえ。

堂: 桔梗、好きなんだよなあ……。風情のある歌だね。しかし、想像してみるとけっこうヘンなことしてますよね。氷を口に含みながら花を活けるおじさん。

五: ですね。しかしまったく嫌みはないですよ。氷がとっても涼しげで、だから桔梗もとっても涼しげに響くんです。暑くて氷を食うなんてことはみんな経験してるはず。特殊な感じはしないなあ。

堂: そうね。特殊ではないし、みんなやるけど、花を活けるときはやんない気がするし、あとここに視線を持ってくるあたりがさ。

五: たしかに実際にはやらないっていうのは分かります。しかし、花を活けるというのも昔ながらの暮らしという感じで、実際にはやらなくても文化的に染み付いたものでその組み合わせという感じも少しするんだよね。

堂: まあ、そうだね。ちょっと特殊さに注目するのは性急だったかもしれない。

五: うん、なんというか、完成されたものっていう感じがするんですよね。長塚節が特別なことをしているっていうよりも、日本人の共通感覚に訴えてくるような

堂: わかります。話の持っていき方が悪かったかな。この感じは時代の違う僕にもとてもよく分かって、なんていうか、「なじむ」感じがある。でも同時に、ただ自然な行為そのままという気もしなくて、ある作られたもの、もっといえば、表象的な光景でもあると思うんですよ。

五: そういうことですね。俳句のエッセンスを「俳」と「詩」に分ける考え方があって、すごく平たく言えば伝統有季定型を「俳」志向、高柳重信や西東三鬼やそれを受け継ぐ人たちを「詩」志向と言ったりするみたいなんだけど、それで言うと長塚の作風は、とくにその良質な部分はこの「俳」に近いと思うのね。ある表象の体系に向かって言葉を組み上げていく、というのに近い。

堂: そうだね。この「俳」というのも、かなり抽象的なもので、実際に体感できる感覚――まあもしそういうのがあったとして、ですが――とは少し違ったものだと思う。「俳」はかなり歴史的な堆積があるから自然に受け取れるけど、実はかなり抽象的なものを作り上げている気がする。

五: そう思います。外国人からしたら相当エキゾチックなんじゃないかなあ。

堂: でも、そういった抽象性を含んだほうがリアリティを感じられる、ということもありますよね。ほら、絵画なんて全部表象の世界、人間の目が見える世界とは異なった世界を描いているけど、そこである程度抽象的なものを含んでいたほうが実感に訴えかけることが多いと思うし。スーパーリアリズムの絵画よりもセザンヌのぼやーっとした絵のほうがリアルだなー、と僕は思うけど。

五: それは分かるけど、その対比が長塚の場合に当てはまるかなあ。むしろ長塚の象徴性には生活史が染み込んでいるというのがポイントかもしれない。このあいだ取り上げた「町」で、土岐友浩さんが芭蕉の

  • 春雨や蓬をぬらす艸の道

という句を引いていたけど、これなんかもプリミティブな風景という感じはあまりしなくて、むしろ相当観念的な風景だと思う。春の蓬の芽のやわらかさや、摘んだときの匂い、といったことを共有観念として持っていなければこの句は分からないと思うのね。

堂: なるほど。

五: 僕は子供の頃はよく蓬を摘んだし、蓬もちを作ったこともあるけど、そういうのをしたことがなくても言葉の中にそういう生活史が残っていて、それが共有観念として機能するということだよね。そういう意味では、この「桔梗」の歌なんかも日本人の生活史と分かち難い関係にあると思います。そこに「風情」を感じ、リアリティを感じるんだと思う。

堂: そうですね。ただ、僕は蓬を摘んだことがないからか、芭蕉のこの句はピンと来ないです。

五: そうか、やっぱり体験も重要なのかなあ。他の歌も見てみましょう。

  • 吸物にいささか泛(う)けし柚子(ゆず)の皮の黄に染(そ)みたるも久しかりけり

これはどうですか?

堂: ふむ。これもいい歌だ。「いささか泛けし」の「いささか」がいいと思う。

五: 「いささか」は読みにくいけど、かなり情報量が多いよね。

堂: そうだね。たんに浮いているんじゃなくて、「いささか」浮いていると。その、浮いている柚子の皮の量がより正確になる上に、ひとつひとつの黄色がより濃くなる。そして、浮いている柚子の皮を見ている作者の視線の細かさまで感受できる。作者の視線まで情報として読み取れるということで、情報量が多いと思う。なんか、ブレーキかけながらアクセル踏んでるな、とこの「いささか」で思うんですよ。

五: 「いささか」は渋い。これがなければ黄色が映えないし、柚子を浮かべたその豊かな気分まで伝わってくるから。この吸物は美味い。味わっていない僕の舌が満足させられるんですよね。

堂: まったく。ぜったい美味いよこの吸物。

五: ですよね。

堂: あと、結句の「久しかりけり」もよいですね。ここで時間が重層化する。この柚子の吸物を食べる経験が一回こっきりでなくて、ある時間の流れの中に置かれるんですよね。

五: はい。だから、この歌を良いと思う人はこの歌の中の生活スタイル込みで良いなあ、と思ってしまうと思います。自分もそんな生活がしたい、まで行かないにしても、わずかに憧れみたいなものが生まれるんじゃないかと。特に現代の読者は。では、次の歌。

  • つくづくと夏の緑はこころよき杉をみあげて雨の脚ながし

堂: あー、これもいいなあ。さっきからいいばっかりしか言ってないけど(笑)。この歌、内容は非常にシンプルですね。雨の中で杉を見上げていいなあ、とそれだけですね。

五: そうだね。

堂: でも、この歌で表されている感覚はとてもよく分かる。気持ちのよい風景を見たときって、「この杉の色が形が……」と思考に入っていくこともあるけど、それよりも「あー、いいなあ、気持ちよいなあ」と何にも考えないときのほうが多いですよ。鼻歌うたったりとかしてさ。鼻歌って、歌の内容や種類が大事じゃなくて、鼻歌うたうってこと自体が気持ちよい。それと同じでこの歌も何か言っているわけじゃなくて、言葉を発すること自体が気持ちよいという歌だと思います。それを表現できるのがけっこうすごい。

五: 気持ちいいよねえ。ただそれだけ。余計なものがないんですよね。こういうのを構えがいいと言うんだろうな。初句「つくづくと」と結句「雨の脚ながし」が気持ちよさを増幅している。

堂: そうだねえ。結句のこの字余りで流す感じが、「気持ちよいなあ」という感じ、鼻歌的な感じとよく合っているんですね。

五: そうそう。

堂: こういった言葉をゆるやかに使うやり方は学びたいね。

五: では次に。

  • いささかも濁れる水をかへさせて冷たからむと手も触れて見し

堂: この歌はどういう歌なんですか?

五: 詞書に「草の花はやがて衰へゆけども、せめてはすき透りたる壜の水のあたらしきを欲すと」とあります。花壜の水を替える歌というわけです。このころの長塚節はすでに病がちなので、病室だと思います。

堂: なるほど。

五: この歌は「冷たからむと」にまず心の動きがあり、続いて「手も触れて見し」に体の動きがあります。この下の句がとてもいい。水が濁っているかどうか、というのと冷たいかどうか、というのはイコールではなくて、でも透き通った水を見たときに冷たいだろうなあという思いが湧くのは、一片の衒いもなくて生き生きしています。そして、心と体が連動した結句がとてもしなやかな印象を残します。

堂: あー、なるほど。分かりました。この歌もとてもいいですね。長塚節の歌はぜんぜん嫌みを感じないですね。

五: どうしてだろうね。

堂: 一服の清涼な水、というか。大きなものではないけれど、読むとスッとする。

五: うん。

堂: いつも茂吉を比較対象にして悪いけど、茂吉のこってりとだいぶ違うねえ。

五: 違いますね。杉の歌もこの水の歌もそうだけど、成功している歌は言ってることは複雑じゃないのに上から下まで読んでも飽きが来ない。それに対して、長塚節でも成功していない歌は、こってりしてない分だけ長さを感じてしまう。たとえば、

  • あをぎりの幹の青さに涙なすしづくながれて春さめぞふる

  • 倒れたる椎(しひ)の木故に庭に射す冬の日広くなりにけるかも

なんかは、何か読んでいる途中で長いなあと感じてしまう。

堂: 一首目なんか特にそうですね。

五: 途中で飽きてしまうでしょう?

堂: そうだね。なんか「長い」ね。

五: 「長い」よね。

堂: 何が違うのかなあ。

五: 二首目なんかはなんかいいような気もするけど、読むと「長げーなあ」と思っちゃうんだよね。

堂: 分かる。「冬の日」あたりで飽きる。

五: 不思議だなあ。では、最後に。

  • しめやかに雨過ぎしかば市の灯はみながら涼し枇杷うづたかし

です。これは中学2年生の教科書にも出ていると思います。とってもいいと思いませんか?

