2009年10月21日 (水)

長塚節の歌を読む

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 秋の短歌行です。よろしく。

五: 今日は大井町駅にいます。

堂: そして、我々はいまバーミヤンにいますが、ここにたどり着くまでに、さんざん迷いました。

五: さまよいましたね。西大井で降りたんですけど、そこから大井町までちょっとした小旅行でしたね。ファミレスがどこにもないっていう。

堂: 途中で交番でお巡りさんに「ファミレスないですか」って聞いて、ありますよって言われたけど、そのファミレスはどこにもなかったね。

五: そう。ファミレスじゃなくて煮豆屋とかしかなかった。

堂: 昭和20年くらいから動いていそうな洗濯機のある家とか、路地裏で遊ぶ子供とか、染物工場とか。

五: 昭和をくぐり抜けてきましたね。そういった意味で、風情のある、なかなかいい旅でしたけど。

堂: で、けっきょくコンビニの店員さんに聞いて、バーミヤンを教えてもらったんですよね。

五: はい。ようやくたどり着いて、もう一仕事終えた気になってますが、始めましょうか。

堂: 秋の日はつるべ落としですし。帰りたくなっちゃう前に始めましょう。

五: 「島山のつるべ落としの喫茶室」という句は誰の作だったかな。まあいいや。始めましょう。

堂: はい。では今日のテーマは長塚節です。今回も五島さんおすすめで。

五: そうそう。長塚節、いいんだよー。いっぱい取り上げたいけど、まずはじめはこれからいきましょう。

  • 暑き日は氷を口にふくみつつ桔梗(ききょう)は活けてみるべかるらし

どうですか、これ?

堂: そうねー。……いいですねえ。桔梗がいい。桔梗が。

五: あー、桔梗いいですねえ。

堂: 桔梗、好きなんだよなあ……。風情のある歌だね。しかし、想像してみるとけっこうヘンなことしてますよね。氷を口に含みながら花を活けるおじさん。

五: ですね。しかしまったく嫌みはないですよ。氷がとっても涼しげで、だから桔梗もとっても涼しげに響くんです。暑くて氷を食うなんてことはみんな経験してるはず。特殊な感じはしないなあ。

堂: そうね。特殊ではないし、みんなやるけど、花を活けるときはやんない気がするし、あとここに視線を持ってくるあたりがさ。

五: たしかに実際にはやらないっていうのは分かります。しかし、花を活けるというのも昔ながらの暮らしという感じで、実際にはやらなくても文化的に染み付いたものでその組み合わせという感じも少しするんだよね。

堂: まあ、そうだね。ちょっと特殊さに注目するのは性急だったかもしれない。

五: うん、なんというか、完成されたものっていう感じがするんですよね。長塚節が特別なことをしているっていうよりも、日本人の共通感覚に訴えてくるような

堂: わかります。話の持っていき方が悪かったかな。この感じは時代の違う僕にもとてもよく分かって、なんていうか、「なじむ」感じがある。でも同時に、ただ自然な行為そのままという気もしなくて、ある作られたもの、もっといえば、表象的な光景でもあると思うんですよ。

五: そういうことですね。俳句のエッセンスを「俳」と「詩」に分ける考え方があって、すごく平たく言えば伝統有季定型を「俳」志向、高柳重信や西東三鬼やそれを受け継ぐ人たちを「詩」志向と言ったりするみたいなんだけど、それで言うと長塚の作風は、とくにその良質な部分はこの「俳」に近いと思うのね。ある表象の体系に向かって言葉を組み上げていく、というのに近い。

堂: そうだね。この「俳」というのも、かなり抽象的なもので、実際に体感できる感覚――まあもしそういうのがあったとして、ですが――とは少し違ったものだと思う。「俳」はかなり歴史的な堆積があるから自然に受け取れるけど、実はかなり抽象的なものを作り上げている気がする。

五: そう思います。外国人からしたら相当エキゾチックなんじゃないかなあ。

堂: でも、そういった抽象性を含んだほうがリアリティを感じられる、ということもありますよね。ほら、絵画なんて全部表象の世界、人間の目が見える世界とは異なった世界を描いているけど、そこである程度抽象的なものを含んでいたほうが実感に訴えかけることが多いと思うし。スーパーリアリズムの絵画よりもセザンヌのぼやーっとした絵のほうがリアルだなー、と僕は思うけど。

五: それは分かるけど、その対比が長塚の場合に当てはまるかなあ。むしろ長塚の象徴性には生活史が染み込んでいるというのがポイントかもしれない。このあいだ取り上げた「町」で、土岐友浩さんが芭蕉の

  • 春雨や蓬をぬらす艸の道

という句を引いていたけど、これなんかもプリミティブな風景という感じはあまりしなくて、むしろ相当観念的な風景だと思う。春の蓬の芽のやわらかさや、摘んだときの匂い、といったことを共有観念として持っていなければこの句は分からないと思うのね。

堂: なるほど。

五: 僕は子供の頃はよく蓬を摘んだし、蓬もちを作ったこともあるけど、そういうのをしたことがなくても言葉の中にそういう生活史が残っていて、それが共有観念として機能するということだよね。そういう意味では、この「桔梗」の歌なんかも日本人の生活史と分かち難い関係にあると思います。そこに「風情」を感じ、リアリティを感じるんだと思う。

堂: そうですね。ただ、僕は蓬を摘んだことがないからか、芭蕉のこの句はピンと来ないです。

五: そうか、やっぱり体験も重要なのかなあ。他の歌も見てみましょう。

  • 吸物にいささか泛(う)けし柚子(ゆず)の皮の黄に染(そ)みたるも久しかりけり

これはどうですか?

堂: ふむ。これもいい歌だ。「いささか泛けし」の「いささか」がいいと思う。

五: 「いささか」は読みにくいけど、かなり情報量が多いよね。

堂: そうだね。たんに浮いているんじゃなくて、「いささか」浮いていると。その、浮いている柚子の皮の量がより正確になる上に、ひとつひとつの黄色がより濃くなる。そして、浮いている柚子の皮を見ている作者の視線の細かさまで感受できる。作者の視線まで情報として読み取れるということで、情報量が多いと思う。なんか、ブレーキかけながらアクセル踏んでるな、とこの「いささか」で思うんですよ。

五: 「いささか」は渋い。これがなければ黄色が映えないし、柚子を浮かべたその豊かな気分まで伝わってくるから。この吸物は美味い。味わっていない僕の舌が満足させられるんですよね。

堂: まったく。ぜったい美味いよこの吸物。

五: ですよね。

堂: あと、結句の「久しかりけり」もよいですね。ここで時間が重層化する。この柚子の吸物を食べる経験が一回こっきりでなくて、ある時間の流れの中に置かれるんですよね。

五: はい。だから、この歌を良いと思う人はこの歌の中の生活スタイル込みで良いなあ、と思ってしまうと思います。自分もそんな生活がしたい、まで行かないにしても、わずかに憧れみたいなものが生まれるんじゃないかと。特に現代の読者は。では、次の歌。

  • つくづくと夏の緑はこころよき杉をみあげて雨の脚ながし

堂: あー、これもいいなあ。さっきからいいばっかりしか言ってないけど(笑)。この歌、内容は非常にシンプルですね。雨の中で杉を見上げていいなあ、とそれだけですね。

五: そうだね。

堂: でも、この歌で表されている感覚はとてもよく分かる。気持ちのよい風景を見たときって、「この杉の色が形が……」と思考に入っていくこともあるけど、それよりも「あー、いいなあ、気持ちよいなあ」と何にも考えないときのほうが多いですよ。鼻歌うたったりとかしてさ。鼻歌って、歌の内容や種類が大事じゃなくて、鼻歌うたうってこと自体が気持ちよい。それと同じでこの歌も何か言っているわけじゃなくて、言葉を発すること自体が気持ちよいという歌だと思います。それを表現できるのがけっこうすごい。

五: 気持ちいいよねえ。ただそれだけ。余計なものがないんですよね。こういうのを構えがいいと言うんだろうな。初句「つくづくと」と結句「雨の脚ながし」が気持ちよさを増幅している。

堂: そうだねえ。結句のこの字余りで流す感じが、「気持ちよいなあ」という感じ、鼻歌的な感じとよく合っているんですね。

五: そうそう。

堂: こういった言葉をゆるやかに使うやり方は学びたいね。

五: では次に。

  • いささかも濁れる水をかへさせて冷たからむと手も触れて見し

堂: この歌はどういう歌なんですか?

五: 詞書に「草の花はやがて衰へゆけども、せめてはすき透りたる壜の水のあたらしきを欲すと」とあります。花壜の水を替える歌というわけです。このころの長塚節はすでに病がちなので、病室だと思います。

堂: なるほど。

五: この歌は「冷たからむと」にまず心の動きがあり、続いて「手も触れて見し」に体の動きがあります。この下の句がとてもいい。水が濁っているかどうか、というのと冷たいかどうか、というのはイコールではなくて、でも透き通った水を見たときに冷たいだろうなあという思いが湧くのは、一片の衒いもなくて生き生きしています。そして、心と体が連動した結句がとてもしなやかな印象を残します。

堂: あー、なるほど。分かりました。この歌もとてもいいですね。長塚節の歌はぜんぜん嫌みを感じないですね。

五: どうしてだろうね。

堂: 一服の清涼な水、というか。大きなものではないけれど、読むとスッとする。

五: うん。

堂: いつも茂吉を比較対象にして悪いけど、茂吉のこってりとだいぶ違うねえ。

五: 違いますね。杉の歌もこの水の歌もそうだけど、成功している歌は言ってることは複雑じゃないのに上から下まで読んでも飽きが来ない。それに対して、長塚節でも成功していない歌は、こってりしてない分だけ長さを感じてしまう。たとえば、

  • あをぎりの幹の青さに涙なすしづくながれて春さめぞふる

  • 倒れたる椎(しひ)の木故に庭に射す冬の日広くなりにけるかも

なんかは、何か読んでいる途中で長いなあと感じてしまう。

堂: 一首目なんか特にそうですね。

五: 途中で飽きてしまうでしょう?

堂: そうだね。なんか「長い」ね。

五: 「長い」よね。

堂: 何が違うのかなあ。

五: 二首目なんかはなんかいいような気もするけど、読むと「長げーなあ」と思っちゃうんだよね。

堂: 分かる。「冬の日」あたりで飽きる。

五: 不思議だなあ。では、最後に。

  • しめやかに雨過ぎしかば市の灯はみながら涼し枇杷うづたかし

です。これは中学2年生の教科書にも出ていると思います。とってもいいと思いませんか?

堂: うーん、いい。これ中学生の教科書に載ってるんですか。はー。

五: 市の灯と枇杷の橙の重なりが美しい。その橙も濡れてしっとりしていて、風は少し冷たく、市場のいろいろな匂いや音を運んできます。

堂: うん、分かります。ちょっと夕方なんですね。

五: そうそう。暮れていく風景だね。

堂: 「市」っていうのがいいね。「市」。テンション上がるよ、「市」は。「魚市場」でも、「商店街」でも、「ショッピングモール」でもダメで、「市」。

五: うん。「市」にはいろんなものが売ってますからね。そういうのがワクワクするんだろうな。

堂: そうそう。乾物とかね。

五: へんな豆とかね。

堂: そういう、パッと見ではわけの分からないものがあるのがいいよね。

五: めくるめく感じがする。

堂: 「ショッピングモール」にはゼリービーンズとか、ナイキのシューズとかしかないんじゃねえかっていう。

五: 分かっているものが売っている場所だよね。「市」のワクワク感はない。「市」のたい焼きとかたこ焼きとか美味いんだよね。誰がショッピングモールでたい焼きを購いましょうや。

堂: ありえませんね。

五: まあときどきは生協で冷凍食品のたい焼きを頼むことはありますよ。でもあれをレンジでチンして食べるときも、冷凍のたい焼き自体の美味さを味わってるというより、市や祭の残り香を食っているわけです。

堂: あの景色、あの匂い、あの喧騒を食ってるんですから。分かります。これは市ならではのものですね。高価なフランス料理を食うときに、シャンゼリゼ通りを食っているという人はいないでしょう。

五: これももしかしたら「俳」的な表象機能のなせる業かもしれませんね。

堂: 話が少々脱線してしまいましたが、この歌でも「市」にあるからこそ「枇杷」が輝くんですね。

五: スーパーでパックされた枇杷じゃねえ。

堂: あと、「うづたかし」もいいよね。

五: ゴージャスではないけれど。

堂: ゴージャスじゃないよ。ちょっといっぱいあって嬉しいっていう感じ。山になってて。

五: そうだね。あー、市に行きたくなってきた。

堂: ですね。

五: といったところでそろそろ夜ですし、終わりにしましょうか。

堂: そうしましょう。いやあ、長塚節、良かったですね。

五: 歌がべたべたしていなくて読後感がいいんですよね。今回は初のバーミヤン短歌行になりましたが、どうでしたかバーミヤンは。

堂: あっ、バーミヤン初だっけ? そうかあ。

五: バーミヤン初だよ。バーミヤンなんていかにも長居できなさそうじゃん。

堂: いわれてみるとそうだね。じゃあ、よく周りを観察してみましょう。

五: おっ、堂園くん、壁にこんな文句が掲げてあるよ。

堂: なんですか?

五: 「『バーミヤン』は、シルクロードの中心地にあったアフガニスタンの古都。隊商の休息の地、東洋と西洋の文化交流の地として栄えました。」へーそうなんだ。

堂: へーそうなんだ。続きは?

五: 「私たちバーミヤンは、世界をクロスオーバーさせた新しい中国料理をお届けします。」

堂: なかなかうまいこと言いますね。でも、もし店名が「南京」だったらまったくおんなじ料理を出してても「伝統の本格中国料理をお届けします」って言うよね。たぶん。

五: そうだねー。まあギョーザが美味いからいいんだけどね。

堂: ギョーザはギョーザというもの自体が美味い。

五: 万里の長城を食っているということだからね。

堂: なんかさっき言っていたことと微妙に矛盾する気がしないでもないですが。

五: そう?