堂: うーん、いい。これ中学生の教科書に載ってるんですか。はー。

五: 市の灯と枇杷の橙の重なりが美しい。その橙も濡れてしっとりしていて、風は少し冷たく、市場のいろいろな匂いや音を運んできます。

堂: うん、分かります。ちょっと夕方なんですね。

五: そうそう。暮れていく風景だね。

堂: 「市」っていうのがいいね。「市」。テンション上がるよ、「市」は。「魚市場」でも、「商店街」でも、「ショッピングモール」でもダメで、「市」。

五: うん。「市」にはいろんなものが売ってますからね。そういうのがワクワクするんだろうな。

堂: そうそう。乾物とかね。

五: へんな豆とかね。

堂: そういう、パッと見ではわけの分からないものがあるのがいいよね。

五: めくるめく感じがする。

堂: 「ショッピングモール」にはゼリービーンズとか、ナイキのシューズとかしかないんじゃねえかっていう。

五: 分かっているものが売っている場所だよね。「市」のワクワク感はない。「市」のたい焼きとかたこ焼きとか美味いんだよね。誰がショッピングモールでたい焼きを購いましょうや。

堂: ありえませんね。

五: まあときどきは生協で冷凍食品のたい焼きを頼むことはありますよ。でもあれをレンジでチンして食べるときも、冷凍のたい焼き自体の美味さを味わってるというより、市や祭の残り香を食っているわけです。

堂: あの景色、あの匂い、あの喧騒を食ってるんですから。分かります。これは市ならではのものですね。高価なフランス料理を食うときに、シャンゼリゼ通りを食っているという人はいないでしょう。

五: これももしかしたら「俳」的な表象機能のなせる業かもしれませんね。

堂: 話が少々脱線してしまいましたが、この歌でも「市」にあるからこそ「枇杷」が輝くんですね。

五: スーパーでパックされた枇杷じゃねえ。

堂: あと、「うづたかし」もいいよね。

五: ゴージャスではないけれど。

堂: ゴージャスじゃないよ。ちょっといっぱいあって嬉しいっていう感じ。山になってて。

五: そうだね。あー、市に行きたくなってきた。

堂: ですね。

五: といったところでそろそろ夜ですし、終わりにしましょうか。

堂: そうしましょう。いやあ、長塚節、良かったですね。

五: 歌がべたべたしていなくて読後感がいいんですよね。今回は初のバーミヤン短歌行になりましたが、どうでしたかバーミヤンは。

堂: あっ、バーミヤン初だっけ? そうかあ。

五: バーミヤン初だよ。バーミヤンなんていかにも長居できなさそうじゃん。

堂: いわれてみるとそうだね。じゃあ、よく周りを観察してみましょう。

五: おっ、堂園くん、壁にこんな文句が掲げてあるよ。

堂: なんですか?

五: 「『バーミヤン』は、シルクロードの中心地にあったアフガニスタンの古都。隊商の休息の地、東洋と西洋の文化交流の地として栄えました。」へーそうなんだ。

堂: へーそうなんだ。続きは?

五: 「私たちバーミヤンは、世界をクロスオーバーさせた新しい中国料理をお届けします。」

堂: なかなかうまいこと言いますね。でも、もし店名が「南京」だったらまったくおんなじ料理を出してても「伝統の本格中国料理をお届けします」って言うよね。たぶん。

五: そうだねー。まあギョーザが美味いからいいんだけどね。

堂: ギョーザはギョーザというもの自体が美味い。

五: 万里の長城を食っているということだからね。

堂: なんかさっき言っていたことと微妙に矛盾する気がしないでもないですが。

五: そう?

堂: じゃあまあ、帰りますか。

五: はい。お疲れさまです。

堂: お疲れさまです。

2009年9月26日 (土)

「町」を読む

 

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: みなさんこんにちは。短歌行です。今日は鎌倉に来ています。

五: 短歌行では、2回目だけど、あいかわらず素晴らしい町ですね。鎌倉。のどかで。

堂: ほら、道行く人々の表情を見てくださいよ、五島さん。きつい表情をした人が一人もいないよ。

五: どれどれ、ああほんとうだ。いいね。なんかバイクの音までやさしい気がするね。

堂: 夏の始まりの日曜日だからね。みんな海に行くんでしょう。そりゃ、バイクの音もやさしくなるよ。

五: うーん、いいなあ、鎌倉。というわけで、前回と同じく鎌倉のフレッシュネスバーガーのテラス席からお送りしています。今回の短歌行、今日のテーマはなんですか? 堂園くん。

堂: 今日のテーマはこれです!(バッ)

五: おっ! その光り輝く緑色の短歌同人誌は……

堂: そうです! 今回は発刊されたばかりのこの短歌同人誌「町」を取り上げたいと思います。

五: はい。ではまずこの同人誌の説明を。

堂: 「町」は、早稲田短歌会と京大短歌会の有志6人が作った同人誌です。メンバーは、平岡直子さん、望月裕二郎さん、吉岡太朗さん、瀬戸夏子さん、土岐友浩さん、服部真里子さんの6人。みな20代の若者たちです。

五: はい、同人誌としてはそんな感じですね。堂園くんは全体的にどうでしたか?

堂: や、とても面白かったです。とんがってんなー、というのが第一感想ですね。五島さんは?

五: 6人の言葉の質がそれぞれ違っていて、バラエティーに富んでいますね。すごく面白かったですよ。

堂: そうだね。読んでいてワクワクする同人誌でした。「町」というタイトルもいいね。

五: 表紙がビビットな緑で、その裏が補色関係の赤というのも、とんがった感じがしますね。

堂: このビビットさで「町」だからね。とんがってるよ。これで「牧羊神」とかだとベタだけど。

五: うん。

堂: 宣言文とか巻頭言とか一切ないのもとんがりだよなー。

五: では内容に入りましょう。まずは瀬戸夏子さんの「すべてが可能なわたしの家で」を読みます。まずこの作品が短歌として(?)提出されているということに驚きます。

堂: なにしろ詩にしか見えないものが20ページも続いていますからね。

五: で、ここには仕掛けがあるんですよね、僕は最初気がつきませんでしたけれども。

堂: そうなんです。実は太字のところをつなげて読むと、五七五七七になってるんです。たとえば初めのところの太字をつなげると、「でもまだだ急に恐竜な食事は頬から、頬が笑い入浴」となります。

五: たしかに五七五七七だ。でも歌意を取るのはなかなか難しそうですね。

堂: 明確な歌意があるのかなあ? そこのところは僕にはちょっとわかりませんが、そうですね、思いついたことを順番に言っていきたいと思います。

五: はい、どうぞ。

堂: まず、この作品は流れ出る言葉の洪水みたいで、とてもたくさんの語彙が使われています。次から次へとイメージがくるくる変化していく。それにまず目を奪われます。

五: そうだね。ほんといろんな言葉が出てくるね。

堂: うん。一文一文、フレーズフレーズは意味が通るようになっているけど、隣のフレーズとは直線的にはつながらないよね。その飛躍に面白みがあって、読者はぽんぽんぽんぽん、ずっと飛び石を飛んでいる気持ちになる。そういう楽しさがあるね。

五: うん、わかります。

堂: とても多彩な言葉たちです。でも、さらに注目したいのは、ここで使われているたくさんの言葉の質が実はどれも一緒ということです。

五: あー、わかります。どの言葉も、なんというか同じ色をしている。「コインランドリー」も「日本人」も「小池光」も同じ言葉に見える。

堂: そのことに、なんというかびびりますね。

五: それは作者性がある、ということですね。

堂: そうですね。

五: そしてその、言葉の色が一緒、ということを利用して、私が不遜にもこの作品の要約をしてみます。

堂: おっ、そいつはすごいね。ぜひ。

五: 「すべてが可能なわたしたちの家で朝が昼と夜へダイヤモンドの橋を渡す これが標準のサイズ」。こんな感じでしょうか。

堂: ほー。

五: もちろん、20ページもの作品をこんなに短くしてしまったらいろんなものが抜け落ちてしまうのは避けられないけど、ここから言えることもあると思う。

堂: どういう手順で要約したんですか?

五: 一連で二度使われている「すべてが可能なわたしたちの家で これが標準のサイズ」という部分は外せないと思うんです。これがこの作品の核になっているような気がする。

堂: なるほど。タイトルにもなっているし、最初と、それから最後の連にも出てきますからね。

五: そこに最後の二行を挟んだのは、ここが特に重要だから、という意味ではありません。「すべてが可能なわたしたちの家で これが標準のサイズ」以外のフレーズ全体を最後の二行に代表させてみた、ということです。

堂: 代表させてみた、なるほど。つまり、この二行のヴァリエーションとして、他の詩句がある、という解釈ですね。

五: はい。「わたしたちの家」という舞台でいろいろなものが渦巻くのだけれど、それが「標準のサイズ」だよ、という。そうするとすっきりするから「いろいろ」の内容を考えやすくなると思うんです。

堂: ふむ。いろいろとはしょりましたけど、ひとつの読み解き方としては面白いですね。

五: うん。絶対これしかない、と主張する気はないけど、作品が読みやすくなるといいかな、と思って。

堂: なるほど、なるほど。

五: で、そのいろいろの質ですけど……。

堂: じゃあ、とりあえず、特徴のある言葉をあげてみましょうか。

五: そうだね。

堂: 五島さん、なにかあります?

五: えーと、まず、肉体的語彙がよく出てくるよね。「歯型」とか「桃色の歯ぐき」とか。そして、それが、またグロテスクな形で出てくる。「犬の断面」や「猫の首を切る」とかもありました。

堂: あと、なんていうか、現代日本のコンビニ的なものもよく出てくる。「volvicのフルーツキス」とか「トイレットペーパー」とか「バスマジックリン」とか。軽くて、画一的なイメージ。

五: うん。それと、きらきらしたものもたくさんある。「シャンデリア」、「ダイヤモンド」、「ステンドグラス」。

堂: 「地獄」とか「国境」とか「日本人」とか重い言葉もよく出てくるんだけど、「炭酸たっぷりの国境」みたいにコンビニ的語彙と一緒に使われているから、薄っぺらくされてしまう。

五: そしてきらきら語彙によって輝かされてしまう。

堂: だから、現代詩手帖7月号で黒瀬珂瀾さんがこの作品について言っていたことば、「規範の破壊」っていうのも正しいのかも知れません。

五: そうですね、あの文章は紙幅の制約もあってかなり抽象度の高いものでしたが。それから、肉体的語彙のグロテスクさも、きらきら語彙とぶつかることによってシュールな部分を残しながらもやはり輝いていく。

堂: 緑と赤の補色関係に似ていますね。

五: それが作品のエネルギーを生み出している。渦巻状に。

堂: なんか、このきらきらする感じとエネルギーが生まれる感じには見覚えがあって、ひとつは、やはり穂村弘から「かばん」を経由して結実した方法論。具体的に一人挙げると我妻俊樹さんとの親和性は非常に感じます。

五: そういうものが、ある一まとまりの文化圏を形成しているという感じはたしかにしますよね。

堂: 我妻さんは「かばん」ではないですが、意識的にせよ、無意識的にせよ、そういった文化圏、モードの言葉の使い方を採用している、ということです。で、瀬戸さんもそう見えると。そしてもうひとつは現代美術ね。これも一面的な言い方になってしまうかもしれないけど、今、日本の現代美術は重いものを軽くうすくしてきらきらさせる、っていうのにみんな取り組んでいる気がして。この瀬戸さんの作品にはそれと同じ匂いを感じますね。

五: よく分かります。

堂: で、これも今の「重いものを軽くしてきらきら」と関連するけど、この作品を読んでいると、短歌が持っている、自分で自分を納得するような感じというか、あの独特の円環する感じみたいなのが嫌なんだろうな、と思う。

五: 円環する感じって?

堂: 自分で自分の歌に封をするっていうか。ほらあるじゃん、独特の完結した感じがさ。

五: あー、なんとなくは分かりますよ。名歌と言われる歌には共通の詠嘆がありますよね。永井陽子さんの

  • ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり

とかが典型でしょうか。

堂: もしかしたら、それでこんなフォルムをしているのかも。自分で自分に封ができないように。

五: 言葉に封をして捧げ奉る、みたいなのは体に合わないんだろうね。その手の宗教性は感じない。ある種の生活スタイルを「これが標準」という言い方で提示してみせた、かなり挑発的な作品だったように思います。しかし同じようなテンションで最後まで行くから、読者としてはかなりきついですけどね。

堂: ですね。はい、ではそろそろ次に。土岐友浩さんの「in clover / by moonlight」です。

五: 瀬戸さんの作品から言葉つきが一変します。静かで丁寧で分をわきまえた言葉たちです。言葉に対する作者の期待が抑制されている感じがします。

堂: そうですね。諦念を感じます。

五: 期待の抑制っていうのは諦念と同じことですね。なぜ抑制されているかを勝手に推測すると、やはり、この先大きな幸福などというものは待っていないだろう、という諦念に突き当たるわけです。

堂: ほう。大きな幸福。どういうことですか。

五: 何か偶然雷に打たれるみたいな幸福です。たとえば宝くじを買う人は、一億円当ててやるぞ、と思って買うと思うし、もし当たったら転げまわって喜ぶと思うんだけど、土岐さんはそういう買い方はしないと思うし、当たったとしても大して喜ばないと思う。

堂: なるほど。

五: 「人々が支払ったお金が私の手元に今こうして届いている、このシステムが宝くじというものなんだなあ」とか、そういうことを思うだけなんじゃないかなあ。そういう言葉つきをしている。

堂: うーん、確かに。強い喜びとか、心に燃えるひとつの炎とか、そんなものはこの文体からは感じられないですね。

五: 具体的に作品を見ていきましょう。

  • ヴォリュームをちょうどよくなるまで上げる 草にふる雨音のヴォリューム

という歌、うまいです。雨音のヴォリュームを上げるとはどのような行為でしょうか。作者は最初自分の内面を見つめていたいわけです。物思いに沈んでいたわけですね。その沈み具合をゆるめて外界の比重を上げていくと雨音のヴォリュームが少しずつ上がっていくのでしょう。

堂: なるほど。この歌はそのような内面性が前面に出過ぎない形で提示されているのですね。「草にふる雨音のヴォリューム」というイメージで、主体の繊細な内面が象徴されているんだ。

五: うん。そして、「ちょうどよくなるまで」というところにこの作者の手つきが良く出ていると思うんです。雨音を適切なヴォリュームにするのであって、大きすぎても小さすぎてもだめなんですね。それともう一つ重要だと思うのは、物思いに沈む主体をいわば「適度な感傷」にまで引き上げるもう一人の主体の存在です。その存在が言葉をコントロールして抑制の効いた適切な範囲に歌を囲い込んでいるような気がします。

堂: なるほど。

  • 風速を平均したら4ノット もらった梨と買ってきた梨

もそうだね。もう一人の主体を感じる。しかし、そうだとして、その「囲い込み」の是非はどうなんですか?

五: 是非を判断するのは難しいですが、少なくとも作者の世界観にこれだけアクセスできるという意味で、この2つの連作は優れていると思います、ある程度言葉を囲い込まないと、小さな揺れみたいなものを読み取ってもらえないと思うんです。

堂: 小さな揺れというのはたとえばどんな歌ですか?

五: たとえば「by moonlight」の一首目、

  • くさむらの水引草の赤い実がはじけようともさびしい秋は

ですが、「水引草の赤い実」ってすごく小さいもので決して華やかなものではないですよね。

堂: 小さい粒粒がさびしげについているという感じですね。

五: そこから「はじけようともさびしい」とつないでいるんですね。これって微妙にイレギュラーじゃないかと思うんです。「水引草の赤い実がはじける」という状況が華やかなものなら分かりやすいんですが、一般的には決してそうではない。だけどこの作者にはこれでも十分華やかだと感じられているんだと思うんです。そうでなければ「とも」という助詞が入るはずがない。この「とも」が微妙で、言葉を囲い込むことによって、こういう細かい部分が読み取れるようになるんだと思います。

堂: つまり、この世界観、そして言葉つきの中では、普通よりも目が細かくなっているんですね。

五: そういうことだね。

堂: しかし、それは読んだ人みんなが分かるんでしょうか?

五: 分かるんじゃないですか。それを読まないと読むところがなくなってしまうでしょう?

堂: うーん。説得されましたし、分かるんですが、「目が細かい」っていうことがみんな分かるかどうかはちょっと疑問だなあ。

五: そうかな。

堂: うん。僕は、ですが。

五: そうかあ。でもその囲い込みが感じられなければ

  • 夕暮れにぽたぽた実るからすうり幼いころの記憶のように

なんかはただのだめな歌になってしまうね。これなんかは囲い込みの中にあるから成立する。この歌に○を出す作者の感性にはけっこう驚きます。自分の歌の世界をよく知っていないとできないことですよ。

堂: うん。それはそうだね。一首の驚きはないけど、世界観の把握という点で、正確な歌だね。

五: だよね。

堂: しかし、土岐さんはほんとうに微細な、もうほとんど空気の振動かと思うようなところに勝負をかけてますね。

五: うん。きっとそれが好きなんだろうし、ある意味それしか感じられないんだと思いますよ。大きな振れ幅とか、ドラマチックな動き、とかは分からないんだろうと思う。

堂: ふむ。でも、ドラマチックなものだけが価値ではないですからね。微細な振動のぴりぴりでしか言えないものもあるし。

五: そういうことです。

堂: ただ、僕はドラマチック、大きな振れ幅、広大な世界、そういうものが大好きだからなー(笑)。好みとしてはそういうのを志向してしまうなあ。

五: まあ、私もそうだけど(笑)。

堂: といったところで次に行きますか。

五: そうしましょう。

堂: では次。服部真里子さんの「セキレイ」です。

五: では、よいと思った歌から。

堂: どうぞ。

五: 

  • 朝礼は訓示残して終わりつつ駅舎を越えて飛ぶポリ袋

と、

  • 少しずつ角度違えて立っている三博士もう春が来ている

ですね。

堂: ほう。僕も

  • 少しずつ角度違えて立っている三博士もう春が来ている

はいいと思いました。どんなところがいいんですか? その二首は。

五: ではまず「朝礼」の歌についてですが、「訓示」という堅い言葉と、「駅舎を越えて飛ぶポリ袋」の解放感との対照がうまいと思いました。

堂: なるほど。しかし、僕にはちょっと「駅舎を越えて飛ぶポリ袋」が道具立てっぽく見えるな。道具立てっぽいのはこの歌だけじゃなくて、服部さんの歌にいつもある特徴で、それは必ずしも悪いことではないけれど、この歌のように解放感の歌の場合はあまり活きない気がする。

五: 解放感の歌で活きないと思うのはなぜ?

堂: 動きがあまり躍動して見えないからかな。道具立てと思ってしまうと止まった絵のように感じてしまって、動きは見えなくなると思う。

五: そういうことか。確かにね。でも絵のようだとしても下句があることで景色が開けるという効果はやっぱりあって、朝礼もきっと屋外でやっているんだな、とか、いろいろ想像できますよね。

堂: それは言えますね。

五: 少し大げさに言ってしまえば、訓示みたいなその場にいる人を縛る道徳律が何の変哲もないポリ袋によって相対化されるところに解放感が生まれていると思います。構造が見え透くのは欠点といえば欠点ですが。

堂: ふむ。なるほど。では「少しずつ」のほうは?