堂: じゃあまあ、帰りますか。

五: はい。お疲れさまです。

堂: お疲れさまです。

2009年9月26日 (土)

「町」を読む

 

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: みなさんこんにちは。短歌行です。今日は鎌倉に来ています。

五: 短歌行では、2回目だけど、あいかわらず素晴らしい町ですね。鎌倉。のどかで。

堂: ほら、道行く人々の表情を見てくださいよ、五島さん。きつい表情をした人が一人もいないよ。

五: どれどれ、ああほんとうだ。いいね。なんかバイクの音までやさしい気がするね。

堂: 夏の始まりの日曜日だからね。みんな海に行くんでしょう。そりゃ、バイクの音もやさしくなるよ。

五: うーん、いいなあ、鎌倉。というわけで、前回と同じく鎌倉のフレッシュネスバーガーのテラス席からお送りしています。今回の短歌行、今日のテーマはなんですか? 堂園くん。

堂: 今日のテーマはこれです!(バッ)

五: おっ! その光り輝く緑色の短歌同人誌は……

堂: そうです! 今回は発刊されたばかりのこの短歌同人誌「町」を取り上げたいと思います。

五: はい。ではまずこの同人誌の説明を。

堂: 「町」は、早稲田短歌会と京大短歌会の有志6人が作った同人誌です。メンバーは、平岡直子さん、望月裕二郎さん、吉岡太朗さん、瀬戸夏子さん、土岐友浩さん、服部真里子さんの6人。みな20代の若者たちです。

五: はい、同人誌としてはそんな感じですね。堂園くんは全体的にどうでしたか?

堂: や、とても面白かったです。とんがってんなー、というのが第一感想ですね。五島さんは?

五: 6人の言葉の質がそれぞれ違っていて、バラエティーに富んでいますね。すごく面白かったですよ。

堂: そうだね。読んでいてワクワクする同人誌でした。「町」というタイトルもいいね。

五: 表紙がビビットな緑で、その裏が補色関係の赤というのも、とんがった感じがしますね。

堂: このビビットさで「町」だからね。とんがってるよ。これで「牧羊神」とかだとベタだけど。

五: うん。

堂: 宣言文とか巻頭言とか一切ないのもとんがりだよなー。

五: では内容に入りましょう。まずは瀬戸夏子さんの「すべてが可能なわたしの家で」を読みます。まずこの作品が短歌として(?)提出されているということに驚きます。

堂: なにしろ詩にしか見えないものが20ページも続いていますからね。

五: で、ここには仕掛けがあるんですよね、僕は最初気がつきませんでしたけれども。

堂: そうなんです。実は太字のところをつなげて読むと、五七五七七になってるんです。たとえば初めのところの太字をつなげると、「でもまだだ急に恐竜な食事は頬から、頬が笑い入浴」となります。

五: たしかに五七五七七だ。でも歌意を取るのはなかなか難しそうですね。

堂: 明確な歌意があるのかなあ? そこのところは僕にはちょっとわかりませんが、そうですね、思いついたことを順番に言っていきたいと思います。

五: はい、どうぞ。

堂: まず、この作品は流れ出る言葉の洪水みたいで、とてもたくさんの語彙が使われています。次から次へとイメージがくるくる変化していく。それにまず目を奪われます。

五: そうだね。ほんといろんな言葉が出てくるね。

堂: うん。一文一文、フレーズフレーズは意味が通るようになっているけど、隣のフレーズとは直線的にはつながらないよね。その飛躍に面白みがあって、読者はぽんぽんぽんぽん、ずっと飛び石を飛んでいる気持ちになる。そういう楽しさがあるね。

五: うん、わかります。

堂: とても多彩な言葉たちです。でも、さらに注目したいのは、ここで使われているたくさんの言葉の質が実はどれも一緒ということです。

五: あー、わかります。どの言葉も、なんというか同じ色をしている。「コインランドリー」も「日本人」も「小池光」も同じ言葉に見える。

堂: そのことに、なんというかびびりますね。

五: それは作者性がある、ということですね。

堂: そうですね。

五: そしてその、言葉の色が一緒、ということを利用して、私が不遜にもこの作品の要約をしてみます。

堂: おっ、そいつはすごいね。ぜひ。

五: 「すべてが可能なわたしたちの家で朝が昼と夜へダイヤモンドの橋を渡す これが標準のサイズ」。こんな感じでしょうか。

堂: ほー。

五: もちろん、20ページもの作品をこんなに短くしてしまったらいろんなものが抜け落ちてしまうのは避けられないけど、ここから言えることもあると思う。

堂: どういう手順で要約したんですか?

五: 一連で二度使われている「すべてが可能なわたしたちの家で これが標準のサイズ」という部分は外せないと思うんです。これがこの作品の核になっているような気がする。

堂: なるほど。タイトルにもなっているし、最初と、それから最後の連にも出てきますからね。

五: そこに最後の二行を挟んだのは、ここが特に重要だから、という意味ではありません。「すべてが可能なわたしたちの家で これが標準のサイズ」以外のフレーズ全体を最後の二行に代表させてみた、ということです。

堂: 代表させてみた、なるほど。つまり、この二行のヴァリエーションとして、他の詩句がある、という解釈ですね。

五: はい。「わたしたちの家」という舞台でいろいろなものが渦巻くのだけれど、それが「標準のサイズ」だよ、という。そうするとすっきりするから「いろいろ」の内容を考えやすくなると思うんです。

堂: ふむ。いろいろとはしょりましたけど、ひとつの読み解き方としては面白いですね。

五: うん。絶対これしかない、と主張する気はないけど、作品が読みやすくなるといいかな、と思って。

堂: なるほど、なるほど。

五: で、そのいろいろの質ですけど……。

堂: じゃあ、とりあえず、特徴のある言葉をあげてみましょうか。

五: そうだね。

堂: 五島さん、なにかあります?

五: えーと、まず、肉体的語彙がよく出てくるよね。「歯型」とか「桃色の歯ぐき」とか。そして、それが、またグロテスクな形で出てくる。「犬の断面」や「猫の首を切る」とかもありました。

堂: あと、なんていうか、現代日本のコンビニ的なものもよく出てくる。「volvicのフルーツキス」とか「トイレットペーパー」とか「バスマジックリン」とか。軽くて、画一的なイメージ。

五: うん。それと、きらきらしたものもたくさんある。「シャンデリア」、「ダイヤモンド」、「ステンドグラス」。

堂: 「地獄」とか「国境」とか「日本人」とか重い言葉もよく出てくるんだけど、「炭酸たっぷりの国境」みたいにコンビニ的語彙と一緒に使われているから、薄っぺらくされてしまう。

五: そしてきらきら語彙によって輝かされてしまう。

堂: だから、現代詩手帖7月号で黒瀬珂瀾さんがこの作品について言っていたことば、「規範の破壊」っていうのも正しいのかも知れません。

五: そうですね、あの文章は紙幅の制約もあってかなり抽象度の高いものでしたが。それから、肉体的語彙のグロテスクさも、きらきら語彙とぶつかることによってシュールな部分を残しながらもやはり輝いていく。

堂: 緑と赤の補色関係に似ていますね。

五: それが作品のエネルギーを生み出している。渦巻状に。

堂: なんか、このきらきらする感じとエネルギーが生まれる感じには見覚えがあって、ひとつは、やはり穂村弘から「かばん」を経由して結実した方法論。具体的に一人挙げると我妻俊樹さんとの親和性は非常に感じます。

五: そういうものが、ある一まとまりの文化圏を形成しているという感じはたしかにしますよね。

堂: 我妻さんは「かばん」ではないですが、意識的にせよ、無意識的にせよ、そういった文化圏、モードの言葉の使い方を採用している、ということです。で、瀬戸さんもそう見えると。そしてもうひとつは現代美術ね。これも一面的な言い方になってしまうかもしれないけど、今、日本の現代美術は重いものを軽くうすくしてきらきらさせる、っていうのにみんな取り組んでいる気がして。この瀬戸さんの作品にはそれと同じ匂いを感じますね。

五: よく分かります。

堂: で、これも今の「重いものを軽くしてきらきら」と関連するけど、この作品を読んでいると、短歌が持っている、自分で自分を納得するような感じというか、あの独特の円環する感じみたいなのが嫌なんだろうな、と思う。

五: 円環する感じって?

堂: 自分で自分の歌に封をするっていうか。ほらあるじゃん、独特の完結した感じがさ。

五: あー、なんとなくは分かりますよ。名歌と言われる歌には共通の詠嘆がありますよね。永井陽子さんの

  • ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり

とかが典型でしょうか。

堂: もしかしたら、それでこんなフォルムをしているのかも。自分で自分に封ができないように。

五: 言葉に封をして捧げ奉る、みたいなのは体に合わないんだろうね。その手の宗教性は感じない。ある種の生活スタイルを「これが標準」という言い方で提示してみせた、かなり挑発的な作品だったように思います。しかし同じようなテンションで最後まで行くから、読者としてはかなりきついですけどね。

堂: ですね。はい、ではそろそろ次に。土岐友浩さんの「in clover / by moonlight」です。

五: 瀬戸さんの作品から言葉つきが一変します。静かで丁寧で分をわきまえた言葉たちです。言葉に対する作者の期待が抑制されている感じがします。

堂: そうですね。諦念を感じます。

五: 期待の抑制っていうのは諦念と同じことですね。なぜ抑制されているかを勝手に推測すると、やはり、この先大きな幸福などというものは待っていないだろう、という諦念に突き当たるわけです。

堂: ほう。大きな幸福。どういうことですか。

五: 何か偶然雷に打たれるみたいな幸福です。たとえば宝くじを買う人は、一億円当ててやるぞ、と思って買うと思うし、もし当たったら転げまわって喜ぶと思うんだけど、土岐さんはそういう買い方はしないと思うし、当たったとしても大して喜ばないと思う。

堂: なるほど。

五: 「人々が支払ったお金が私の手元に今こうして届いている、このシステムが宝くじというものなんだなあ」とか、そういうことを思うだけなんじゃないかなあ。そういう言葉つきをしている。

堂: うーん、確かに。強い喜びとか、心に燃えるひとつの炎とか、そんなものはこの文体からは感じられないですね。

五: 具体的に作品を見ていきましょう。

  • ヴォリュームをちょうどよくなるまで上げる 草にふる雨音のヴォリューム

という歌、うまいです。雨音のヴォリュームを上げるとはどのような行為でしょうか。作者は最初自分の内面を見つめていたいわけです。物思いに沈んでいたわけですね。その沈み具合をゆるめて外界の比重を上げていくと雨音のヴォリュームが少しずつ上がっていくのでしょう。

堂: なるほど。この歌はそのような内面性が前面に出過ぎない形で提示されているのですね。「草にふる雨音のヴォリューム」というイメージで、主体の繊細な内面が象徴されているんだ。

五: うん。そして、「ちょうどよくなるまで」というところにこの作者の手つきが良く出ていると思うんです。雨音を適切なヴォリュームにするのであって、大きすぎても小さすぎてもだめなんですね。それともう一つ重要だと思うのは、物思いに沈む主体をいわば「適度な感傷」にまで引き上げるもう一人の主体の存在です。その存在が言葉をコントロールして抑制の効いた適切な範囲に歌を囲い込んでいるような気がします。

堂: なるほど。

  • 風速を平均したら4ノット もらった梨と買ってきた梨

もそうだね。もう一人の主体を感じる。しかし、そうだとして、その「囲い込み」の是非はどうなんですか?

五: 是非を判断するのは難しいですが、少なくとも作者の世界観にこれだけアクセスできるという意味で、この2つの連作は優れていると思います、ある程度言葉を囲い込まないと、小さな揺れみたいなものを読み取ってもらえないと思うんです。

堂: 小さな揺れというのはたとえばどんな歌ですか?

五: たとえば「by moonlight」の一首目、

  • くさむらの水引草の赤い実がはじけようともさびしい秋は

ですが、「水引草の赤い実」ってすごく小さいもので決して華やかなものではないですよね。

堂: 小さい粒粒がさびしげについているという感じですね。

五: そこから「はじけようともさびしい」とつないでいるんですね。これって微妙にイレギュラーじゃないかと思うんです。「水引草の赤い実がはじける」という状況が華やかなものなら分かりやすいんですが、一般的には決してそうではない。だけどこの作者にはこれでも十分華やかだと感じられているんだと思うんです。そうでなければ「とも」という助詞が入るはずがない。この「とも」が微妙で、言葉を囲い込むことによって、こういう細かい部分が読み取れるようになるんだと思います。

堂: つまり、この世界観、そして言葉つきの中では、普通よりも目が細かくなっているんですね。

五: そういうことだね。

堂: しかし、それは読んだ人みんなが分かるんでしょうか?

五: 分かるんじゃないですか。それを読まないと読むところがなくなってしまうでしょう?

堂: うーん。説得されましたし、分かるんですが、「目が細かい」っていうことがみんな分かるかどうかはちょっと疑問だなあ。

五: そうかな。

堂: うん。僕は、ですが。

五: そうかあ。でもその囲い込みが感じられなければ

  • 夕暮れにぽたぽた実るからすうり幼いころの記憶のように

なんかはただのだめな歌になってしまうね。これなんかは囲い込みの中にあるから成立する。この歌に○を出す作者の感性にはけっこう驚きます。自分の歌の世界をよく知っていないとできないことですよ。

堂: うん。それはそうだね。一首の驚きはないけど、世界観の把握という点で、正確な歌だね。

五: だよね。

堂: しかし、土岐さんはほんとうに微細な、もうほとんど空気の振動かと思うようなところに勝負をかけてますね。

五: うん。きっとそれが好きなんだろうし、ある意味それしか感じられないんだと思いますよ。大きな振れ幅とか、ドラマチックな動き、とかは分からないんだろうと思う。

堂: ふむ。でも、ドラマチックなものだけが価値ではないですからね。微細な振動のぴりぴりでしか言えないものもあるし。

五: そういうことです。

堂: ただ、僕はドラマチック、大きな振れ幅、広大な世界、そういうものが大好きだからなー(笑)。好みとしてはそういうのを志向してしまうなあ。

五: まあ、私もそうだけど(笑)。

堂: といったところで次に行きますか。

五: そうしましょう。

堂: では次。服部真里子さんの「セキレイ」です。

五: では、よいと思った歌から。

堂: どうぞ。

五: 

  • 朝礼は訓示残して終わりつつ駅舎を越えて飛ぶポリ袋

と、

  • 少しずつ角度違えて立っている三博士もう春が来ている

ですね。

堂: ほう。僕も

  • 少しずつ角度違えて立っている三博士もう春が来ている

はいいと思いました。どんなところがいいんですか? その二首は。

五: ではまず「朝礼」の歌についてですが、「訓示」という堅い言葉と、「駅舎を越えて飛ぶポリ袋」の解放感との対照がうまいと思いました。

堂: なるほど。しかし、僕にはちょっと「駅舎を越えて飛ぶポリ袋」が道具立てっぽく見えるな。道具立てっぽいのはこの歌だけじゃなくて、服部さんの歌にいつもある特徴で、それは必ずしも悪いことではないけれど、この歌のように解放感の歌の場合はあまり活きない気がする。

五: 解放感の歌で活きないと思うのはなぜ?