五: 「少しずつ角度違えて立っている三博士」までと「もう春が来ている」の響き合いが楽しいです。「三博士」は「東方の三博士」ですね。聖書の。イエスが生れたときにやってきた。でも聖書の記述を厳密にたどる必要はないでしょう。何かしら言祝いでいるような語感が大切です。

堂: 「三博士」ってまとめて言うってこと自体がなんとなく楽しいですね。「三原色」「三羽烏」「三銃士」とか楽しいイメージがあるよね。

五: 「3」がね。それから「少しずつ角度違えて立っている」というところからはいろんなイメージが生まれてきますが、一つは春の光が角度の違いによって微妙な陰影を生んでいるということがある。「角度違えて」のところは、三博士を物体として見ているような感じがするけど、そこに春の光が差すことで情趣が生まれている。

堂: なるほど。僕はこの「三博士」はなんとなく中世の宗教画の中の「三博士」のイメージで捉えていて、どんなのかって言うと、中世の宗教画ってあんまりカラフルじゃないんですね。茶色っぽい感じ。で、表情や動きもアグレッシブではない。そんな絵の中の三博士を想像しました。

五: なるほどね。

堂: なんでそんなのをイメージしたかというと、たぶん、「少しずつ角度違えて立っている」の「少しずつ」ですね。たとえば、宗教をテーマとした絵画でも、ルーベンスみたいに動きのある絵だとこんな微妙な言い方しないだろうから。で、そうしたのっぺりした三博士がちょっとずつ角度を違えているのが面白いなあ、と。

五: そういう絵画的な像を思い浮かべているわけね。僕はなんとなく石膏像っぽい感じだったけど。

堂: そして、そうした茶色っぽいイメージに春が重なることで、より春のイメージが強調されて鮮やかになると思って。

五: その対比、分かりますね。三博士、おっさんだしね。

堂: おっさんだしね。

五: 「少しずつ」角度が違うってところがおかしくてきらきらしてて笑えますね。

堂: しかし、「町」はみんなそうだけど、服部さんも言葉つきに個性がありますよね。

五: ありますね。言葉への期待が大きい感じがします。たとえば

  • 青銅の都市があるのだ そこへ向け拭いてはならぬレンズがあるのだ

という歌があって、「青銅の都市」や「拭いてはならぬレンズ」という言葉に非常に大きな負荷がかかっていますよね。

堂: キンキンしてますね。このキンキンはやはり大きなものが心に燃えているから出せるのでしょう。言葉つきを比較すると、さきほどの土岐さんの歌とはだいぶ違いますね。言葉を大きく振りかぶる。

五: はい。この先大きな幸福に出会うことを信じているし、また出会うであろうことを予感させる。そんな言葉つきです。言葉の力を割り引いて考えるのではなく、逆に割り増していくような歌ぶりですね。では次。

堂: 平岡直子さんの「ランプ/花嵐」ですね。

五: では、よいと思った歌から話していきましょうか。

堂: ですね。僕は

  • 刺抜きを拾い上げたい秋の野で触れればそれはみんな朝露

ですね。

五: ああ僕もそれですね。平岡さんの歌の特徴がよく出ているし、それが成功している。

堂: 特徴って何ですか?

五: 結句の「朝露」というまとめ方は特徴的です。湿度の高い透明感のあるフレーズで一首をまとめる、という方法が連作中に頻出する。連作全体が手を触れたら消えそうな、そんな繊細なイメージを持っているんですね。この歌なんかはまさにそういう歌です。

堂: 他にも、

  • そうか君はランプだったんだね君は光りおえたら海に沈むね

の「海に沈むね」もそうだし、

  • ベビーカーにいちばん怖いもの乗せて一緒に沼を見に行きたいね

の「一緒に沼を見に行きたいね」も、

  • どうして手が届かないのかこの町は 地図のよう君の血脈のよう

の「君の血脈のよう」もみんなそうだね。湿度が高くて、そして、大きなものへつながる入口みたいなものが終わりによく出てくる。その中でも、この「朝露」は成功しているかな。

五: うん。そうですね。「棘抜き」という金属のしっかりしたアイテムが最初にひとつ出てきて、それを拾い上げようとすると、その棘抜きが朝露になってしまうんですね。「棘」という言葉にかすかな痛みが伴うことで、この喪失感がより強く伝わってくる。

堂: 銀色で光ってて少し寂しい感じがしますね。

五: さらに下句の「みんな」によって、触れるものは全部朝露だと言っているところにこの歌の強さがある。「棘抜き」はひとつのアイテムなんだけど、最後は全部朝露にしてしまう。このねじれが強さになっている。

堂: ですね。「触れればそれはみんな朝露」というタンタンタンタンと、よいリズムで言葉が続いていくことで、この喪失がある種自動的に、運命的に響くから、より喪失感が強まるんでしょうね。

五: そうだと思います。

堂: うん。しかし、平岡さんの歌はなんかいつも遠ーい印象があるね。言葉が、遠ーくから持って来られている気がする。

五: 「遠ーく」? どういうこと?

堂: えーと、言葉がぼんやりしてない?

五: ぼわーっとしてるね。

堂: 自分の手ざわりのある、近くの使いやすい言葉じゃなくて、遠くのほうにある「短歌っぽい」言葉をわざわざ拾いに行って使ってるというかさ。

五: ああ、ちょっと分かってきたな。

堂: なんか、「短歌っぽい」に憧れがあるあまり、わざわざみんなが短歌でよく使いそうな言葉を使っているというか……。

五: うん。普通はもっと近くにそうした言葉がある印象だよね。たとえば田口綾子さんも同じような言葉を使うけど、もっと身近な印象がある。

堂: そうだね。

五: その印象はたぶん田口さんが自分の感情を美的に表現するために「短歌っぽい」言葉の象徴性を利用してるからで、いいわるいはともかく、手ざわりがある。平岡さんの場合は、それに対して、雰囲気を表現するために「短歌っぽい」言葉を使うから、茫洋とした感じになるんだよ。

堂: なるほど。平岡さんの歌がぼんやりしている理由は分ったね。森の中から海に向って長い竿で魚釣りをしているんだね。

五: そんな感じだねえ。

堂: でも、どっちも同じ海から同じ魚を釣ろうとしているのは一緒だし、さらにいえば、現代女性歌人の多くがその海に向って竿を投げてるよね。

五: 同じ魚で型を競っている。

堂: みんながみんな新しいことをしなきゃいけないってことではないけど、にしても、みんなが同じ魚ってのがなあ。

五: そうそう。みんな一緒ってのが問題だよね。

堂: 多彩さが減ってしまうからね。短歌はもっといろいろできるはずなのに。メルヘンっぽい歌の処理の仕方だけじゃないと思うけど。

五: それは私も思います。けっこう根深い問題だよね。いろんな均一化には突っこみを入れたいね。

堂: うん。では次。望月裕二郎さんの「水か油」です。

五: はい。いいと思った歌は

  • さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく

です。

堂: 僕もそれです。

五: この歌面白いですよね。全速力で坂道をかけおりる意気込みようと、うちで幕府をひらくというスケールの小ささとのギャップが笑えます。幕府なんて昔の体制だしね。

堂: 今と昔のギャップの面白さもあるね。でかいことと瑣末なことの対比、面白い。「うち」という小さいところに「幕府」というでかいものをひらくのもそうだし。この対比のさせ方、言葉の混ぜ方が非常にスマートですよね。

五: スマートという言い方がぴったりくる感じはします。たとえば、

  • ひたいから嘘でてますよ毛穴から(べらんめえ)ほら江戸でてますよ

の「江戸でてますよ」という言い方を支えているのはパッションとか必然性といったものではないですよね。

堂: そうですね。やはり現代的なんだと思う。どういった点で現代的なのかというと、ひと言では、「空気を読む」というところにおいて現代です。つまり、自分の言葉が周囲との差異においてどこに位置するかを正確にマッピングできる、というのが、現代なんだと思う。パッションとか必然性とかはもっと盲目的なものだからね。

五: マッピング能力のことを批評意識と同義だと思っている人は多いよね。

堂: だから、これらの歌の面白さを保証しているのは、それぞれの語への目の効き方であって、感情とか情念ではない。

五: そうだろうね。

堂: それは「新しい」し、面白いけど、僕の偏った立場からはやっぱちょっと物足りないかなあ。何で物足りないかというと、差異自体に視線が向うと、それ以上深まらない気がして。

五: ちょっと話を元に戻しますけど、「さかみちを」の歌、の「うちについたら」の部分は、僕の好みの表現にすると「家(いえ)についたら」になるんですけど、望月さん的にはやっぱり「うち」なんだと思うのね。「家(いえ)」だとニュートラルですっきりしているんだけど、「うち」の方が言葉がとぐろを巻くというか、叙情の質が内にこもる気がして、そういうのがやりたかったのかなあと。

堂: なるほど。

五: つまり、望月さんの言葉というのは、情念とか必然性に裏打ちされている感じはあまりしなくて、そういう意味ではスマートなんだけど、内容的にはどこにも行けない円環的な世界にいるように見える。叙情を開放することから距離をとっているように感じました。連作の中では「幕府」の歌は叙情が一番開放的だと思いますが、それを僕も堂園くんも選んでいるというところが面白いですね。しかし、この歌に関しても「うち」を選ぶところに好みの差が出ている気がする。

堂: そうですね。では次。吉岡太朗さんの「魚くじ」です。

五: どうですか、これは?

堂: そうですねー。まあ望月さんもそうですど、吉岡さんは体温が低めですね。

五: そう思うね。感覚をガーッと開放していくところからは遠いところにいる。

堂: うーん、土岐さんも体温が低めよりだし、「町」の男性陣にはその傾向がありますね。

五: うん。で、吉岡さんの歌は結句で膝を砕く歌が多いね。

堂: あ、分ります。

  • 左手がどうであろうと鯖寿司を食べているなら食事中です

とか、

  • 妹が恋人以上というひとを分らないからすきやきの具に

とか、

  • 霧雨の夜の電話にでてみたら受話器が耳に触手をのばす

とかも。つまり、上句での緊張感や権力構造を結句で無化させようとする働きがある。結句で膝カックンだね。

五: マジなのか何なのかよく分からないところが特徴です。

堂: 正直うまく読み取れない歌が多かったなあ。

  • 町中の電信柱がぐにゃぐにゃとお辞儀をするのでえらいひとです

とか。

五: これは誰かが道を歩いていて、その人に向かって電信柱がお辞儀をしている。だから、ああこの人はえらいんだ、と分かる、という歌だよね。

堂: ああ、そうかなるほど。今はじめて分かりました。そうすると、歌意が取れますね。でも、それでもやっぱり性急というか、舌足らずな印象があるなあ。その内容を「ので」だけで説明するのはなんか違和感ない?

五: そこでくいっと曲がる感じを出したいんだと思うけど……。

堂: なんていうか、こう、クッキーの型から生地がはみ出ているというか、歌の器以上に情報が盛られていて、適切な感じがしないのね。外部に散文的なストーリーなり、情報なりがさらにある気がして、それを読み解かされるのがつらい。

五: それは分かるなあ。

堂: たとえば他にも、

  • 藍色のさかな帽子を買いましょう活魚専用車両に乗るなら

も、魚しか乗れない「活魚専用車両」に乗るなら、魚にならないといけないから、「さかな帽子」を買ってかぶって、魚に変装して乗ろう、という感じだと思うけど、それを「なら」の一語で説明している。やっぱりそれは性急だと思う。

五: その歌はそうだね。あと、

  • プルタブをかちかちいわせる集団が音で仲間を増やして海へ

もそう。問題は、外部的ストーリー自体に快感がないことかなあ。

堂: うーん。読み取れてないだけかもしれないけど、そのストーリーが何を意味しているのかよく分からないんだよね。ただ変、てだけでは意味が分からないし。

五: うーん、何やろうとしてるのかなあ。

堂: 我々が読み取れてないだけかなあ。ちょっとしたきらめきやイノセンスへの憧れはほの見えるけど。

五: 特に後半そうだね。最後の歌とか。

  • とりどりのカラー画鋲が照り返し君はきれいな魚になった

の「君はきれいな魚になった」。

堂: うん。でも他ちょっと難しいね。

五: ごめんなさい。もし、よい読みをされる方がいたら、ぜひメールをください。お願いします。

堂: 待ってます!

五: はい。では、これで、一通りの連作は読みましたね。うーん、そろそろ疲れましたし、企画の「本歌取りの複数」は、読者の方それぞれで読んでいただきましょう。

堂: そうですね。こちらも面白かったですけど、そろそろここらで締めましょう。けっこう喋ったしね。

五: ですね。

堂: あ、「町」をお求めの方は町のホームページ(http://000machi000.blog42.fc2.com/)からご注文ください。買って損はないですよ!

五: ぜひ。やー、今回も疲れましたね。

堂: でも鎌倉は素晴らしい土地でした。毎回、決めているのですが、今日も豊島屋本店で鳩サブレーを買って帰ろうと思います。キング・オブ・サブレですね。

五: いいね! あそこは落雁もおいしいよ!

堂: おっ、いいですね。落雁。さすが神奈川名物には詳しいですね。では、お茶が恋しくなったところで帰りましょう。

五: そうしましょう。ここで一首。

  • 鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

与謝野晶子。

堂: おお、五島さんの風流っぷりが遺憾なく発揮されました。

五: でしょう。

堂: では、お疲れさまです。

五: お疲れです。

2009年6月 7日 (日)

お知らせ

こんにちは。

堂園です。ちょっとお知らせがあります。

本日発売の「すばる」7月号にエッセイを寄稿しています。

タイトルは「孤独と粘土細工」。

中島敦生誕100年ということで、中島敦の短歌について書きました。

お読みいただけると幸いです。

あ、そうそう。

4月にインタビューさせていただいた

野口あや子さんのエッセイが本日発売の「群像」7月号に載っております。

こちらもぜひご覧になってみてください。

2009年5月31日 (日)

山中智恵子の歌を読む

石巣(いわす)より石巣にとびて鳥首(とりくび)の重かりきわが狂心(たぶ)るる自由   山中智恵子  『みずかありなむ』

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: ごきげんよう。短歌行です。今日は戸塚のデニーズにいます。2回目ですね。戸塚はどんな町でしたっけ、五島さん。

五: 戸塚といえば「神奈川の魔境」ですよね。

堂: 前回より混沌度が上っている!

五: 徐々に進化するようになっているんです。前回は着工したばかりだったモールも完成しつつありますしね。

堂: はあそうなんですか。底知れないですね、戸塚。それにしても今日は寒いですねえ。もう五月だというのに。

五: そうですねえ。堂園くんの胃腸も弱る一方です。

堂: 僕は、『ちびまる子ちゃん』の山根くんと勝負できるくらい、胃腸が弱いですからね! 一日徹夜するだけで本当に使い物にならなくなるからね!

五: 自信まんまんだね。

堂: 挑戦者募集中です。

五: といったところで、そろそろ始めましょうか。今日は名歌鑑賞です。

堂: おっ、人気企画ですね。

五: そして、今回は満を持して、山中智恵子でいきたいと思います。

堂: おおっ。山中といえば、五島さんイチオシの!

五: そうです。このブログのタイトル「短歌行」も山中智恵子の第六歌集から取っているんです。もちろん、中国の楽府詩の形式でもあるわけですが。

堂: いま明かされる「短歌行」のタイトルの秘密! みなさん、曹操の「短歌行」とばかり思っていたでしょう? しかし、山中の歌集のタイトルはどれもかっこいいですね。『短歌行』『紡錘』『みずかありなむ』『星肆』。

五: 装丁もすばらしいですよ。この『短歌行』の装丁を見てくれよ。この紺色の美しいこと。

堂: ほんとにいいですね。こういう歌集を作りたいなあ。

五: 思うよね。本自体に帯やカバーがついていないのもいい。あれ結構邪魔じゃないですか? 私はいつも読むときカバーも帯も取っちゃいます。帯なんて、すぐくしゃくしゃになってしまうし、いいことないですよ。

堂: まったくね。じゃあそろそろ今日の歌の紹介を。

五: 今日は山中の第三歌集『みずかありなむ』から。

  • 石巣(いわす)より石巣にとびて鳥首(とりくび)の重かりきわが狂心(たぶ)るる自由

を取り上げたいと思います。

堂: はい。いやー、わくわくしますね。山中はずっとやりたかったですからね。さて、始めましょう。さっそくですが、五島さんはこの歌のどんなところが好きですか?

五: どんなところっていわれると、難しいなあ。

堂: うーん、なんていうか、読んだときの感覚というか、気持ちというか・・・・・・。

五: そうだな、世界が一気に開かれるような爽快感がありますね。言っていることはかなりシュールで怖いんですけど、不思議とそういう感じは持たない。

堂: あー、なるほど。僕は今日初めてこの歌を読んだんですけど、よく分かりますね。爽快感、たしかにあるなあ。

五: だよね。

堂: あと、「狂心るる」なのに怖くないのもすごいね。なんていうか、歌の姿がものすごくきりっとしているせいか、怖さとかシュールさには目が向かない感じ。

五: 少なくともシュールさや怖さを狙った歌ではないと思いますね。

堂: そうですね。

五: で、この歌の修辞の中心は「鳥」から「われ」への移行にありますね。キーになっているのは三句目「重かりき」です。純粋に鳥を描写しているんだったら、首の重さを感じるはずはないんですね。そこから一気に下句「わが狂心るる自由」へドライブしていく、その官能に強い魅力が宿っているように感じます。

堂: なるほど。ドライブの官能、面白いですね。しかし、どうして「重かりき」を基点として移行できるんだろう。

五: なんでだろうね。

堂: 一般的なところからいうと、やはり身体感覚みたいなことは言えますよね。鳥の首の重さが、「重かりき」で自分の感じているように語られる、ぐっと自分に引き付けられるから、単に対象でしかなかったものに自分の感覚が重ねられる。そうした働きがこの「重かりき」にはあると思います。

五: そうですね。身体感覚。それと同時にこのモチーフは非常に観念的でもあります。この歌の入った連作「会明」の中には他に、

  • きみはわが頭脳のほのほ 夏鳥の羽ふぶき啼く杉群も炎ゆ

という歌もあって、つまり「鳥」は「わが頭脳」の中の風景でもあるんですね。

堂: ああー。かなり観念的なところもある「鳥」なんですね。

五: 観念的だからこそ、「鳥首」という言葉でクローズアップされた鳥の頭が「重かりき」を媒介にして「われ」の頭脳とか頭蓋へと移行できるんでしょうね。「狂心るる」は、歌の中には直接書かれていないその頭脳のイメージから導かれるのだと感じます。

堂: つまり、「具体から抽象に移っていく」というよりも、抽象へ行くための素地が元からあるんですね。観念から観念へ飛翔する感覚だ。

五: 「石巣より石巣に」という部分からは、私は、切り立った崖から崖へ飛ぶ鳥をイメージするんですけど・・・・・・。

堂: そんな感じだと思います。

五: そうだとすると実景としても、かなり観念的な要素が強いですよね。イワツバメのような鳥をイメージしたとしても、切り立った崖のイメージは、何かしら激しいものが込められている。

堂: うーん。たしかに、「わが狂心るる自由」なんていう、ものすごいフレーズは簡単につなげられるようなフレーズではないですからね。

五: だよね。あと、「鳥首」の「首」というイメージも非常に重要で、なんていうか、「首」は頭につながっていますけど、頭が狂うみたいなイメージが潜在的にある。

堂: おおー、なるほど。

五: また、「石巣より石巣にとびて」も、とても危険なものを想起させますしね。

堂: 上句ですでに、緊張がびんびんにあるんですね。それでこその下句なのか。そもそも、「石巣より石巣にとびて」という始まり自体すごいよね。

五: いきなりスピードMax。ジェットコースターに乗っているようなものだ。山中はイメージの出足が速いのが特徴で、普通ならもっと地道な、たとえば身辺から歌い始めて、おかしなところにちょっと触れてそれで終わり。なのに、山中の場合は最初から尋常ならざる場所にいるから、到達できるところが非常に遠いところまで行けるというか・・・・・・。

堂: 開けるというかね。

五: このイメージの速さみたいなものについて行けないときは、山中はなかなか読めないね。

堂: だから、「難解」とよく言われるんですね。

五: 『みずかありなむ』の中では「鳥髪」の一連が有名だしすごい歌が多いんですね、それに匹敵するくらいよく引かれるのが、この歌、

  • 三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや

ですが、堂園くん、この歌はどうですか?