堂: 動きがあまり躍動して見えないからかな。道具立てと思ってしまうと止まった絵のように感じてしまって、動きは見えなくなると思う。

五: そういうことか。確かにね。でも絵のようだとしても下句があることで景色が開けるという効果はやっぱりあって、朝礼もきっと屋外でやっているんだな、とか、いろいろ想像できますよね。

堂: それは言えますね。

五: 少し大げさに言ってしまえば、訓示みたいなその場にいる人を縛る道徳律が何の変哲もないポリ袋によって相対化されるところに解放感が生まれていると思います。構造が見え透くのは欠点といえば欠点ですが。

堂: ふむ。なるほど。では「少しずつ」のほうは?

五: 「少しずつ角度違えて立っている三博士」までと「もう春が来ている」の響き合いが楽しいです。「三博士」は「東方の三博士」ですね。聖書の。イエスが生れたときにやってきた。でも聖書の記述を厳密にたどる必要はないでしょう。何かしら言祝いでいるような語感が大切です。

堂: 「三博士」ってまとめて言うってこと自体がなんとなく楽しいですね。「三原色」「三羽烏」「三銃士」とか楽しいイメージがあるよね。

五: 「3」がね。それから「少しずつ角度違えて立っている」というところからはいろんなイメージが生まれてきますが、一つは春の光が角度の違いによって微妙な陰影を生んでいるということがある。「角度違えて」のところは、三博士を物体として見ているような感じがするけど、そこに春の光が差すことで情趣が生まれている。

堂: なるほど。僕はこの「三博士」はなんとなく中世の宗教画の中の「三博士」のイメージで捉えていて、どんなのかって言うと、中世の宗教画ってあんまりカラフルじゃないんですね。茶色っぽい感じ。で、表情や動きもアグレッシブではない。そんな絵の中の三博士を想像しました。

五: なるほどね。

堂: なんでそんなのをイメージしたかというと、たぶん、「少しずつ角度違えて立っている」の「少しずつ」ですね。たとえば、宗教をテーマとした絵画でも、ルーベンスみたいに動きのある絵だとこんな微妙な言い方しないだろうから。で、そうしたのっぺりした三博士がちょっとずつ角度を違えているのが面白いなあ、と。

五: そういう絵画的な像を思い浮かべているわけね。僕はなんとなく石膏像っぽい感じだったけど。

堂: そして、そうした茶色っぽいイメージに春が重なることで、より春のイメージが強調されて鮮やかになると思って。

五: その対比、分かりますね。三博士、おっさんだしね。

堂: おっさんだしね。

五: 「少しずつ」角度が違うってところがおかしくてきらきらしてて笑えますね。

堂: しかし、「町」はみんなそうだけど、服部さんも言葉つきに個性がありますよね。

五: ありますね。言葉への期待が大きい感じがします。たとえば

  • 青銅の都市があるのだ そこへ向け拭いてはならぬレンズがあるのだ

という歌があって、「青銅の都市」や「拭いてはならぬレンズ」という言葉に非常に大きな負荷がかかっていますよね。

堂: キンキンしてますね。このキンキンはやはり大きなものが心に燃えているから出せるのでしょう。言葉つきを比較すると、さきほどの土岐さんの歌とはだいぶ違いますね。言葉を大きく振りかぶる。

五: はい。この先大きな幸福に出会うことを信じているし、また出会うであろうことを予感させる。そんな言葉つきです。言葉の力を割り引いて考えるのではなく、逆に割り増していくような歌ぶりですね。では次。

堂: 平岡直子さんの「ランプ/花嵐」ですね。

五: では、よいと思った歌から話していきましょうか。

堂: ですね。僕は

  • 刺抜きを拾い上げたい秋の野で触れればそれはみんな朝露

ですね。

五: ああ僕もそれですね。平岡さんの歌の特徴がよく出ているし、それが成功している。

堂: 特徴って何ですか?

五: 結句の「朝露」というまとめ方は特徴的です。湿度の高い透明感のあるフレーズで一首をまとめる、という方法が連作中に頻出する。連作全体が手を触れたら消えそうな、そんな繊細なイメージを持っているんですね。この歌なんかはまさにそういう歌です。

堂: 他にも、

  • そうか君はランプだったんだね君は光りおえたら海に沈むね

の「海に沈むね」もそうだし、

  • ベビーカーにいちばん怖いもの乗せて一緒に沼を見に行きたいね

の「一緒に沼を見に行きたいね」も、

  • どうして手が届かないのかこの町は 地図のよう君の血脈のよう

の「君の血脈のよう」もみんなそうだね。湿度が高くて、そして、大きなものへつながる入口みたいなものが終わりによく出てくる。その中でも、この「朝露」は成功しているかな。

五: うん。そうですね。「棘抜き」という金属のしっかりしたアイテムが最初にひとつ出てきて、それを拾い上げようとすると、その棘抜きが朝露になってしまうんですね。「棘」という言葉にかすかな痛みが伴うことで、この喪失感がより強く伝わってくる。

堂: 銀色で光ってて少し寂しい感じがしますね。

五: さらに下句の「みんな」によって、触れるものは全部朝露だと言っているところにこの歌の強さがある。「棘抜き」はひとつのアイテムなんだけど、最後は全部朝露にしてしまう。このねじれが強さになっている。

堂: ですね。「触れればそれはみんな朝露」というタンタンタンタンと、よいリズムで言葉が続いていくことで、この喪失がある種自動的に、運命的に響くから、より喪失感が強まるんでしょうね。

五: そうだと思います。

堂: うん。しかし、平岡さんの歌はなんかいつも遠ーい印象があるね。言葉が、遠ーくから持って来られている気がする。

五: 「遠ーく」? どういうこと?

堂: えーと、言葉がぼんやりしてない?

五: ぼわーっとしてるね。

堂: 自分の手ざわりのある、近くの使いやすい言葉じゃなくて、遠くのほうにある「短歌っぽい」言葉をわざわざ拾いに行って使ってるというかさ。

五: ああ、ちょっと分かってきたな。

堂: なんか、「短歌っぽい」に憧れがあるあまり、わざわざみんなが短歌でよく使いそうな言葉を使っているというか……。

五: うん。普通はもっと近くにそうした言葉がある印象だよね。たとえば田口綾子さんも同じような言葉を使うけど、もっと身近な印象がある。

堂: そうだね。

五: その印象はたぶん田口さんが自分の感情を美的に表現するために「短歌っぽい」言葉の象徴性を利用してるからで、いいわるいはともかく、手ざわりがある。平岡さんの場合は、それに対して、雰囲気を表現するために「短歌っぽい」言葉を使うから、茫洋とした感じになるんだよ。

堂: なるほど。平岡さんの歌がぼんやりしている理由は分ったね。森の中から海に向って長い竿で魚釣りをしているんだね。

五: そんな感じだねえ。

堂: でも、どっちも同じ海から同じ魚を釣ろうとしているのは一緒だし、さらにいえば、現代女性歌人の多くがその海に向って竿を投げてるよね。

五: 同じ魚で型を競っている。

堂: みんながみんな新しいことをしなきゃいけないってことではないけど、にしても、みんなが同じ魚ってのがなあ。

五: そうそう。みんな一緒ってのが問題だよね。

堂: 多彩さが減ってしまうからね。短歌はもっといろいろできるはずなのに。メルヘンっぽい歌の処理の仕方だけじゃないと思うけど。

五: それは私も思います。けっこう根深い問題だよね。いろんな均一化には突っこみを入れたいね。

堂: うん。では次。望月裕二郎さんの「水か油」です。

五: はい。いいと思った歌は

  • さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく

です。

堂: 僕もそれです。

五: この歌面白いですよね。全速力で坂道をかけおりる意気込みようと、うちで幕府をひらくというスケールの小ささとのギャップが笑えます。幕府なんて昔の体制だしね。

堂: 今と昔のギャップの面白さもあるね。でかいことと瑣末なことの対比、面白い。「うち」という小さいところに「幕府」というでかいものをひらくのもそうだし。この対比のさせ方、言葉の混ぜ方が非常にスマートですよね。

五: スマートという言い方がぴったりくる感じはします。たとえば、

  • ひたいから嘘でてますよ毛穴から(べらんめえ)ほら江戸でてますよ

の「江戸でてますよ」という言い方を支えているのはパッションとか必然性といったものではないですよね。

堂: そうですね。やはり現代的なんだと思う。どういった点で現代的なのかというと、ひと言では、「空気を読む」というところにおいて現代です。つまり、自分の言葉が周囲との差異においてどこに位置するかを正確にマッピングできる、というのが、現代なんだと思う。パッションとか必然性とかはもっと盲目的なものだからね。

五: マッピング能力のことを批評意識と同義だと思っている人は多いよね。

堂: だから、これらの歌の面白さを保証しているのは、それぞれの語への目の効き方であって、感情とか情念ではない。

五: そうだろうね。

堂: それは「新しい」し、面白いけど、僕の偏った立場からはやっぱちょっと物足りないかなあ。何で物足りないかというと、差異自体に視線が向うと、それ以上深まらない気がして。

五: ちょっと話を元に戻しますけど、「さかみちを」の歌、の「うちについたら」の部分は、僕の好みの表現にすると「家(いえ)についたら」になるんですけど、望月さん的にはやっぱり「うち」なんだと思うのね。「家(いえ)」だとニュートラルですっきりしているんだけど、「うち」の方が言葉がとぐろを巻くというか、叙情の質が内にこもる気がして、そういうのがやりたかったのかなあと。

堂: なるほど。

五: つまり、望月さんの言葉というのは、情念とか必然性に裏打ちされている感じはあまりしなくて、そういう意味ではスマートなんだけど、内容的にはどこにも行けない円環的な世界にいるように見える。叙情を開放することから距離をとっているように感じました。連作の中では「幕府」の歌は叙情が一番開放的だと思いますが、それを僕も堂園くんも選んでいるというところが面白いですね。しかし、この歌に関しても「うち」を選ぶところに好みの差が出ている気がする。

堂: そうですね。では次。吉岡太朗さんの「魚くじ」です。

五: どうですか、これは?

堂: そうですねー。まあ望月さんもそうですど、吉岡さんは体温が低めですね。

五: そう思うね。感覚をガーッと開放していくところからは遠いところにいる。

堂: うーん、土岐さんも体温が低めよりだし、「町」の男性陣にはその傾向がありますね。

五: うん。で、吉岡さんの歌は結句で膝を砕く歌が多いね。

堂: あ、分ります。

  • 左手がどうであろうと鯖寿司を食べているなら食事中です

とか、

  • 妹が恋人以上というひとを分らないからすきやきの具に

とか、

  • 霧雨の夜の電話にでてみたら受話器が耳に触手をのばす

とかも。つまり、上句での緊張感や権力構造を結句で無化させようとする働きがある。結句で膝カックンだね。

五: マジなのか何なのかよく分からないところが特徴です。

堂: 正直うまく読み取れない歌が多かったなあ。

  • 町中の電信柱がぐにゃぐにゃとお辞儀をするのでえらいひとです

とか。

五: これは誰かが道を歩いていて、その人に向かって電信柱がお辞儀をしている。だから、ああこの人はえらいんだ、と分かる、という歌だよね。

堂: ああ、そうかなるほど。今はじめて分かりました。そうすると、歌意が取れますね。でも、それでもやっぱり性急というか、舌足らずな印象があるなあ。その内容を「ので」だけで説明するのはなんか違和感ない?

五: そこでくいっと曲がる感じを出したいんだと思うけど……。

堂: なんていうか、こう、クッキーの型から生地がはみ出ているというか、歌の器以上に情報が盛られていて、適切な感じがしないのね。外部に散文的なストーリーなり、情報なりがさらにある気がして、それを読み解かされるのがつらい。

五: それは分かるなあ。

堂: たとえば他にも、

  • 藍色のさかな帽子を買いましょう活魚専用車両に乗るなら

も、魚しか乗れない「活魚専用車両」に乗るなら、魚にならないといけないから、「さかな帽子」を買ってかぶって、魚に変装して乗ろう、という感じだと思うけど、それを「なら」の一語で説明している。やっぱりそれは性急だと思う。

五: その歌はそうだね。あと、

  • プルタブをかちかちいわせる集団が音で仲間を増やして海へ

もそう。問題は、外部的ストーリー自体に快感がないことかなあ。

堂: うーん。読み取れてないだけかもしれないけど、そのストーリーが何を意味しているのかよく分からないんだよね。ただ変、てだけでは意味が分からないし。

五: うーん、何やろうとしてるのかなあ。

堂: 我々が読み取れてないだけかなあ。ちょっとしたきらめきやイノセンスへの憧れはほの見えるけど。

五: 特に後半そうだね。最後の歌とか。

  • とりどりのカラー画鋲が照り返し君はきれいな魚になった

の「君はきれいな魚になった」。

堂: うん。でも他ちょっと難しいね。

五: ごめんなさい。もし、よい読みをされる方がいたら、ぜひメールをください。お願いします。

堂: 待ってます!

五: はい。では、これで、一通りの連作は読みましたね。うーん、そろそろ疲れましたし、企画の「本歌取りの複数」は、読者の方それぞれで読んでいただきましょう。

堂: そうですね。こちらも面白かったですけど、そろそろここらで締めましょう。けっこう喋ったしね。

五: ですね。

堂: あ、「町」をお求めの方は町のホームページ(http://000machi000.blog42.fc2.com/)からご注文ください。買って損はないですよ!

五: ぜひ。やー、今回も疲れましたね。

堂: でも鎌倉は素晴らしい土地でした。毎回、決めているのですが、今日も豊島屋本店で鳩サブレーを買って帰ろうと思います。キング・オブ・サブレですね。

五: いいね! あそこは落雁もおいしいよ!

堂: おっ、いいですね。落雁。さすが神奈川名物には詳しいですね。では、お茶が恋しくなったところで帰りましょう。

五: そうしましょう。ここで一首。

  • 鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

与謝野晶子。

堂: おお、五島さんの風流っぷりが遺憾なく発揮されました。

五: でしょう。

堂: では、お疲れさまです。

五: お疲れです。

2009年6月 7日 (日)

お知らせ

こんにちは。

堂園です。ちょっとお知らせがあります。

本日発売の「すばる」7月号にエッセイを寄稿しています。

タイトルは「孤独と粘土細工」。

中島敦生誕100年ということで、中島敦の短歌について書きました。

お読みいただけると幸いです。

あ、そうそう。

4月にインタビューさせていただいた

野口あや子さんのエッセイが本日発売の「群像」7月号に載っております。

こちらもぜひご覧になってみてください。

2009年5月31日 (日)

山中智恵子の歌を読む

石巣(いわす)より石巣にとびて鳥首(とりくび)の重かりきわが狂心(たぶ)るる自由   山中智恵子  『みずかありなむ』

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: ごきげんよう。短歌行です。今日は戸塚のデニーズにいます。2回目ですね。戸塚はどんな町でしたっけ、五島さん。

五: 戸塚といえば「神奈川の魔境」ですよね。

堂: 前回より混沌度が上っている!

五: 徐々に進化するようになっているんです。前回は着工したばかりだったモールも完成しつつありますしね。

堂: はあそうなんですか。底知れないですね、戸塚。それにしても今日は寒いですねえ。もう五月だというのに。

五: そうですねえ。堂園くんの胃腸も弱る一方です。

堂: 僕は、『ちびまる子ちゃん』の山根くんと勝負できるくらい、胃腸が弱いですからね! 一日徹夜するだけで本当に使い物にならなくなるからね!

五: 自信まんまんだね。

堂: 挑戦者募集中です。

五: といったところで、そろそろ始めましょうか。今日は名歌鑑賞です。

堂: おっ、人気企画ですね。

五: そして、今回は満を持して、山中智恵子でいきたいと思います。

堂: おおっ。山中といえば、五島さんイチオシの!

五: そうです。このブログのタイトル「短歌行」も山中智恵子の第六歌集から取っているんです。もちろん、中国の楽府詩の形式でもあるわけですが。

堂: いま明かされる「短歌行」のタイトルの秘密! みなさん、曹操の「短歌行」とばかり思っていたでしょう? しかし、山中の歌集のタイトルはどれもかっこいいですね。『短歌行』『紡錘』『みずかありなむ』『星肆』。

五: 装丁もすばらしいですよ。この『短歌行』の装丁を見てくれよ。この紺色の美しいこと。

堂: ほんとにいいですね。こういう歌集を作りたいなあ。

五: 思うよね。本自体に帯やカバーがついていないのもいい。あれ結構邪魔じゃないですか? 私はいつも読むときカバーも帯も取っちゃいます。帯なんて、すぐくしゃくしゃになってしまうし、いいことないですよ。

堂: まったくね。じゃあそろそろ今日の歌の紹介を。

五: 今日は山中の第三歌集『みずかありなむ』から。

  • 石巣(いわす)より石巣にとびて鳥首(とりくび)の重かりきわが狂心(たぶ)るる自由

を取り上げたいと思います。

堂: はい。いやー、わくわくしますね。山中はずっとやりたかったですからね。さて、始めましょう。さっそくですが、五島さんはこの歌のどんなところが好きですか?

五: どんなところっていわれると、難しいなあ。

堂: うーん、なんていうか、読んだときの感覚というか、気持ちというか・・・・・・。

五: そうだな、世界が一気に開かれるような爽快感がありますね。言っていることはかなりシュールで怖いんですけど、不思議とそういう感じは持たない。

堂: あー、なるほど。僕は今日初めてこの歌を読んだんですけど、よく分かりますね。爽快感、たしかにあるなあ。

五: だよね。

堂: あと、「狂心るる」なのに怖くないのもすごいね。なんていうか、歌の姿がものすごくきりっとしているせいか、怖さとかシュールさには目が向かない感じ。

五: 少なくともシュールさや怖さを狙った歌ではないと思いますね。

堂: そうですね。

五: で、この歌の修辞の中心は「鳥」から「われ」への移行にありますね。キーになっているのは三句目「重かりき」です。純粋に鳥を描写しているんだったら、首の重さを感じるはずはないんですね。そこから一気に下句「わが狂心るる自由」へドライブしていく、その官能に強い魅力が宿っているように感じます。

堂: なるほど。ドライブの官能、面白いですね。しかし、どうして「重かりき」を基点として移行できるんだろう。

五: なんでだろうね。

堂: 一般的なところからいうと、やはり身体感覚みたいなことは言えますよね。鳥の首の重さが、「重かりき」で自分の感じているように語られる、ぐっと自分に引き付けられるから、単に対象でしかなかったものに自分の感覚が重ねられる。そうした働きがこの「重かりき」にはあると思います。

五: そうですね。身体感覚。それと同時にこのモチーフは非常に観念的でもあります。この歌の入った連作「会明」の中には他に、

  • きみはわが頭脳のほのほ 夏鳥の羽ふぶき啼く杉群も炎ゆ

という歌もあって、つまり「鳥」は「わが頭脳」の中の風景でもあるんですね。

堂: ああー。かなり観念的なところもある「鳥」なんですね。

五: 観念的だからこそ、「鳥首」という言葉でクローズアップされた鳥の頭が「重かりき」を媒介にして「われ」の頭脳とか頭蓋へと移行できるんでしょうね。「狂心るる」は、歌の中には直接書かれていないその頭脳のイメージから導かれるのだと感じます。

堂: つまり、「具体から抽象に移っていく」というよりも、抽象へ行くための素地が元からあるんですね。観念から観念へ飛翔する感覚だ。

五: 「石巣より石巣に」という部分からは、私は、切り立った崖から崖へ飛ぶ鳥をイメージするんですけど・・・・・・。

堂: そんな感じだと思います。

五: そうだとすると実景としても、かなり観念的な要素が強いですよね。イワツバメのような鳥をイメージしたとしても、切り立った崖のイメージは、何かしら激しいものが込められている。

堂: うーん。たしかに、「わが狂心るる自由」なんていう、ものすごいフレーズは簡単につなげられるようなフレーズではないですからね。

五: だよね。あと、「鳥首」の「首」というイメージも非常に重要で、なんていうか、「首」は頭につながっていますけど、頭が狂うみたいなイメージが潜在的にある。

堂: おおー、なるほど。

五: また、「石巣より石巣にとびて」も、とても危険なものを想起させますしね。

堂: 上句ですでに、緊張がびんびんにあるんですね。それでこその下句なのか。そもそも、「石巣より石巣にとびて」という始まり自体すごいよね。

五: いきなりスピードMax。ジェットコースターに乗っているようなものだ。山中はイメージの出足が速いのが特徴で、普通ならもっと地道な、たとえば身辺から歌い始めて、おかしなところにちょっと触れてそれで終わり。なのに、山中の場合は最初から尋常ならざる場所にいるから、到達できるところが非常に遠いところまで行けるというか・・・・・・。

堂: 開けるというかね。

五: このイメージの速さみたいなものについて行けないときは、山中はなかなか読めないね。

堂: だから、「難解」とよく言われるんですね。

五: 『みずかありなむ』の中では「鳥髪」の一連が有名だしすごい歌が多いんですね、それに匹敵するくらいよく引かれるのが、この歌、

  • 三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや

ですが、堂園くん、この歌はどうですか?

堂: うーん・・・・・・、たしかによく引かれる、有名な歌ですけど、

  • 石巣より石巣にとびて鳥首の重かりきわが狂心るる自由

より広がる感覚がないかなあ。素直に読むと。

五: そうだよねえ。私もあんまりこの歌がいいとは思えないんだよなあ。なんというか抽象的な普遍性へ到達する、「抜け」の感覚が少ない。なんでこの歌が評価されるんだろう?

堂: 「抜け」ね。分かるなー。たぶん、この歌は分かりやすいんじゃないかなあ。

五: どういうところが?

堂: そうだねえ。他の山中の歌に比べて、メッセージというか、内容があるよね。つまり、この歌は「三輪山の背後から月が昇っているけど、月って不思議だよなあ、そもそも月って呼び始めたのは誰なんだろう」という歌ですよね。もちろん、「三輪山」の「古事記」に出てくる伝承とか、あるいは月の照っている山の光景の神秘とか、イメージの広がりはあるけど、でも結局は「月って誰が呼び始めたんだろう」というメッセージが眼目になる。あるいは、それが前面に出る。

五: なるほど。

堂: そうした、メッセージを言語的に抽出できる分かりやすさが、たくさんの引用を招くのではないかな。

五: この歌がちょっと閉じている感じがするのは、良さがある程度簡単に説明できてしまう、すぐパラフレーズできてしまう、というところにあるのかも知れませんね。僕の思う山中の良さとはちょっと違う。最近僕が好きなのは『星肆』のこの歌、

  • 明日といへば余生の一日(ひとひ)きみあらば百歌(ひゃくか)のあらむ余生の一日

です。『星肆』は第八歌集。ご主人を亡くされたあとの歌集ですね。

堂: 「明日といへば余生の一日きみあらば百歌のあらむ余生の一日」・・・・・・。うん、これはすごくいい歌だとおもいます。広がるし、気持ちは強いし。

五: いいでしょう?

堂: なんていうか、歌に対する愛と、夫に対する愛が同じくらい強く感じられる歌ですよね。

五: うん。この歌は「(愛する君が亡くなってしまったから)明日はもう『余生』の一日なんだ。もし、君がいたなら百首の歌があるくらい素晴らしいはずの一日なのに、『余生』の一日なんだ」という意味だからね。

堂: 「百歌のあらむ」が「素晴らしい」につながるところが驚異ですよね。ここまで愛されたら、歌のほうも幸せだね。

五: 二句目と結句のリフレインは、たとえば日本書紀に

  • ぬば玉の甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒

とあるように、古くからある手法なんだけど、その韻律をすごく生かしていると思いますね。「百歌のあらむ」には感動しますね。塾の授業前に読んでたから生徒に笑われてしまった。「先生、目が赤いよ」って。

堂: 感動するよなあ。山中智恵子は、「歌」が本当に好きな感じがするよ。いや、「好き」は違うな。ちょっと安っぽい。そうじゃなくて、「山中は歌だなー」と力を込めて言う感じかな。

五: 山中はなんかもう「歌」に作らされている気がするよ。

堂: それがすごいことだし、素晴らしいですね。ほんとに芸術家だなあと思う。山中は。

五: そうだね。

堂: あんまりこういう印象を他の歌人に抱かないね。たとえば、岡井(隆)さんなんかは芸術家というより、「詩人」て感じだな。僕は。

五: ふーん。

堂: 塚本(邦雄)は「文学者」ね。

五: なんとなく分かるなあ。山中は自らを歌の中に消すことができるというか、歌と一体化して舞っているような感じがあるからね。官能に身をゆだねることができるというか。

堂: そうだね。ジャンルに一体化してる、という感じだね。

五: そうした人の作品は、なにか連れて行ってくれる感覚があるよね。

堂: そうなんだよ。よく分からないところに連れて行ってくれる。「作者が見たもの」とか「作者と対象物」という対立とかでは、どんどんなくなっていく。「詩人」はもっと「言葉を扱う人」という主体が強いなあ。もちろん、良し悪しではなくて、違いだけどね。

五: そうだね。岡井さんの歌は、特に最近のはすごく好きだけど、岡井さんの歌の世界の中に佇んでみたいとは思わない。それに対して山中の歌は、その世界に連れて行ってくれるだけではなくて、読者がその中にしばらく佇むことができるのね。その世界は観念の世界なんだけど、そこで呼吸して、伸びをしたり、寝転んだり、泣いたりできる感じがするのね。

堂: うん。それが「抜け」だよね。

五: そうそう。多くの短歌は、歌われた世界に作者一人の席しか用意されていない。歌を読む僕ら読者は、その歌の光景に感心したり、感動したりはできるけど、普通、一緒に参加はできない。

堂: つまり、スクリーンに映される映像として、歌の中の世界を味わうしかない。でも、「抜け」ると、広い世界が広がっていて、そこに読者も参加できるんだ。

五: その「抜け」た世界の成分は何なんだろうね。観念的っていうのが大事な気がするけど。

堂: そうだね。観念的というか、ある種の普遍性の世界だよね。

五: 普遍性っていうのは?

堂: 表現されたものが古びない世界っていうか。最近出た高橋源一郎の『大人にはわからない日本文学史』という本で書かれていた論理を利用するけど、たとえば、「サザンオールスターズの歌を聴いて感動した」っていうことがあったとして、そのことを言うときに、「サザンオールスターズに感動した」という事実は古びる。しかし、「歌に感動した」という感情は古びない。

五: 「抜け」た先の世界っていうのは、そうした古びないことやものの世界ということか。

堂: 「古びない」が普遍性ということだね。

五: 「発見の歌」なんていう言葉があるように、「発見」による世界の更新に価値を見出す考え方も分かるけど、「発見」だけだと古びてしまう可能性がある。しばらくするとそれが常態化してしまう。だから、「発見」が最重要っていうわけではない。

堂: 小さな更新をどれだけたくさん積んでも、普遍性にアクセスできなければ古びてしまう。小さな差異の世界に留まってしまう。つまり、どう違うかばかりが目立ってしまう。そうじゃなくて、差異を起点として、より大きな世界にたどり着いて、そこで呼吸できるようにしなければね。

五: たどり着いただけでなくて、呼吸までする。読者の居る場所を作る、というのが大切で。観念性というか普遍性への回路はいろいろあると思うけれど、大抵の歌は観念に触れたあと、帰ってきてしまうんだよなあ。

堂: そうそう。観念のことを言うんだけど、それが現実に従属しているんだよ。現実の事象、たとえば、「私の人生がつらい」とか「もっと私を見て」とか言いたいがために、観念を使う。

五: 意味づけの問題があるね。そのときに「使われる」ときの観念って必ず矮小化されてるでしょ。「死」とか「愛」とかそういう風に。これって観念っていうより概念なんだよね。だけど、山中の場合は観念自体が自律しているよね。パラフレーズできないでしょ。

堂: うん。「私の人生がつらい」と言いたいために観念を使うと、どうしても矮小化されてしまいますよね。

五: あと、逆のパターンもあるよね。「愛」とか「死」とか一般的な概念に向って差異を使うパターン。

堂: ああ、あるね。概念のために現実を従属させるパターンだ。

五: 差異に、「それはつまり○○だ」と概念を当てはめてしまうと、差異自体が持っていたはずの様々な要素がぜんぶ捨象されてしまってきらめきが失せるんだよ。

堂: そうだなあ。

五: だから、「愛」や「死」と言葉にできてしまうものを目的にするのも問題なんだよね。こちらも矮小化されているのには違いないんだから。しかも、「私の人生がつらい」とか「もっと私を見て」よりも陳腐さが見えにくいから、より罪が重いよ。

堂: そうすると、やはり山中の凄さは自律した観念世界を作ったことですね。現実と観念はどちらがどちらかを従属させるような陳腐な関係にはないはずだからね。

五: 現実の差異を見ることで「抜け」ることはできるはずだからね。それからもう一つ、パラフレーズ不能という意味で、観念の世界っていうのは非常に現実的な世界なんであって、観念の中では観念こそが現実なんだよね。読者にとってもそうだし、山中にとってもそうなんだと思う。だから、観念と現実の区別は究極的には重要ではないんですよ。

堂: うん。とてもよく分かります。というところでそろそろ締めますか。

五: そうだね。

堂: 五島さん、今日はいかがでしたか?

五: 疲れたけど、楽しかったね。山中智恵子だったからなあ。どんどんテンションが上ったよ。堂園くんの胃腸は?