堂: うーん・・・・・・、たしかによく引かれる、有名な歌ですけど、

  • 石巣より石巣にとびて鳥首の重かりきわが狂心るる自由

より広がる感覚がないかなあ。素直に読むと。

五: そうだよねえ。私もあんまりこの歌がいいとは思えないんだよなあ。なんというか抽象的な普遍性へ到達する、「抜け」の感覚が少ない。なんでこの歌が評価されるんだろう?

堂: 「抜け」ね。分かるなー。たぶん、この歌は分かりやすいんじゃないかなあ。

五: どういうところが?

堂: そうだねえ。他の山中の歌に比べて、メッセージというか、内容があるよね。つまり、この歌は「三輪山の背後から月が昇っているけど、月って不思議だよなあ、そもそも月って呼び始めたのは誰なんだろう」という歌ですよね。もちろん、「三輪山」の「古事記」に出てくる伝承とか、あるいは月の照っている山の光景の神秘とか、イメージの広がりはあるけど、でも結局は「月って誰が呼び始めたんだろう」というメッセージが眼目になる。あるいは、それが前面に出る。

五: なるほど。

堂: そうした、メッセージを言語的に抽出できる分かりやすさが、たくさんの引用を招くのではないかな。

五: この歌がちょっと閉じている感じがするのは、良さがある程度簡単に説明できてしまう、すぐパラフレーズできてしまう、というところにあるのかも知れませんね。僕の思う山中の良さとはちょっと違う。最近僕が好きなのは『星肆』のこの歌、

  • 明日といへば余生の一日(ひとひ)きみあらば百歌(ひゃくか)のあらむ余生の一日

です。『星肆』は第八歌集。ご主人を亡くされたあとの歌集ですね。

堂: 「明日といへば余生の一日きみあらば百歌のあらむ余生の一日」・・・・・・。うん、これはすごくいい歌だとおもいます。広がるし、気持ちは強いし。

五: いいでしょう?

堂: なんていうか、歌に対する愛と、夫に対する愛が同じくらい強く感じられる歌ですよね。

五: うん。この歌は「(愛する君が亡くなってしまったから)明日はもう『余生』の一日なんだ。もし、君がいたなら百首の歌があるくらい素晴らしいはずの一日なのに、『余生』の一日なんだ」という意味だからね。

堂: 「百歌のあらむ」が「素晴らしい」につながるところが驚異ですよね。ここまで愛されたら、歌のほうも幸せだね。

五: 二句目と結句のリフレインは、たとえば日本書紀に

  • ぬば玉の甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒

とあるように、古くからある手法なんだけど、その韻律をすごく生かしていると思いますね。「百歌のあらむ」には感動しますね。塾の授業前に読んでたから生徒に笑われてしまった。「先生、目が赤いよ」って。

堂: 感動するよなあ。山中智恵子は、「歌」が本当に好きな感じがするよ。いや、「好き」は違うな。ちょっと安っぽい。そうじゃなくて、「山中は歌だなー」と力を込めて言う感じかな。

五: 山中はなんかもう「歌」に作らされている気がするよ。

堂: それがすごいことだし、素晴らしいですね。ほんとに芸術家だなあと思う。山中は。

五: そうだね。

堂: あんまりこういう印象を他の歌人に抱かないね。たとえば、岡井(隆)さんなんかは芸術家というより、「詩人」て感じだな。僕は。

五: ふーん。

堂: 塚本(邦雄)は「文学者」ね。

五: なんとなく分かるなあ。山中は自らを歌の中に消すことができるというか、歌と一体化して舞っているような感じがあるからね。官能に身をゆだねることができるというか。

堂: そうだね。ジャンルに一体化してる、という感じだね。

五: そうした人の作品は、なにか連れて行ってくれる感覚があるよね。

堂: そうなんだよ。よく分からないところに連れて行ってくれる。「作者が見たもの」とか「作者と対象物」という対立とかでは、どんどんなくなっていく。「詩人」はもっと「言葉を扱う人」という主体が強いなあ。もちろん、良し悪しではなくて、違いだけどね。

五: そうだね。岡井さんの歌は、特に最近のはすごく好きだけど、岡井さんの歌の世界の中に佇んでみたいとは思わない。それに対して山中の歌は、その世界に連れて行ってくれるだけではなくて、読者がその中にしばらく佇むことができるのね。その世界は観念の世界なんだけど、そこで呼吸して、伸びをしたり、寝転んだり、泣いたりできる感じがするのね。

堂: うん。それが「抜け」だよね。

五: そうそう。多くの短歌は、歌われた世界に作者一人の席しか用意されていない。歌を読む僕ら読者は、その歌の光景に感心したり、感動したりはできるけど、普通、一緒に参加はできない。

堂: つまり、スクリーンに映される映像として、歌の中の世界を味わうしかない。でも、「抜け」ると、広い世界が広がっていて、そこに読者も参加できるんだ。

五: その「抜け」た世界の成分は何なんだろうね。観念的っていうのが大事な気がするけど。

堂: そうだね。観念的というか、ある種の普遍性の世界だよね。

五: 普遍性っていうのは?

堂: 表現されたものが古びない世界っていうか。最近出た高橋源一郎の『大人にはわからない日本文学史』という本で書かれていた論理を利用するけど、たとえば、「サザンオールスターズの歌を聴いて感動した」っていうことがあったとして、そのことを言うときに、「サザンオールスターズに感動した」という事実は古びる。しかし、「歌に感動した」という感情は古びない。

五: 「抜け」た先の世界っていうのは、そうした古びないことやものの世界ということか。

堂: 「古びない」が普遍性ということだね。

五: 「発見の歌」なんていう言葉があるように、「発見」による世界の更新に価値を見出す考え方も分かるけど、「発見」だけだと古びてしまう可能性がある。しばらくするとそれが常態化してしまう。だから、「発見」が最重要っていうわけではない。

堂: 小さな更新をどれだけたくさん積んでも、普遍性にアクセスできなければ古びてしまう。小さな差異の世界に留まってしまう。つまり、どう違うかばかりが目立ってしまう。そうじゃなくて、差異を起点として、より大きな世界にたどり着いて、そこで呼吸できるようにしなければね。

五: たどり着いただけでなくて、呼吸までする。読者の居る場所を作る、というのが大切で。観念性というか普遍性への回路はいろいろあると思うけれど、大抵の歌は観念に触れたあと、帰ってきてしまうんだよなあ。

堂: そうそう。観念のことを言うんだけど、それが現実に従属しているんだよ。現実の事象、たとえば、「私の人生がつらい」とか「もっと私を見て」とか言いたいがために、観念を使う。

五: 意味づけの問題があるね。そのときに「使われる」ときの観念って必ず矮小化されてるでしょ。「死」とか「愛」とかそういう風に。これって観念っていうより概念なんだよね。だけど、山中の場合は観念自体が自律しているよね。パラフレーズできないでしょ。

堂: うん。「私の人生がつらい」と言いたいために観念を使うと、どうしても矮小化されてしまいますよね。

五: あと、逆のパターンもあるよね。「愛」とか「死」とか一般的な概念に向って差異を使うパターン。

堂: ああ、あるね。概念のために現実を従属させるパターンだ。

五: 差異に、「それはつまり○○だ」と概念を当てはめてしまうと、差異自体が持っていたはずの様々な要素がぜんぶ捨象されてしまってきらめきが失せるんだよ。

堂: そうだなあ。

五: だから、「愛」や「死」と言葉にできてしまうものを目的にするのも問題なんだよね。こちらも矮小化されているのには違いないんだから。しかも、「私の人生がつらい」とか「もっと私を見て」よりも陳腐さが見えにくいから、より罪が重いよ。

堂: そうすると、やはり山中の凄さは自律した観念世界を作ったことですね。現実と観念はどちらがどちらかを従属させるような陳腐な関係にはないはずだからね。

五: 現実の差異を見ることで「抜け」ることはできるはずだからね。それからもう一つ、パラフレーズ不能という意味で、観念の世界っていうのは非常に現実的な世界なんであって、観念の中では観念こそが現実なんだよね。読者にとってもそうだし、山中にとってもそうなんだと思う。だから、観念と現実の区別は究極的には重要ではないんですよ。

堂: うん。とてもよく分かります。というところでそろそろ締めますか。

五: そうだね。

堂: 五島さん、今日はいかがでしたか?

五: 疲れたけど、楽しかったね。山中智恵子だったからなあ。どんどんテンションが上ったよ。堂園くんの胃腸は?