堂: 僕の胃腸も山中智恵子だったせいか、どんどんテンションが上ったね。

五: それはよかったね。さっき途中でしょうが焼き定食食ってたもんなあ。

堂: 胃弱には山中を読もう。といったところで帰りますか。

五: そうしましょう。戸塚の魔境を通って帰りましょう。

堂: 次に来るときには、さらに複雑になっているといいですね、戸塚。

五: そうだね。二度と帰れないくらいにね。

堂: では、おつかれさまです。

五: おつかれです。

2009年4月 6日 (月)

野口あや子ロングインタビュー

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 今日は中央線の雄、荻窪にいます。さっそく、解説をお願いします。五島さん。

五: 中央線沿いっていうのは独特の雰囲気がありますよね。文化人、知識人、その他の変人がうようよしていますからね。そしてここ、荻窪はその総本山。西荻窪の東にあることでも著名な街です。

堂: あ、

  • コーヒーの湯気を狼煙に星びとの西荻窪は荻窪の西

という佐藤弓生さんの短歌がありますね。しかし、今日は春の嵐なのか、外は風が吹き荒れていますね。恐ろしいほどだ。それに比べて、ここデニーズの中は風も吹いていないし、落ち着きますねえ。さすがデニーズです。ねえ五島さん。

五: いやあ、やっぱりデニーズはいいですね。前回の掲示板収録はさびしかったからなあ。むむ、堂園くん、アボガドハンバーグのバランス野菜仕立てに目をつけるとは不遜ですね。それは私の大好物なんですよ?

堂: 五島さんは彩り野菜のカレーを食べているからいいじゃないですか。いやあ、しかし、デニーズは他のファミレスよりも、ご飯がうまいですねえ。

五: 当然です。なにしろデニーズはミシュランの四つ星にランクされていますからね。

堂: いつものように五島さんの華麗なる適当発言が出たところで、そろそろ今回のゲストに登場していただきましょう。今日のゲストは、第一歌集『くびすじの欠片』を出版された……、

五: 野口あや子さんです!! どうぞ!

(ぱちぱちぱちぱち)

野: まあ、野口です。よろしくお願いします。

堂: 「まあ」ってなんですか。ともあれ、今日はよろしくお願いします。

五: 今回の短歌行は、野口あや子さんへのインタビューです。『くびすじの欠片』、読みましたか、堂園くん。

堂: 当然ですよ。近年まれに見るほどの、相聞歌集でしたね。装丁も凝っているし、非常に目に止まります。前々から短歌行では、野口さんの歌を取り上げることが多かったですし、ぜひいつか野口さんにはインタビューしたいと思っていました。実は最近、早稲田短歌会に来てもらったり、若手の会で顔を合わせたりして、なにかとご縁があるんですよ。それに、歌集を出版されましたし、今回来ていただいたというわけです。

五: では、早速インタビューしていきましょう。

堂: まず、人となりから。

五: 子供のころはどんな遊びをしていましたか?

堂: 五島さんはカタツムリを潰していたんですよね。田口さんのインタビューのときに判明した情報によると。

野: ぎょえー。

五: ……。野口さんは?

野: 本とか、読んでましたね。

堂: 本ですか。どんな本を?

野: どんな本だったかなあ? えーと……。

堂: 何か、作者とか、タイトルとか……。

野: うーん、荻原規子の『空色勾玉』とかの「勾玉シリーズ」とか……。あっ! いま思い出しましたけど、子供のころは古代史に興味がありました。

堂: ん!? 古代史?

野: えーと、卑弥呼とかに興味があって、卑弥呼のマンガを完成させたことがあります。

五: え!? マンガを完成? いきなりすごい話題が出ましたね。

堂: いくつぐらいのときですか? 量は?

野: 12歳ぐらいで、ノート一冊ぶんくらいで……

五: ストーリーは?

野: どこから話そう……。ネパールに「クマリ」という生き神の少女神がいるんですが、無表情で血を流したことのない少女が選ばれるそうなんですよ。それで決まった期間ほとんど人権もなく祀られるんです。

堂: ん? ネパール? 古代史は?

野: それで、その祀られるクマリにヒントを得て、卑弥呼もそういう女の子だったんじゃないかと。で、近未来からタイムスリップしてきた男の子が登場するんです。その男の子と関わることで、卑弥呼が人間的な楽しさや喜びに目覚めていく、というマンガです。

五: すごい深みのあるストーリーですね。

堂: それ、本当に小学生のとき?

野: それでその後、男の子は未来に帰ってしまい、悲しんだ卑弥呼のもとに神が降臨して、卑弥呼は真の女王になるんです。

堂: おおー!

五: 大団円!

堂: すごいですねえ。大河ドラマだ。

五: すばらしい! 同じ時期に堂園くんはダンゴムシを戦わせていたというのに。

野: 読者は一人しかいなかったんですけどね。

堂: そっかー。それでもすごい。正直、いま超読みたいですもん、その話。

五: まだ持ってますか?

野: ああ、ありますよ。このあいだ整理していたら出てきました。でも、初回の最後の一ページだけないんですよ。

堂: 気になりますね、そのページ。

五: その後、そういった興味はどこかに消えてしまったんですか?

野: その後、卑弥呼を調べていくうちに、NHKの「堂々日本史」とかの冊子版を図書館で手に入れて、古代とか古典に興味がわきました。

堂: おっ! 古典ですね。どういった人を読んでいたんですか?

野: あまり内容には、触れるつもりがなくて、読んだのは小野小町とか、生き方に伝説がある人でしたね。いかに歪曲されたかとか、面白いと思いまして。

五: 小野小町の次はどういった感じに?

野: そうですねー、あっ、伝説というところでは、徳川埋蔵金にもその後興味がわいて、「世界ふしぎ発見」の徳川埋蔵金特集を妹に見せて、仲間に入れようとしました。

五: (大爆笑)

野: でも妹は本気で信じちゃって、本気で探し当てるつもりになっていましたね。私は信じてませんでしたけど。

堂: 面白いなあー。

五: それで、古典文学方面でのその後は?

野: 文学方面では、女性の作者やその生き方に興味がいって、そういった人たちをよく読んでました。でも、生き方に興味があったのであって、枕草子とかには行きませんでした。フィクションだけど、源氏物語の葵とか。頑固で、人とか自分とか許せないところに共感しましたね。

堂: なるほど。うなずけます。

五: けっこういきなり大事なことに当たった感じがしますね。

堂: 女性の作品に対する気持は、野口さんの中では重要な気がする。現代では、どんな女性作品を?

野: 中学のときは山田詠美を読みましたね。『風葬の教室』『蝶々の纏足』とか。『ぼくは勉強ができない』とかいったエンターテインメントを押し出している感じより、女の子の性(さが)や業が見えるものを読むと安心した覚えがあります。

五: その辺りが小説との出会いって感じなんですね。最近はどんなものが好きですか。

野: 金原ひとみですね。出会ったのは歌を始めてからですが。あと、鈴木いづみとか。個人的には、まっぱだかで書いている感じのほうが、読む側も楽しめる気がしています。

堂: あ! 鈴木いづみ、僕もとても好きです。なんか、かっこよろしいよね。「理屈はあとだ、みんな死ね。」という言葉、いいよね。

野: 逆に金原ひとみは「理屈はあとだ、生きろ」という感じですよね。

堂: あー、分かる分かる。

五: なるほど、人柄が見えてきましたね。そろそろ歌集の話に入りましょうか。

堂: そうですね。まず、歌集全体についてですが、どういったことを気をつけて作ったんですか?

野: ふつうに、自分の好きな歌、自分らしい歌が入ったらいいな、と思っていてできた感じです。

堂: 自分らしい歌というと、どういう感じでしょう?

野: 人間らしい歌? こいつ生きてるなと感じる、というか。

堂: なるほど。

野: らしいというか、そうありたいと思っている、ということですけど。

五: どんなときに「らしい」歌ができますか?

野: やっぱり相聞を主軸にされがちなのですが、まったくその通りで、恋人じゃなくても、人と関わっているときが「生きてる」って感じがして、歌ができやすいですね。でも、なんというか、相聞でもなんとなく「好き」「嫌い」というときにはできなくて、かなり思いつめるし、どうにかしたいと思ってからのほうが歌ができやすいです。

五: そういえば人と関わっている歌がすごく多い感じしますね。

野: たぶん人がいなかったら歌はできないでしょうね。まあ、「いない」というのは「いた」ということでもあるので、矛盾のある言い方ですけど。

五: うん、

  • やや重いピアスして逢う(外される)ずっと遠くで澄んでいく水

は好きな歌でしたが、「(外される)」を入れたっていうことは、やっぱり人との関わりをモチーフとして大事にしたい、という気持を感じますね。

堂: それはすごく感じますね。野口さんの歌は自分一人だけのことを歌っているときでも、他者がいる感じがして、それが良いと思います。

五: そうですね。私、この歌の入っている「寂光院」という連作、好きです。

  • 雪虫のひとつひとつの祈りかな 賽銭箱の多き山寺

で、急にパーッと視界が開ける感じがして、この歌があることでラスト3首に説得力が増すような気がします。

野: そうなんですか! 意外です。歌集の中で「寂光院」のモチーフって浮いてるかなと心配しながらも入れたのですが。

五: そうかなあ。

堂: 浮いている感じはしなかったけどな。確かに、連作として、始まりの

  • 伽藍とて恋をするのだ靴下で踏む床板がきしきしと鳴く

とかは、珍しいモチーフかな、と思ったけど、五島さんも言ってた、連作最後の3首、

  • 眼のまえを雪虫がゆく抱かれてる時の声だけ上手に覚え
  • 触れて欲しい場所に触れてもらうため線香の火を避けて歩めり
  • 虫食いの紅葉が揺れる血が混ざりあう戦いをまだ味わえず

とか、非常に個性が出ています。

五: うん。

  • 虫食いの紅葉が揺れる血が混ざりあう戦いをまだ味わえず

に見られる、戦いのモチーフ、よく見る気がします。

堂: 人間の関係とは戦いである、という認識が常にある気がする。僕も戦いということをよく考えるので、なんかそこは反応してしまうなあ。

野: そう言われると、自分が少し分かったような気がします。

堂: なんていうかなあ、戦い、て言うとちょっと難しいし、語弊があるんだけど、歌の中で、常に対象や相手を舞台に立たせようとしている気がする。安全圏にいる人たちに、お前も関係性の戦場に立て! と言っている。なんか、ぼーっとしてんじゃねーよ、という声が、歌から聞こえる(笑)。

五: (笑)。そのへんが気持いいよね。

堂: フェア精神がひどく強い気がするんですよ、裏取り引きとかで、なあなあに分かり合ったりするのは嫌なんだと思う。例えば、

  • 肘にある湿疹ふいに見せるとき目をそらさない君がいたこと

とか、

  • きっぱりと降りる初霜 わたくしの嫌うひとにも苦しみはある

とかを読んでもそうですよね。こうした、「私もお前もちゃんとしろ」はとてもよい個性だと、僕は思います。

野: なんとなく分かってきました。なんだろうな、歌そのものに関してだけではないんだけど、相手の都合を考えずに、まず何にでも見切り発車でぶつかっているのは自覚していて、上下とか見ずに生で人と関わりたいというのが、性格的にも歌にも出ちゃうんだと思う。それが「ちゃんとしろ」になるというか。良いか悪いかといえば、私としてはわがままな面を感じてよくない気がたまにするんですけどね。

堂: うーん、よく分かんないけど、僕はすごくいいと思うけどね。

五: 私もそう思います。関連するかどうか分かりませんけど、

  • ファンデーションから浮き上がる汗ぬぐいぬぐいて夏の陸橋わたる

とか、自己認識の厳しさを感じます。「ファンデーションから浮き上がる汗」とか書けるところが。

野: うーん、逆に不思議なんですけど、どうしてそういう例えば、ファンデーションに汗がにじむ、みたいな事を歌うのがこうして気に入られるんだろう。女の人ならみんなあることなのに。

五: 「気に入る」というより「ぎょっとする」に近くて、生身の衝迫感みたいなものに息を呑む、という感じですね。「気に入られたい」っていう動機からはこういう歌はまず出てこないはずだから、野口さんの歌への姿勢が垣間見えるような気がしたんです。

堂: それ、すごく分かります。こういうモチーフや体感は女の人によくあるかもしれないけど、他の人はもっと雰囲気で理解しようとしている。それに対して野口さんは「浮き上がる」という視線とか、「ぬぐいぬぐいて」という踏み込み方とか、雰囲気では終らせず、もっと自分の体感に踏み入ろうとしている。それは自分でも、「これ」とはっきり言えないものなんだろうけど、それでもなんとかして言おうという意志をすごく感じる。そういう感じかな。

野: あー、「雰囲気」とか苦手ですね。確かに。

堂: あ、いま思ったけど、これは歌を作る態度とか精神論の話ではなくて、歌から感じられる特徴のことだ、とひと言っといたほうがいいかも。混同しやすいから、そこ。

五: 言いなよ。

堂: 精神論じゃないです。

野: まあ、私は分けて考えきれないのですけど、言いたい、読まれたい、というのが過剰に出るから分けられないのかもしれません。ちゃんと読み手とキャッチボールをしたいというか。それが一首でもできたら、あとは歌集にコーヒーぶっかけられてもいいと思うんでね。

堂: かっこいいなあ(笑)。

野: 歌集をなんで読んでもらいたいかというと、関わりたいから読んでもらいたいんですよ。歌集自体が、「相聞」なんでしょうかね。

五: そうなんだろうね。

堂: でも、本当に相聞歌集だよね。読んでも読んでも相聞で、この人は相聞の鬼だなー、と思った(笑)。

五: 「相聞的な気分」ていうような、生やさしいものじゃないからね。

野: 相手にあこがれみたいなものが、持てないんですよね。もっとこっち来い! みたいな性格であり、相聞歌な気がします。はっきりわたし(あえてカッコなし)に興味を持ってほしくてやっているんだろうなあ、と少し自覚しています。

堂: うん、それが分かって、面白かった。僕が好きだったのはこれですね。

  • 下の名で呼べばさんさん水しぶきあなたの娘を売り飛ばしたい

これ、すごく印象に残った。特に下句がすごい。「売り飛ばしたい」って(笑)。この迫力が突き抜けていて、ある種、爽やかな気持になりました。

五: その歌、すごいよね。

野: (苦笑)

堂: あと、

  • 母の書くメモを幾度も折りたたみ白線の内側で夢を待つ

も印象に残った。これも下句がいいです。「夢」って短歌で頻繁に使われる、わりと安易な言葉だけど、この歌ではそれが生きていると思う。

野: え、それは自分ではちょっと没個性かなあ、と思ったんですけど。母の歌だったら、

  • 真夜中の鎖骨をつたうぬるい水あのひとを言う母なまぐさい

の方が特徴が出てないですか?

堂: うーん、僕としてはそちらの歌の方が個性がない気がしますけど。個性がない、は言いすぎだな。いい歌だし、他の人にはたぶん歌えないけど、その歌の場合、面白さがずいぶん散文的な気がする。つまり、なんとなく言葉で説明できるかなって思う。この歌は、自分の恋人のことを話す母に性的な様子を感じて、その微妙な感受が嫌悪につながる、という感じですよね。それを「なまぐさい」で表現している。なんというか、ある種分析できる。

野: ふむ。

堂: でも、それに対して、「あなたの娘を売り飛ばしたい」とか「白線の内側で夢を待つ」とかは、うまく分析できなくて、作者としてもよく分からないまま言葉が発せられている気がする。この分析不可能な感じとか、定型のリズムと感情が結びついている感じ、よい意味でリズムに言葉を言わされている感じ、とかこそが定型詩の良さだと思うので。

五: 最終的によく分からないところに行かないとね。

堂: まあ、この話は、僕はそうだ、に過ぎないし、「分析できないのはお前がその歌をうまく読めていないだけだ」、と言われてしまうと、だまっちゃうんですけど。

五: どうですか?

野: なんだかすごく面白い気分になってます。

堂: そうですか、それはよかった。

五: そうだ、では、そろそろ野口さんの好きな歌人の話をしましょうか。どんな歌人が好きですか?

野: 最初に言ったように女性作家に興味が強いんですけど、亡くなった方ですが永井陽子さんですね。泣きますね。

堂: ああー、僕も好きです。

五: 例えばどんな歌が好きですか?

野: そうですね。

  • 身をやつしこころをやつしうつそみのひとを愛すと笛天に吹く

ですね。

堂: なるほど。

野: あと、耳の鼓動の歌、

  • 逝く父をとほくおもへる耳底にさくらながれてながれてやまぬ

とか好きですね。私も酔うと耳のへんが「トクトクトク」と言うんですけど、その時のぼんやりと覚醒が混ざっているような感じが永井さんの歌にはします。しかも、目覚めたのではなく、誰かに目覚めさせられたような頼りなさが、うっとりしますね。

五: ふむ。

堂: あー、それ面白いね。

五: 永井陽子さんを好きなことが伝わりますね。

堂: うん。じゃあそろそろ好きなアーティストの話を聞きましょうか。誰が好きですか?

野: えーと、うーんと、

五: じゃあ、例によって、表で。ドン!

Nogutiartists

堂: おおー。

五: なるほどー。

野: (ぐったり)

五: たくさん答えさせられて、疲れていますね(笑)。

堂: やっぱり特徴が出てますね。

五: 注目はやはり椎名林檎、Chara、Cocco、UAあたりの◎◎ですとか、ミスチル××ですかね。アムロも◎なんですね。

野: 一人で戦っている女の人が好きですね。ミスチルは周りが好きだから反発してます。あと、雰囲気感でかわいいという女の子を避ける傾向にあります。

堂: そうなんだ(笑)。でも、僕もミスチルだめだなあ。なんか。

五: 私は好きだけど。まあ、といったところで締めますか。

堂: そうですね。『くびすじの欠片』は本当にいい歌集ですから、ぜひ、これを読まれている皆さんにも買って読んでいただきたいです。注文は短歌研究社(http://www.mmjp.or.jp/TANKAKENKYU/trial.html#kasyuu)に連絡すればいいんですよね。

野: はい。

五: ぜひ読んでいただきたいです。いやー、今回も疲れたね。スカッとすることがしたいな。野口さんもお疲れさまです。今日はどうでした?

野: いやいや、楽しかったです。勝手に楽しんだ感がありますが。

堂: 僕も面白かったです。

五: 今日はほんとうにありがとうございました。

野: いやいやこちらこそ。

堂: こちらの直球や変化球の質問に、がっちり答えてくれたのが、頼もしかったですよ。

五: 直球や変化球!?

堂: ん? どうしたんですか、五島さん。

五: そうだ野球だ!

堂: え?

野: 急にテンションが上りましたね。

五: ここ、荻窪にはバッティングセンターがあるんですよ!! スッキリするには、やはり野球です。野口さん、ちょっと勝負しましょう。

野: ……。

堂: やれやれ、五島さんは野球に目がないですねえ。野口さん、ひと勝負してあげてください。めんどくさいかもしれないけど、お願いします。

野: しょうがないなあ。

五: やった! 野球だ! じゃあ行きましょう!

堂: はいはい、お疲れ様です。

野: お疲れ様です。

五: お疲れです。

2009年2月28日 (土)

俺たち早稲田短歌会!!

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 今日の場所は、どこでしょう? 五島さん。

五: どこでしょうね。あえて言うならば、どこでもない場所、とでも申せましょうか。

堂: どこでもない場所、ですか。いきなりファンタジー路線になりましたね。短歌行、初の試みですね。

五: その通りです。この日のために私はタイピングソフトでブラインドタッチの研鑽を積んできたわけですからね。つまり、今回の場所は……

(ファンファーレの音)

五: インターネット掲示板です!

堂: な、なんですって!じゃあ、今の僕たちは……。

五: そうです。実体のない、いわば電子状の存在とでもいいましょうか。

堂: すごい! 短歌行にもついに技術の革命が!

五: やりましたね。

堂: では、いつものように場所解説を聞きましょうか。博士、インターネット掲示板の説明を。

五: この掲示板はかわいい猫のキャラクターが特徴ですね。書き込みに「ニコニコ」、「ワクワク」、「キョロキョロ」など十数種類の表情を添えてくれるようになっているんです。私は「シクシク」でいきますよ。ファミレスでできなくて実は悲しいですからね。はい、クリック。

堂: わあほんとうだ。猫が涙を流しています。じゃあ僕も「シクシク」で。

五: シクシク。

堂: シクシク。

五: というわけで、エレクトリシティーのとめどない煌めきの中からお届けする今回の短歌行は……

堂: 「俺たち早稲田短歌会!!」です!

五: おおっ!

堂: 私も五島さんも早稲田短歌会出身です。そこで今回は早稲田短歌会から生まれた数々の名歌をご紹介しよう、というわけです。

五: とは言っても、早稲田短歌会には長い長い歴史がありますから、そのすべてを網羅するのは大変です。

堂: そうです。ですから、我々が在籍していた時代に生まれた、あまり知られてはいないけれども注目すべき歌たちを、少しご披露しましょう。

五: なにしろ、当時の早稲田短歌会は人材の宝庫でしたからね。これを我々だけで楽しんでいるのはもったいない。ぜひ皆さんにお伝えしたいです。

堂: 僕が入ったとき、色んな人がいたなあ……。僕と五島さんは3学年違いだったんですが、キャラクターが独特な人ばかりで、初めびびりました。

五: びびったんだ。

堂: びびりました。

五: しかし、皆いい歌作ってましたね。歌会やってて楽しかった。

堂: それはほんとそうですね。なんか歌会ばっかりやってましたね。

五: 週一で歌会やって、そのほかに勉強会も週一でやってましたよね。人間関係が煮詰まっていく感覚は、学生独特のものでしょうね。

堂: しょっちゅうファミレスで喋ってましたしね。短歌行もある意味その延長にありますよね。

五: はい。夏目坂のデニーズがなくなったときは本当に悲しかった。自分の身体の一部が切り取られたみたいでした。思い出の場所です。そういう意味では、ファミレスというのも、私にとっては大切な場所なのであって、取り替えがきかないものなんですよ。

堂: あそこよくいきましたねー。僕も悲しかった。今日はファミレスからお送りできないのが、なんだか残念になってきましたが、そろそろ始めましょうか。

五: はい。では第一弾。秋元裕一作品から見ていきましょう。

  • 長い間どうもありがとうこれからもどうかよろしく >format c:  秋元裕一

これは堂園くんが入学する一年くらい前の作品です。どうですか? いいでしょう、これ。

堂: 独特な寂しさがありますね。秋元作品は平易な表現と、一筋縄ではいかない叙情に特徴がありますね。

五: そうなんですよね。この寂しさの感じは、音楽でいうと the pillows あたりが近い気がします。

堂: うん、なんとなくわかる。

五: この歌は、パソコンのCドライブ、つまりメイン領域を初期化する場面ですね。「>format c:」はそのコマンドです。

堂: なるほど。普通、「長い間どうもありがとうこれからもどうかよろしく」という言葉のあとに、関係を消してしまう初期化は行わないですよね。

五: そこですね。まず今までの関係性に対して、「長い間どうもありがとう」、それからこれから始まる新しい関係性に対して「これからもどうぞよろしく」って言っているわけですね。初期化すると、今までのパソコンとの関係はすべて消えてしまうんだけど、パソコン自体は変わらない。それなのにその前後で関係性は全く違ったものになる。人間だとこうはいきません。記憶は消せない。

堂: そうですね。人間同士の関係性は通常、連綿と続くものですからね。関係性がスッパリ変ったりはしないです。

五: はい。

堂: しかし、この歌はパソコンに対して声をかけているわけですから、擬人的にパソコンを見ているわけですよね。そこが面白いし、さらに言えば、主体と誰かの関係も暗示していますよね。

五: つまりパソコンのパソコン性と人間性とを二重写しにしている。ロボット関連の表現作品(あまり詳しくないのでこの括りで勘弁してください)なんかでもありますよね。

堂: ロボットと人間の対比は流行りました。

五: パソコンって使っていると、データが消えてしまうんじゃないかっていう不安が、常にどっかにあるような気がしませんか? そのあたりの不安感や心もとなさと、すべて消えてしまうという潔さ、清潔な感じが入り混じっている感じがするんですよね。そこに独特の寂しさが生まれる。同じ連作には、

  • 花びらが入ってくるまでこのままのカッコで口を開けてるつもり
  • どうしてもおかしくなってしまうならおかしくなってしまえばいいよ。
  • することがなにもないので美容院にあなたの匂いをまといにいった

といった作品があります。

堂: どの歌も優しいですね。優しさがねじくれてしまって、寂しさになっていますね。

五: そんな感じしますよね。一連のタイトルは「>format c:」なんですけど、そうすると二首目「どうしても…」あたりもパソコンと人間とを二重写しにしているのかもしれない。この歌、なんだかすごーく懐かしいような切ないような気持ちにさせるんだよなあ。

堂: 最後の「。」とかもすごく心をくすぐります。三首目「することが…」も、行為としては情けないけれども、切なさがある。こうした、心を揺り動かす原因はなんでしょうね?

五: 一つには、記憶とか気配とかの機微に非常に敏感だということがあるような気がします。

堂: なるほど、言えてますね。

五: パソコンは素材としてはありふれているけれど、これほど繊細に扱える人はなかなかいないと思いますね。『早稲田短歌34号』に載った、

  • 消えかけた絵馬を読もうと触れたとき置いて行かれたことに気付いた

なども記憶にまつわる機微ですね。

堂: 「消えかけた絵馬」というかつてあった記憶を、「読もうと触れる」。ここに繊細な機微が強く出ている。とくに、「触れる」です。しかも、そののち「置いて行かれたこと」に、気付く。「気付いた」ことにも繊細な敏感さがとても表されていますね。

五: ですね。

堂: 「気付いた」ときのハッとした感情まで読み手に感じさせて、これもいい歌です。

五: 絵馬に手を触れるポーズのまま気付いているところがいい。

堂: しかも、表現がポップですよね。さっきの「花びらが…」もそうだけど、じめじめしていたり、重々しくなったり、えらそうになろうとしない。これもかなりすごいことです。

五: 文体はさらっとしているんですよね。

堂: でも、感覚の繊細さが際立っているので、ポップさ、平明さが、けして陳腐さに堕していかないんですよね。文体としても、平易だから一見練られたように見えないかもしれないけど、実はかなり繊細さが満ちている。

五: 「そのままのカッコ」の「カッコ」とかもいいよね。それからちょっと話に出ていたかもしれないけれど、作中主体の親しみやすさがポップさに繋がっていそうですね。

堂: そうですね。短歌の作中主体の性格は親しみにくいことが多いけれども、秋元作品は非常に親しみやすい。「することが…」もナルシシズムがないわけじゃないけど、まったく嫌な感じがしない。理由はさきほど述べたように、繊細さ、敏感さが感じられるからだと思いますが、この人とは友達になれそう、と思わせるような素敵さがある。

五: そうそう。たとえば学識とか独白の内容を過激にすることによってオリジナルな主体を出そうとしない。「おかしくなってしまえばいいよ。」というのも、こういう考え自体は珍しくないんだけど、ふっと親近感が湧くんですね。

堂: 作品の強度を保つやり方が、従来の多くの短歌が採用している方法とは別の方法が取られている。秋元作品を読んでいると、口語短歌の可能性を感じますよね。

五: ではそろそろ次に。次は山崎聡子さんの

  • 動物記の裏表紙なる「いさましいジャックウサギ」が浴びる夕焼け

です。この歌、文句なく名歌だと思います。

堂: いやー、名歌ですね。堂々とした姿といい、着想の広がりといい、まさに名歌というに相応しい。秀歌、ではなく名歌です。ではまず、解釈してみましょうか。

五: はい。「動物記」は『シートン動物記』ですね。「いさましいジャックウサギ」はその中の一篇のタイトルでしょうか。

堂: その一冊の裏表紙に挿絵が描かれているんですね。

五: 夕焼けを浴びて立っているジャックウサギの挿絵です。なんという光景でしょう。この歌をはじめて歌会で見たときは、戦慄すら覚えたものです。

堂: あ、僕は「いさましいジャックウサギ」という挿絵に、実際に夕陽がかかっているのかと思っていた。そのほうが、目の前の現実にまで景が広がっていく感じがして。でも、どっちでもいいか。

五: うん。それも考えたけど、なんとなく挿絵でとりたかった。この歌の場合一番重要なのは語感だから、どっちでもいいと思うけど。「裏表紙」とあることから、本棚にあるのではなくて床かどっかに横倒しになっていることが分かりますね。その佇まいがとってもいいんです。

堂: そうですね。横倒しであること、かなり重要ですね。なんでだろう、やっぱり一つ、ということが分かるからかな。本棚にあるとたくさんの本に紛れてしまうけれど、床に落ちていると一冊、と存在が際立つ。なにか孤高の感触もあるね。

五: そうそう。その孤高さが、「いさましいジャックウサギ」のかっこよさに合っているんですね。

堂: ですね。あと、「ジャックウサギ」なのもいいよね。

五: オオカミとかトラじゃだめだね。「ジャックウサギ」に「いさましい」という形容詞をかぶせた瞬間に孤高度が飛躍的に上がる。それに、「動物記」という選択も実に渋い。

堂: 渋いですね。子供が読む本としてはクラッシクな本で、ある程度厚みがあって……。

五: その質感がね。

堂: すぐに分かる。字が大きいこととか、絵がちょっと古くさくて味があることとか、そういうことも瞬時に分かる。それがいいし、内容に合っている。

五: そうした本の性質がどこかノスタルジックな部分をくすぐるよね。

堂: 僕、実は『シートン動物記』を読んだことないんですけど、それでもこれだけで分かって、くすぐられたものなあ。

五: 私は『シートン動物記』、愛読したほうで、「いさましいジャックウサギ」というタイトルだったか忘れたけど、かっこいいウサギが出てくる話があったのを覚えています。でも読んでなくても心に響く歌なんですね。

堂: そうですね。そこはすごいよね。やはり、この表現の持っている感じみたいなのが、単に個人的なものから脱してるからでしょうね。

五: うん。あと、言葉つきでは「裏表紙なる」の「なる」とかかっこいいですよね。

堂: かっこいいですね。ここでちょっと締まった感じを受ける。

五: うーん、名歌だなあ!