堂: 僕の胃腸も山中智恵子だったせいか、どんどんテンションが上ったね。

五: それはよかったね。さっき途中でしょうが焼き定食食ってたもんなあ。

堂: 胃弱には山中を読もう。といったところで帰りますか。

五: そうしましょう。戸塚の魔境を通って帰りましょう。

堂: 次に来るときには、さらに複雑になっているといいですね、戸塚。

五: そうだね。二度と帰れないくらいにね。

堂: では、おつかれさまです。

五: おつかれです。

2009年4月 6日 (月)

野口あや子ロングインタビュー

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 今日は中央線の雄、荻窪にいます。さっそく、解説をお願いします。五島さん。

五: 中央線沿いっていうのは独特の雰囲気がありますよね。文化人、知識人、その他の変人がうようよしていますからね。そしてここ、荻窪はその総本山。西荻窪の東にあることでも著名な街です。

堂: あ、

  • コーヒーの湯気を狼煙に星びとの西荻窪は荻窪の西

という佐藤弓生さんの短歌がありますね。しかし、今日は春の嵐なのか、外は風が吹き荒れていますね。恐ろしいほどだ。それに比べて、ここデニーズの中は風も吹いていないし、落ち着きますねえ。さすがデニーズです。ねえ五島さん。

五: いやあ、やっぱりデニーズはいいですね。前回の掲示板収録はさびしかったからなあ。むむ、堂園くん、アボガドハンバーグのバランス野菜仕立てに目をつけるとは不遜ですね。それは私の大好物なんですよ?

堂: 五島さんは彩り野菜のカレーを食べているからいいじゃないですか。いやあ、しかし、デニーズは他のファミレスよりも、ご飯がうまいですねえ。

五: 当然です。なにしろデニーズはミシュランの四つ星にランクされていますからね。

堂: いつものように五島さんの華麗なる適当発言が出たところで、そろそろ今回のゲストに登場していただきましょう。今日のゲストは、第一歌集『くびすじの欠片』を出版された……、

五: 野口あや子さんです!! どうぞ!

(ぱちぱちぱちぱち)

野: まあ、野口です。よろしくお願いします。

堂: 「まあ」ってなんですか。ともあれ、今日はよろしくお願いします。

五: 今回の短歌行は、野口あや子さんへのインタビューです。『くびすじの欠片』、読みましたか、堂園くん。

堂: 当然ですよ。近年まれに見るほどの、相聞歌集でしたね。装丁も凝っているし、非常に目に止まります。前々から短歌行では、野口さんの歌を取り上げることが多かったですし、ぜひいつか野口さんにはインタビューしたいと思っていました。実は最近、早稲田短歌会に来てもらったり、若手の会で顔を合わせたりして、なにかとご縁があるんですよ。それに、歌集を出版されましたし、今回来ていただいたというわけです。

五: では、早速インタビューしていきましょう。

堂: まず、人となりから。

五: 子供のころはどんな遊びをしていましたか?

堂: 五島さんはカタツムリを潰していたんですよね。田口さんのインタビューのときに判明した情報によると。

野: ぎょえー。

五: ……。野口さんは?

野: 本とか、読んでましたね。

堂: 本ですか。どんな本を?

野: どんな本だったかなあ? えーと……。

堂: 何か、作者とか、タイトルとか……。

野: うーん、荻原規子の『空色勾玉』とかの「勾玉シリーズ」とか……。あっ! いま思い出しましたけど、子供のころは古代史に興味がありました。

堂: ん!? 古代史?

野: えーと、卑弥呼とかに興味があって、卑弥呼のマンガを完成させたことがあります。

五: え!? マンガを完成? いきなりすごい話題が出ましたね。

堂: いくつぐらいのときですか? 量は?

野: 12歳ぐらいで、ノート一冊ぶんくらいで……

五: ストーリーは?

野: どこから話そう……。ネパールに「クマリ」という生き神の少女神がいるんですが、無表情で血を流したことのない少女が選ばれるそうなんですよ。それで決まった期間ほとんど人権もなく祀られるんです。

堂: ん? ネパール? 古代史は?

野: それで、その祀られるクマリにヒントを得て、卑弥呼もそういう女の子だったんじゃないかと。で、近未来からタイムスリップしてきた男の子が登場するんです。その男の子と関わることで、卑弥呼が人間的な楽しさや喜びに目覚めていく、というマンガです。

五: すごい深みのあるストーリーですね。

堂: それ、本当に小学生のとき?

野: それでその後、男の子は未来に帰ってしまい、悲しんだ卑弥呼のもとに神が降臨して、卑弥呼は真の女王になるんです。

堂: おおー!

五: 大団円!

堂: すごいですねえ。大河ドラマだ。

五: すばらしい! 同じ時期に堂園くんはダンゴムシを戦わせていたというのに。

野: 読者は一人しかいなかったんですけどね。

堂: そっかー。それでもすごい。正直、いま超読みたいですもん、その話。

五: まだ持ってますか?

野: ああ、ありますよ。このあいだ整理していたら出てきました。でも、初回の最後の一ページだけないんですよ。

堂: 気になりますね、そのページ。

五: その後、そういった興味はどこかに消えてしまったんですか?

野: その後、卑弥呼を調べていくうちに、NHKの「堂々日本史」とかの冊子版を図書館で手に入れて、古代とか古典に興味がわきました。

堂: おっ! 古典ですね。どういった人を読んでいたんですか?

野: あまり内容には、触れるつもりがなくて、読んだのは小野小町とか、生き方に伝説がある人でしたね。いかに歪曲されたかとか、面白いと思いまして。

五: 小野小町の次はどういった感じに?

野: そうですねー、あっ、伝説というところでは、徳川埋蔵金にもその後興味がわいて、「世界ふしぎ発見」の徳川埋蔵金特集を妹に見せて、仲間に入れようとしました。

五: (大爆笑)

野: でも妹は本気で信じちゃって、本気で探し当てるつもりになっていましたね。私は信じてませんでしたけど。

堂: 面白いなあー。

五: それで、古典文学方面でのその後は?

野: 文学方面では、女性の作者やその生き方に興味がいって、そういった人たちをよく読んでました。でも、生き方に興味があったのであって、枕草子とかには行きませんでした。フィクションだけど、源氏物語の葵とか。頑固で、人とか自分とか許せないところに共感しましたね。

堂: なるほど。うなずけます。

五: けっこういきなり大事なことに当たった感じがしますね。

堂: 女性の作品に対する気持は、野口さんの中では重要な気がする。現代では、どんな女性作品を?

野: 中学のときは山田詠美を読みましたね。『風葬の教室』『蝶々の纏足』とか。『ぼくは勉強ができない』とかいったエンターテインメントを押し出している感じより、女の子の性(さが)や業が見えるものを読むと安心した覚えがあります。

五: その辺りが小説との出会いって感じなんですね。最近はどんなものが好きですか。

野: 金原ひとみですね。出会ったのは歌を始めてからですが。あと、鈴木いづみとか。個人的には、まっぱだかで書いている感じのほうが、読む側も楽しめる気がしています。

堂: あ! 鈴木いづみ、僕もとても好きです。なんか、かっこよろしいよね。「理屈はあとだ、みんな死ね。」という言葉、いいよね。

野: 逆に金原ひとみは「理屈はあとだ、生きろ」という感じですよね。

堂: あー、分かる分かる。

五: なるほど、人柄が見えてきましたね。そろそろ歌集の話に入りましょうか。

堂: そうですね。まず、歌集全体についてですが、どういったことを気をつけて作ったんですか?

野: ふつうに、自分の好きな歌、自分らしい歌が入ったらいいな、と思っていてできた感じです。

堂: 自分らしい歌というと、どういう感じでしょう?

野: 人間らしい歌? こいつ生きてるなと感じる、というか。

堂: なるほど。

野: らしいというか、そうありたいと思っている、ということですけど。

五: どんなときに「らしい」歌ができますか?

野: やっぱり相聞を主軸にされがちなのですが、まったくその通りで、恋人じゃなくても、人と関わっているときが「生きてる」って感じがして、歌ができやすいですね。でも、なんというか、相聞でもなんとなく「好き」「嫌い」というときにはできなくて、かなり思いつめるし、どうにかしたいと思ってからのほうが歌ができやすいです。

五: そういえば人と関わっている歌がすごく多い感じしますね。

野: たぶん人がいなかったら歌はできないでしょうね。まあ、「いない」というのは「いた」ということでもあるので、矛盾のある言い方ですけど。

五: うん、

  • やや重いピアスして逢う(外される)ずっと遠くで澄んでいく水

は好きな歌でしたが、「(外される)」を入れたっていうことは、やっぱり人との関わりをモチーフとして大事にしたい、という気持を感じますね。

堂: それはすごく感じますね。野口さんの歌は自分一人だけのことを歌っているときでも、他者がいる感じがして、それが良いと思います。

五: そうですね。私、この歌の入っている「寂光院」という連作、好きです。

  • 雪虫のひとつひとつの祈りかな 賽銭箱の多き山寺

で、急にパーッと視界が開ける感じがして、この歌があることでラスト3首に説得力が増すような気がします。

野: そうなんですか! 意外です。歌集の中で「寂光院」のモチーフって浮いてるかなと心配しながらも入れたのですが。

五: そうかなあ。

堂: 浮いている感じはしなかったけどな。確かに、連作として、始まりの

  • 伽藍とて恋をするのだ靴下で踏む床板がきしきしと鳴く

とかは、珍しいモチーフかな、と思ったけど、五島さんも言ってた、連作最後の3首、

  • 眼のまえを雪虫がゆく抱かれてる時の声だけ上手に覚え
  • 触れて欲しい場所に触れてもらうため線香の火を避けて歩めり
  • 虫食いの紅葉が揺れる血が混ざりあう戦いをまだ味わえず

とか、非常に個性が出ています。

五: うん。

  • 虫食いの紅葉が揺れる血が混ざりあう戦いをまだ味わえず

に見られる、戦いのモチーフ、よく見る気がします。

堂: 人間の関係とは戦いである、という認識が常にある気がする。僕も戦いということをよく考えるので、なんかそこは反応してしまうなあ。

野: そう言われると、自分が少し分かったような気がします。

堂: なんていうかなあ、戦い、て言うとちょっと難しいし、語弊があるんだけど、歌の中で、常に対象や相手を舞台に立たせようとしている気がする。安全圏にいる人たちに、お前も関係性の戦場に立て! と言っている。なんか、ぼーっとしてんじゃねーよ、という声が、歌から聞こえる(笑)。

五: (笑)。そのへんが気持いいよね。

堂: フェア精神がひどく強い気がするんですよ、裏取り引きとかで、なあなあに分かり合ったりするのは嫌なんだと思う。例えば、

  • 肘にある湿疹ふいに見せるとき目をそらさない君がいたこと

とか、

  • きっぱりと降りる初霜 わたくしの嫌うひとにも苦しみはある

とかを読んでもそうですよね。こうした、「私もお前もちゃんとしろ」はとてもよい個性だと、僕は思います。

野: なんとなく分かってきました。なんだろうな、歌そのものに関してだけではないんだけど、相手の都合を考えずに、まず何にでも見切り発車でぶつかっているのは自覚していて、上下とか見ずに生で人と関わりたいというのが、性格的にも歌にも出ちゃうんだと思う。それが「ちゃんとしろ」になるというか。良いか悪いかといえば、私としてはわがままな面を感じてよくない気がたまにするんですけどね。

堂: うーん、よく分かんないけど、僕はすごくいいと思うけどね。

五: 私もそう思います。関連するかどうか分かりませんけど、

  • ファンデーションから浮き上がる汗ぬぐいぬぐいて夏の陸橋わたる

とか、自己認識の厳しさを感じます。「ファンデーションから浮き上がる汗」とか書けるところが。

野: うーん、逆に不思議なんですけど、どうしてそういう例えば、ファンデーションに汗がにじむ、みたいな事を歌うのがこうして気に入られるんだろう。女の人ならみんなあることなのに。

五: 「気に入る」というより「ぎょっとする」に近くて、生身の衝迫感みたいなものに息を呑む、という感じですね。「気に入られたい」っていう動機からはこういう歌はまず出てこないはずだから、野口さんの歌への姿勢が垣間見えるような気がしたんです。

堂: それ、すごく分かります。こういうモチーフや体感は女の人によくあるかもしれないけど、他の人はもっと雰囲気で理解しようとしている。それに対して野口さんは「浮き上がる」という視線とか、「ぬぐいぬぐいて」という踏み込み方とか、雰囲気では終らせず、もっと自分の体感に踏み入ろうとしている。それは自分でも、「これ」とはっきり言えないものなんだろうけど、それでもなんとかして言おうという意志をすごく感じる。そういう感じかな。

野: あー、「雰囲気」とか苦手ですね。確かに。

堂: あ、いま思ったけど、これは歌を作る態度とか精神論の話ではなくて、歌から感じられる特徴のことだ、とひとこと言っといたほうがいいかも。混同しやすいから、そこ。

五: 言いなよ。

堂: 精神論じゃないです。

野: まあ、私は分けて考えきれないのですけど、言いたい、読まれたい、というのが過剰に出るから分けられないのかもしれません。ちゃんと読み手とキャッチボールをしたいというか。それが一首でもできたら、あとは歌集にコーヒーぶっかけられてもいいと思うんでね。

堂: かっこいいなあ(笑)。

野: 歌集をなんで読んでもらいたいかというと、関わりたいから読んでもらいたいんですよ。歌集自体が、「相聞」なんでしょうかね。

五: そうなんだろうね。

堂: でも、本当に相聞歌集だよね。読んでも読んでも相聞で、この人は相聞の鬼だなー、と思った(笑)。

五: 「相聞的な気分」ていうような、生やさしいものじゃないからね。

野: 相手にあこがれみたいなものが、持てないんですよね。もっとこっち来い! みたいな性格であり、相聞歌な気がします。はっきりわたし(あえてカッコなし)に興味を持ってほしくてやっているんだろうなあ、と少し自覚しています。

堂: うん、それが分かって、面白かった。僕が好きだったのはこれですね。

  • 下の名で呼べばさんさん水しぶきあなたの娘を売り飛ばしたい

これ、すごく印象に残った。特に下句がすごい。「売り飛ばしたい」って(笑)。この迫力が突き抜けていて、ある種、爽やかな気持になりました。

五: その歌、すごいよね。

野: (苦笑)

堂: あと、

  • 母の書くメモを幾度も折りたたみ白線の内側で夢を待つ

も印象に残った。これも下句がいいです。「夢」って短歌で頻繁に使われる、わりと安易な言葉だけど、この歌ではそれが生きていると思う。

野: え、それは自分ではちょっと没個性かなあ、と思ったんですけど。母の歌だったら、

  • 真夜中の鎖骨をつたうぬるい水あのひとを言う母なまぐさい

の方が特徴が出てないですか?

堂: うーん、僕としてはそちらの歌の方が個性がない気がしますけど。個性がない、は言いすぎだな。いい歌だし、他の人にはたぶん歌えないけど、その歌の場合、面白さがずいぶん散文的な気がする。つまり、なんとなく言葉で説明できるかなって思う。この歌は、自分の恋人のことを話す母に性的な様子を感じて、その微妙な感受が嫌悪につながる、という感じですよね。それを「なまぐさい」で表現している。なんというか、ある種分析できる。

野: ふむ。

堂: でも、それに対して、「あなたの娘を売り飛ばしたい」とか「白線の内側で夢を待つ」とかは、うまく分析できなくて、作者としてもよく分からないまま言葉が発せられている気がする。この分析不可能な感じとか、定型のリズムと感情が結びついている感じ、よい意味でリズムに言葉を言わされている感じ、とかこそが定型詩の良さだと思うので。

五: 最終的によく分からないところに行かないとね。

堂: まあ、この話は、僕はそうだ、に過ぎないし、「分析できないのはお前がその歌をうまく読めていないだけだ」、と言われてしまうと、だまっちゃうんですけど。

五: どうですか?

野: なんだかすごく面白い気分になってます。

堂: そうですか、それはよかった。

五: そうだ、では、そろそろ野口さんの好きな歌人の話をしましょうか。どんな歌人が好きですか?

野: 最初に言ったように女性作家に興味が強いんですけど、亡くなった方ですが永井陽子さんですね。泣きますね。

堂: ああー、僕も好きです。

五: 例えばどんな歌が好きですか?

野: そうですね。

  • 身をやつしこころをやつしうつそみのひとを愛すと笛天に吹く

ですね。

堂: なるほど。

野: あと、耳の鼓動の歌、

  • 逝く父をとほくおもへる耳底にさくらながれてながれてやまぬ

とか好きですね。私も酔うと耳のへんが「トクトクトク」と言うんですけど、その時のぼんやりと覚醒が混ざっているような感じが永井さんの歌にはします。しかも、目覚めたのではなく、誰かに目覚めさせられたような頼りなさが、うっとりしますね。

五: ふむ。

堂: あー、それ面白いね。

五: 永井陽子さんを好きなことが伝わりますね。

堂: うん。じゃあそろそろ好きなアーティストの話を聞きましょうか。誰が好きですか?

野: えーと、うーんと、

五: じゃあ、例によって、表で。ドン!

Nogutiartists

堂: おおー。

五: なるほどー。

野: (ぐったり)

五: たくさん答えさせられて、疲れていますね(笑)。

堂: やっぱり特徴が出てますね。

五: 注目はやはり椎名林檎、Chara、Cocco、UAあたりの◎◎ですとか、ミスチル××ですかね。アムロも◎なんですね。

野: 一人で戦っている女の人が好きですね。ミスチルは周りが好きだから反発してます。あと、雰囲気感でかわいいという女の子を避ける傾向にあります。

堂: そうなんだ(笑)。でも、僕もミスチルだめだなあ。なんか。

五: 私は好きだけど。まあ、といったところで締めますか。

堂: そうですね。『くびすじの欠片』は本当にいい歌集ですから、ぜひ、これを読まれている皆さんにも買って読んでいただきたいです。注文は短歌研究社(http://www.mmjp.or.jp/TANKAKENKYU/trial.html#kasyuu)に連絡すればいいんですよね。

野: はい。

五: ぜひ読んでいただきたいです。いやー、今回も疲れたね。スカッとすることがしたいな。野口さんもお疲れさまです。今日はどうでした?

野: いやいや、楽しかったです。勝手に楽しんだ感がありますが。

堂: 僕も面白かったです。

五: 今日はほんとうにありがとうございました。

野: いやいやこちらこそ。

堂: こちらの直球や変化球の質問に、がっちり答えてくれたのが、頼もしかったですよ。

五: 直球や変化球!?

堂: ん? どうしたんですか、五島さん。

五: そうだ野球だ!

堂: え?

野: 急にテンションが上りましたね。

五: ここ、荻窪にはバッティングセンターがあるんですよ!! スッキリするには、やはり野球です。野口さん、ちょっと勝負しましょう。

野: ……。

堂: やれやれ、五島さんは野球に目がないですねえ。野口さん、ひと勝負してあげてください。めんどくさいかもしれないけど、お願いします。

野: しょうがないなあ。

五: やった! 野球だ! じゃあ行きましょう!

堂: はいはい、お疲れ様です。

野: お疲れ様です。

五: お疲れです。

«俺たち早稲田短歌会!!

プロフィール

  • 五島諭 1981年生まれ。「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。
    堂園昌彦 1983年生まれ。「コスモス」「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。

アドレス

  • お気軽にお便りください。「ここの読みは違うんじゃないの?」とかも大歓迎です。

ランキング

リンク

  • 冬陽の中の現代詩文庫
    堂園昌彦が一人でやっている現代詩鑑賞blog。 現代詩文庫を1番から順番に読む。
  • tankaful
    光森裕樹さんのサイト。 短歌ポータル。 道に迷ったらとりあえずここに行こう。
  • where can we go in the sand-fleet?
    島なおみさんのblog。 様々な歌人が短歌と批評をバトン式につないでいく、 「+ a crossing」が魅力。
無料ブログはココログ