堂: といったところで五島さん、次はどんな歌を紹介してくれるんですか?

五: 次は長歌です。ちょっと長いですよ。早稲田短歌30号、「空間」と名づけられた一連に登場します。

長歌Ⅰ「古代」

はにわ 土偶の
昔には 目にうつる
全てのものが 空白の
ネイムプレート 万象に
人々は 名前をつけた

名前というのは 即ち詩だ
古代の人の 生きた血だ

現代 二十世紀の 末には
すでに あらゆるものに
名があって 見上げれば
空という名の 青くて
広い 空間に
太陽という 球体がある

反歌
見上げればただ青だけの空間にバベルの塔を立てたくなった   石井輝馬

堂: きましたねー、長歌。繊細な秋元作品や凛とした山崎作品とは、また違った雰囲気がありますが、まずちょっと解説をしてくれません?

五: 作者の石井さんは早稲田短歌の2年先輩。ギターをかき鳴らしながら「カントリー・ロード」を歌っていたのを覚えています。ちなみに秋元くんと山崎さんは僕の同級生です。

堂: では歌の解説を。

五: はいはい。この長歌、簡潔に言えば、人々が万物に名前をつけていった古代への憧憬を詠っています。そのテーマだけでも僕には十分面白いです。なんというか、文系男子学生のもっとも良質なロマンがある。

堂: なるほど。そういえば、行間からワクワクとした気持が伝わってきますね。

五: でしょう。

堂: しかし、「はにわ 土偶の 昔には」って始まり、面白いですね。

五: 出だしのそのフレーズがすでにすごいですよね。「はにわ 土偶の 昔には」って、はにわと土偶は時代が違うのに一緒くたに捉えているのが笑えます。本気なんだけど、ちょっとずれている。タイトルが「古代Ⅰ」なのでちょっと本格的・学術的な叙事詩みたいなものを想像するんですけど、最初のフレーズでいきなりその線は消えます。後に残るのは純化されたロマンだけ。それに、3・4・5のリズムがいいですね。

堂: そうですね。このリズムと、そしてこのちょっと笑える始まりかたが親しみやすさにつながってますね。テーマは壮大なんだけど、一人の青年の健やかさみたいなものが溢れてます。

五: そんな第一連から調子が一転するのが第二連です。「~だ」という断定にのせて高らかに詠嘆している。ここでテンションが最高潮に達するわけです。

堂: 「生きた血だ」がすごいです。

五: すごいよね。

堂: 名前が詩だ、という発想はわりかしあるかもしれないけど、「生きた血だ」でイメージが広がりますね。

五: 「詩だ」と「血だ」で韻をふんでいるようなところも見逃せません。

堂: で、第三連に続くわけですね。第三連の見所は。

五: 万物に名前をつけていく、という精神の根源のような行為を失った現代が描かれています。第二連で盛り上がった気分が第三連でちょっと沈んでセンチメンタルなところを垣間見せている。そのへんの呼吸が絶妙です。

堂: しかし、そこには太陽という球体があるんだ。青い空の中のたったひとつの太陽、という太陽のイメージが強く残る終り方ですね。

五: はい。ちょっとだけセンチメンタルな気分も空と太陽に吸い込まれていくような、そんな終わり方です。反歌についてコメントはありますか?

堂: 僕はこの返歌にも青年らしさが溢れていると思いました。バベルの塔、といえば愚かしさの象徴であり、いずれ崩されるものですが、それを広々とした明るい、でもどこか空虚な空間に立てたくなる、というのは青年の気持だと思います。

五: 青年らしさ、わかります。「立てたくなった」というさらっとした言い方の中に、青年期のある種の断念からくるペーソスが感じられます。一連にはほかに、

  • 真夜中にPlayStationスコールとリノアの恋に救われている

という歌もあります。見開き1ページを使って、この歌だけを3回登場させています。

堂: その歌もなんかすごいですね。「スコールとリノア」というのは「ファイナルファンタジー8」のキャラクターで、まあ要するにゲームのキャラクターですね。ゲームキャラクターのステレオタイプの恋に真夜中に救われる、というのは目の前のどうにもならない現実から救われたいけれどそれが叶わない気持が強く出ています。

五: うん。でも「救われている」と書くからには、やはり本当に少し救われているんですよね。そして「救われている」と書ける作者像に非常にナイーヴなものを感じます。ここにも文系的なロマンとペーソスの最良の部分が顔を出しているような気がするんです。

堂: ふむ。「やはり本当に少し救われている」、分かります。そこらへんの機微が読みどころなんでしょうね。ニヒリズムの中のかすかなロマンティシズム、というか。いま、30号を見返してみたんですが、本当に見開きにおんなじ歌が、3つ並んでいる。これはちょっとウッときますね。なんか、内容に対して「おいおいそれはちょっと……」とツッコミを入れそうになって、やっぱりやめとこう、となる。なんか、この主体がナイーブすぎて手が引っ込んでしまう(笑)。

五: 確かにそう言うことはできると思うんです。この歌もまたさっきの長歌と同じ心から生まれている作品だということを強く感じて、だから僕は二つ同時に紹介したかったんです。

堂: それはほんとにそうですね。同じ心が書いている。そう思うと、ちょっと胸を打つ、というか、はかないものを見ているような気持になります。でも、この感じは僕にはストライクではないかなー。五島さんといま話してて思ったけど。

五: 私はこの作品があることが石井さんの場合にはむしろ総体として完成度を高めるほうに作用していると思います。この二作だけだとちょっとごり押しもできませんが。といったところで、「俺たち早稲田短歌会」の第一回、そろそろ締めましょうか。

堂: そうですね。そろそろ締めましょう。ふー、しかし、電子の海に漂うのも疲れますね。

五: 終わったしウィスキーでもいただきましょう、っていう感じでもないしね。キーボードの音だけが友達です。

堂: そうですね。さびしーなー。そういえば、五島さん、冒頭でタイピングソフトでブラインドタッチを練習したと言ってましたが、どんなタイピングソフトを使ったんですか?

五: キティちゃんのタイピングソフトです。おかげでかなり上達したんですよ。

堂: キティちゃん!? なんですか、それ。あいかわらずキャラに合わないことするなー。ちなみに僕は北斗の拳のタイピングソフトです。

五: 私のキティちゃんを侮辱しましたね。キティアタックの錆にしてあげましょうか。

堂: じゃあ僕は北斗百烈拳で応戦しましょう。

五: では、とりあえず締めて、それから勝負ですね。

堂: 望むところです。

五: では、お疲れ様です。

堂: お疲れです。

2009年2月 6日 (金)

冬陽の中の現代詩文庫

堂園です。

突然ですが、新しいブログを始めました。

タイトルは「冬陽の中の現代詩文庫」。

現代詩文庫を一から順番に読んでいく企画です。

短歌行ともども、ご愛顧よろしくお願いします。

アドレスはこちら→(http://huyubi.blog14.fc2.com/

2009年1月25日 (日)

2009年2月の総合誌を読む

2009年2月

五島選

  • とれたての公務員からしぼりとる真冬の星の匂いの公務  笹井宏之 「歌壇」p.157
  • 集積が力のようなものになるかかえきれないひなげしの群れ  佐藤りえ 「短歌研究」p.100
  • 塩の柱となるべき我らおだやかな夏のひと日にすだちを絞る  服部真里子 「歌壇」p.55
  • 4号機に放射能洩れがみつかつたときの1号機のやうな立ち方  岡井隆 「角川短歌」p.19
  • 懸案の事項からいま新緑がけぶりはじめてゴールデンウィーク  今井ゆきこ 「歌壇」p.54

堂園選

  • 零歳も五十五歳もにこつとすわれを撃つなとにこつとすなり  斎藤寛 「角川短歌」p.247
  • 両の眼の間隔が徐々に狭くなり鼻梁が痛いひまわり畑  東洋 「角川短歌」p.244
  • 手袋の小さきキティがよく遊びよく菓子を食ひよく眠りたり  西ノ原仁 「角川短歌」p.248
  • 小さきもの陽の中きらきら浮遊するその小ささの中々にあやしき  竹内キク 「短歌研究」p.167
  • ATMの監視カメラににっこりと笑いかけたるのちに引き出す  森田小夜子 「角川短歌」p.251

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 今日は大船にいます。すかいらーくです。すかいらーくは初だ。初、というか最近あんまり見ないですよね、すかいらーく。

五: すかいらーくは全店幻でできていますからね。

堂: そのギャグはよくわからないよ、五島さん。それはいいとして、大船の解説をお願いします。

五: 大船はいいところですよ。何でもありますからね。中でも有名なのが湘南美術学院です。美大を目指す高校生が神奈川全土から集まってくる、まさに美大進学のメッカなんですよ、大船は。よく見ると若い人はみんなピカソの描く人物のようにあらぬところに目や鼻がついていたりします。

堂: ……。

五: なんですかその反応は。

堂: あいかわらず、どこまでが事実か判別しにくいコメントをするなあ、と思いまして。

五: まあ大船素人はいつもそうおっしゃいますね。

堂: うーん、僕がさっき散歩した感じでは、あらぬところに目鼻がついた人は皆無でしたが、確かにいいところでした。魚市場があって、牡蠣が安かった。2パック500円でした。うちの近くだと、だいたい1パック500円くらいですね。買いたかった。

五: ほう。

堂: まあ、座が牡蠣臭くなるので、やめましたが。

五: 秋は秋刀魚とかも安いんですよ。3尾150円を見たことがあります。

堂: それはすばらしい! うちの近くでは、旬の安いときで1尾90円くらいです。いーなー、大船。ところで、あのでかい観音についてはコメントないんですか?(注:大船には「大船観音」という超でかい観音があります)

五: ありません。

堂: そうですか。では始めますか。今日は通常営業で、ひさびさに総合誌3誌から、2人で5首ずつ選歌をして、話をしていきたいです。

五: 今回も選りすぐりの短歌をお送りします。

堂: では、順番にやっていきましょう。まずは笹井宏之さんの

  • とれたての公務員からしぼりとる真冬の星の匂いの公務

です。採られた五島さん、どうですか?

五: はい。今回は3誌の中で私はこの歌が一番いいと思いました。公務員はここ5年くらい旬ですね。公務員制度改革が叫ばれていますし、大阪市のように給料を取りすぎているという報道がされたり、着服事件が問題になったりと話題には事欠きません。そんな公務員を果物に喩えていることに、まず目を見張ります。

堂: 確かによく聞く話題ですねえ。

五: その話題はどちらかというと暗いイメージの話題が圧倒的に多いですよね。公務員=悪、というイメージさえある。笹井さんはそのイメージを逆手に取って、瑞々しい果物というイメージを持ってきているんですね。

堂: そうですね。かなり現実的で、ポエティックではない「公務員」という言葉が、きらきらとしたものに変質している。このイメージの転化のさせ方が面白いですね。

五: はい。批評意識が前景化するのではなくて、むしろ一首からはきらきらとしたポエジーが匂い立つ。普通の意味での批評意識からはこのような言葉は絶対に生まれない。非公務員の立場から公務員を批判する言説に乗っかってしまうだけでしょう。「真冬の星の匂いの公務」という部分からは、公務というものがきらきらとして美しいもののように感じられ、そういうものはしぼりとられるものなのであるというような、世界そのもののハードさにまで届くような表現になっていると思うんです。

堂: 僕が読んだときは「現実→きらきら」のギャップのみで、読んで面白い、と思いましたが、確かに、そこまで読み取れる表現ですね。説得されました。意図的かどうかは別として、そうするとかなり射程の長い表現ですね。

五: ところで、「しぼりとる」の主語はなんでしょうね。

堂: ああ、何でしょうね。主語省略は「私」を補えという鉄則があるけど、この場合は「私」ではないですね。

五: そうですよね。もっと一般化された何者かですね。

堂: そのあたりが歌柄の大きさにつながっているのは確かでしょうね。

五: 「人々」、「我々」、「時代」……etcと、いろいろ候補が浮かびますが、そういう何者かなんですよね。このあたりが普通の歌と位相が違う歌になっている理由の一つですよね。

堂: 笹井さんは他に

  • あんぱんがたべたいひととあんぱんのあいだに物凄い滝がある

も面白かった。笑いました、これ。

五: あ、それも良かった。といったところで次の歌に行きましょう。斎藤寛さんの

  • 零歳も五十五歳もにこつとすわれを撃つなとにこつとすなり

です。

堂: はい。今回の僕の選はすべて投稿欄からです。特にそうしよう、と思ったわけではなくて、自然とそうなってしまったんですが、中でもこの歌が一番よかったかな。

五: いい歌ですねえ。しかし、これはどういう状況なんでしょうね。

堂: どういう状況なんでしょうね。非常に怖い。僕は、はじめ中東諸国のゲリラ軍が多い状況とか、テロとかをイメージしましたが、そこまで限定しなくてもいいかもしれませんね。日本での無差別殺人もイメージさせるし、あるいは写真とか本とかのフィクションでもいい。とにかく、零歳も、五十五歳も、人間はにこっとするんです。撃たれないために。

五: はい。五十五歳という微妙な数値が挙がっているので、何かありそうな気もしますが、より一般的に解釈していいかも知れませんね。

堂: と、思います。その普遍的なところがやはりよくて、よくある時事詠のように事実のこまごまとしたところを言いつのるよりも、ピシッと時代的な恐怖を伝えていると思う。

五: 恐怖と、さらに言えば生きていることの切実さですよね。

堂: それもありますね。「にこっとしないと撃たれる」という状況への怖さと同時に、「人間はにこっとするものだ」という人間の性質の切実さも表わされている。

五: ですね。それにしてもこの歌、4句目でいきなり極限状況が現れるという作りになっていますよね。ここで日常が破られていることで、本質が丸裸になっているような感覚があります。

堂: そうですね。どきっとしてしまいます。あと、「零歳」と「五十五歳」という幅のつけ方も効いていますね。

五: うん。でも、どう効いているんでしょう?

堂: ちょっと難しいんですけど、例えば「零歳」と「百歳」ではやはり嘘くさくなってしまう。それは明らかです。あと、「五十五」という数字も何か表しているものがあって、「ごじゅうご」という音やリズムがどっしりしているせいか、歌に落ち着きと深みが加わっている気がする。それに、「五十五歳」を考えると、壮年から老年にさしかかる頃ですが、なんとなく落ち着きのある人格をイメージして、その人がにこっとする姿は複雑性を増していると思う。

五: 「五十五歳」とこの歌の中で聞くと、不思議と男性をイメージしますね。なんでだろう。

堂: あ! 僕も男性をイメージしていました。不思議だなあ。

五: それは不思議だね。しかし、うん、いい歌でした。では、次に。佐藤りえさんの

  • 集積が力のようなものになるかかえきれないひなげしの群れ

です。

堂: はい。

五: 抽象と具体、アフォリズムと景、というよくある構図に沿って書かれた歌ではあると思いますが、説得力があると思いました。なんというか、「集積」という語が「かかえきれないひなげしの群れ」で具現されるとき、ひなげしのボリューム感と花の明るさが一挙に押し寄せるような感じがして、そこに説得されるんでしょうね。ああ、これは確かに「力のようなもの」だな、と思えるわけです。

堂: やはりイメージで手渡されるのところがよいと思いますね。「力のような」の「ような」などに気が使われていますね。

五: 「力」と言うよりももっと明るいやさしい何か。力と言えば言えるかも知れないんだけど、そう言った瞬間に少しずれてしまうような、そういう微妙なニュアンスを伝えようとしているんですね。

堂: ですね。では次に。東洋さんの

  • 両の眼の間隔が徐々に狭くなり鼻梁が痛いひまわり畑

です。まず読みを。たくさんのひまわりが咲くひまわり畑にいたら、だんだん両の眼の間が狭まってきて、鼻が痛いような感覚に陥った、というふうに読みました。

五: そう読みたいです。

堂: それで、面白かったのは、やはり両の眼の間がだんだんと狭まって、鼻に集まってくる感覚、これが体感として分かったことでしょうね。「徐々に」とか、効いていますし、「鼻梁」という固い言葉も、そうした痛みをより伝えている。また、ひまわり畑の明るく黄色い色彩も、痛みを強調しますね。

五: 花がいっぱいあって、それがなにがしかのパワーを帯びる、という感じはさっきの佐藤りえさんの歌に似ていますが、こっちの歌のほうがなんとなく不吉なパワーに満ちていますね。面白い歌でした。では次。服部真里子さんの

  • 塩の柱となるべき我らおだやかな夏のひと日にすだちを絞る

です。この歌、「塩の柱」が分かりにくいですが、これには逸話がある、と堂園くんが言っていました。

堂: 博覧強記、古今無双の僕の学識を持ってすれば当然思い当たる逸話です。旧約聖書第19章、26節に、背徳の町ソドムを神が滅ぼす記述があります。その際、心正しきロトの一家だけは事前に神からそれを伝えられ、脱出するのですが、「町を振り返ってはいけない」と神から言われていたにもかかわらず、ロトの妻は振り返ってしまい、塩の柱と化してしまった。この「塩の柱」とは、そのことを言っているわけです。

五: さっすが! 詳しいね!

堂: まあ、本当はズルをしていて、僕もこの「塩の柱」がぜんぜんわからなくて、服部さん本人に聞いたのです。早稲田短歌の後輩なので。で、さっき言ったようなことを教えてもらいました。

五: なーんだ。

堂: 選評にも「『塩の柱』が象徴するものがあいまいで」と書かれていましたが、やっぱりこの部分はよくわからん、と思います。

五: そうですね、それにその逸話がもしわかったとしても、やはりどう読めばいいのか分からない部分はあります。ここではとりあえず非常事態的な、背徳的な雰囲気を読み取っておきたいと思います。そうすると、「おだやかな夏のひと日」が単におだやかなだけではなくなって、「すだちを絞る」という行為も輝きが増すように感じます。全然うまく言えないんですけど。

堂: 難しい歌ですね。言葉の選択に非常に緊密性が高い。この緊密な感じに価値を見たいです。

五: まさにそうですね。たるんだところがない。それに「すだちを絞る」の「絞る」のあたりに非常事態性や背徳性がぐーっと収斂していく感じがする。「絞る」にウエイトが乗っている。

堂: 「塩の柱となるべき我ら」という広く運命的な把握から始まり、「おだやかな夏のひと日」で、ある一時点に景が限定されることで、、運命的な言い方が一つの確固としたものとして表れてくる。そして、最後の「すだちを絞る」という印象深い動作によって、全体の運命性がより強調され、同時に読者に「絞る」イメージが強烈に残る、とこういう作りになっています。

五: なるほど。

堂: 「塩」、「夏」、「すだち」、というピリッとしていて、甘くないイメージも非常に印象的です。

五: 叙情質に粘着性がないというか、のど越しにキレがありますよね。つまりジメジメしてないところもいい。というところで次の歌、西ノ原仁さんの

  • 手袋の小さきキティがよく遊びよく菓子を食ひよく眠りたり

です。

堂: この歌は、まず解釈をすると、たぶん、手袋にキティがプリントされていて、その絵はキティが遊んでいる絵だったり、菓子を食べている絵だったり、眠っている絵だったりしたわけです。プリントされているから、いつ見ても手袋のキティは遊んでいるし、食べているし、眠っている。それを「よく遊びよく菓子を食ひよく眠りたり」と表現した歌だととりました。

五: なるほど。つまり小さいキティがいっぱいいる絵柄なんですね。

堂: で、その視線のずらし方が面白かったです。

五: 確かに。

堂: さらに、「手袋の小さきキティ」ですから、これをはめている小さな子供がいるはずで、その子のイメージにキティのイメージが重なってくる。その重なりも面白いし、その子に対する視線が優しいのもいいです。

五: 私ははじめこの歌を読んだときは、その子にウエイトをかけて読みましたね。はじめからキティの絵柄よりその子を思い浮かべました。でもキティとその子のイメージが重なるという基本線は一緒ですね。では次。岡井隆さんの

  • 4号機に放射能洩れがみつかつたときの1号機のやうな立ち方

です。

堂: この歌、うまいなあと思いました。

五: そうですよね。原子炉か何かのことを言っているのだと思いますが、放射能洩れが見つかって、やはり原子炉は危険だ、とか性能や管理に問題があったのだ、とか言われている4号機を横目に見ながら、同じ原子炉として他人事ではない、次は自分だろうか、という不安定な気持ちで立っている1号機。そういう立ち方だと言っているわけです。

堂: 絵が浮かびますね。

五: 4号機と1号機だから、普段そんなに親密ではないんだけど、やはり同類の親近感は感じざるをえない、という微妙なニュアンスまで伝わってきますよね。

堂: それが人間界にオーバーラップしてくるわけですね。よくあるよなあこういう場面。同情でもなく、非難でもなく、微妙なニュアンスですね。では次。竹内キクさんの

  • 小さきもの陽の中きらきら浮遊するその小ささの中々にあやしき

です。

五: これも不思議な歌ですね。

堂: 不思議ですよね。語弊がある言い方かもしれませんが、お婆さん的不思議さな気がします。まず読みですが、埃か虫か、なにか小さなものが日の光の中できらきら光って浮かんでいる。光っててよく見えないので、「小さきもの」なのです。そして、その小ささがなーんかあやしいな、と思ったという歌です。「その小ささの中々にあやしき」の「中々に」とかわざわざ字余りで言っているのが、妙なおかしみを出していると思います。

五: 「中々に」がすごいですよね。お婆さん的、というのもなんとなくこの辺からくるような気がします。若い人だったらもっとこのきらきらの中に没入してしまうような気がするけど、「中々に」ってなんかこう余裕がありますよね。こいつらもなかなかあやしげよのう、というような感じがある。

堂: ですね。あと、普通ならば、見えている光景の輪郭をもっとくっきりさせるべきなんだけど、この歌の場合はこのぼんやりとした感じが面白い。

五: なにげない光景が変なものに変化しているのは、このぼんやりとした言葉つきが原因になっていると思います。

堂: そうですよね。しかし、不思議な歌だ。では次、今井ゆきこさんの

  • 懸案の事項からいま新緑がけぶりはじめてゴールデンウィーク

です。

五: 「懸案の事項」という言い方から、オフィスワークのOLを想像しました。会議なんかで話題になって結局決着がついていない事がある。けれど、そこから新緑がけぶりはじめて気もそぞろ。懸案の事項なんてどうでもよくなってきて、ゴールデンウィークに突入する。やったー、連休だーっ、というわけですね。

堂: 内容としては、非常に俗っぽくて、たいしたことはないけれど、こういう言い方をすると、面白いですね。

五: 「けぶりはじめてゴールデンウィーク」というところ、スピード感があって、からっとしていて気持ちいいですよね。堅い仕事の話題に漬かった生活から解放されていく様子が実に見事に表現されています。「ゴールデンウィーク」がとっても素敵なものに見える。

堂: そうですね。では次。森田佐代子さん

  • ATMの監視カメラににっこりと笑いかけたるのちに引き出す

です。五島さん、どうですか?

五: これも面白い歌ですね。ATMと防犯カメラに向かって笑いかける様子がちょっとシュールだし、じゃあ何のために笑いかけるのかっていうと、カメラだからちょっと感じよく映りたいっていう欲望、システムに対する批判意識、監視カメラの向こうにいる人に対する脅しなど、様々な線が考えられる。

堂: うん。そういう風にいろいろ読めるところが、この歌では生きている。ひとつに確定しなければならないタイプの歌もあると思うけれど、この歌はいろいろあっていいと思う。あと、終わり方に注目しました。「のちに引き出す」。にっこりと笑ってはいるけど、しれっといきなり引き出す。やることはやる、というか、いきなり現実に戻ったな、というか、このいきなり感は面白かったです。

五: そうですね。「のちに引き出す」で、結局ATMの無機質なシステムに乗るんだけど、その前の「にっこり」によって、生身の人間を刻みつけているような感じ。

堂: うん。基本意識はシステム批判にあるような気がするんだけど、それだけでとってしまうとつまらない。もっと生々しい何かがある。

五: はい。というところでしょうか。おっ、これで全部終わりましたね。

堂: ですね。今日はずっとすかいらーくでやっていましたけど、普段と何か違ったことありました?

五: すかいらーくは子供が大声を上げ走りまわる、まるで早春の野原のようなファミレスでしたね。

堂: なるほど、僕もファミリーレストランのファミリーっぷりを見せつけられた気がしました。あと、ドリンクバーの冷たいジャスミンティーがおいしかったんですけど、そこに、「アイスで飲むにはもったいないくらい良質な茶葉を使用しています(中級クラス)。」と書いてあって、笑いました。

五: どうせなら高級って書いてほしいよー。

堂: 嘘でもいいから。

五: じゃあ、そろそろ帰りますか。

堂: 僕は牡蠣買って帰ろうかな。牡蠣ソテーにします。しかし、大船観音でかいなあ。

五: 不穏なほどだよね。

堂: 夢に出てきてうなされそうだなあ。ではお疲れさまです。

五: お疲れです。

2008年12月17日 (水)

2008年短歌研究11月号「新進気鋭の歌人たち」を読む(後)

堂: さて次は今村章生さんの「都市に爆薬」です。では、点数を。僕は3点です。

光: 私は6点です。

五: 4点です。全体にいら立ちの歌が多いですね。7首目、

  • だらだらと小銭で払う青年に舌打ちかましまたきなくさし

とありますが、四方八方に向けて「舌打ち」をまき散らしている印象です。その割に今村さん自身の思想内容があまり伝わってこないので、読後空虚な感じが残ります。その空虚さが常に不満足であるという、ステロタイプな青年像に重なって、そこが弱みでもあり、面白さでもあるような気がしています。わけのわからない怒りに触れた、という感触はなくて、既に知っているものが再現されているようで、その分読者は意外と安心なのではないかと思いました。

光: 「作者が怒り、問題と考えていること」に読み手の目が行く作品ではなく、「ある問題に対して怒っている作者」に目が行く作品だと感じました。右から左に思想を変えた「雨宮処凛」、(ニッポニア・)ニッポンと社会主義のキューバ、などわかりやすい提示はあるのですが、やっぱり怒る作者に目が行ってしまう。なぜなのかな……? 作者がそのように読まれることを意識しているのならいいのだけれど……。

堂: うーん……。作者の写真もそれを強化しているような気がしますしね。あと、メッセージ内容よりも怒る作者に目が行ってしまう理由のひとつに、単純に意味の取りにくい歌が散見されるのがあると思います。例えば1首目、

  • 爆薬の眼(まなこ)のおんな仰ぎ見るツイン・タワーに機影の流れ

の「爆薬の眼のおんな」がよく分からなかった。それと、2首目、

  • 徒にやっこを箸で切る俺のようであるらし無差別などは

の「無差別」は少し舌足らずかも。他は6首目、

  • 通勤の人々の面(ツラ)きなくさく吾ら弾頭の火薬のこころ

の「吾ら」って誰だろう、とか。自分を含む通勤の人々かなあ……。9首目、

  • 俺をまたぎ征く日輪のけぶたかれ亡国論者寒ざむと佇つ

の「けぶたかれ」のニュアンスがいまいち分からない。考えると少しは分かるんですよ。「無差別」が「無差別テロ」や「無差別殺人」だろうとか、「けぶたかれ」がなんとなくネガティブなニュアンスなんだろうなとか。しかし、考えないと分からないから、一首でスパーンと印象に残る歌ではない。自分の頭で考えさせる、というのでもないし、読み解きに単純に時間がかかってしまうのはマイナスかな。

五: そうですね。あんまり考えて読む歌じゃないんじゃないですか?

堂: まあそうなんでしょうね。あと、歌が覚えにくいのも、こうした内容のときに足かせとなっている気がしますね。

光: ツイン・タワーの崩壊の背景にあるものと、思想の右/左、国の主義、核爆弾の保持、それぞれはよく考えると全く違う問題ではないのですか? それを括れるものとして「怒る作者」がいるだけなので、そこに目を向けるしかなくなることになるように、考えます。

堂: そうですね。問題内容もよく見るとバラバラですね。うーん、僕はこんなふうに作者だけが伝わるのを見ると、なんとなく寂しい気持ちになるなあ……。うまく言えないですけど。

五: ではそんなところで。次は花山周子さんの「晩夏より初秋の風景」です。点数を。

光: 6点です。

堂: 僕は7点。

五: 私は7点でしたね。

光: 1首目、

  • 秋の陽を帽子の柄(つか)に遮ってマイ・フレンド靴の先を見ている

4首目、

  • 太陽は丸いかたちに咲く花だ割り箸割って炎天下なり

9首目、

  • いくつもの光があたる壺なれど鼠色という色を放てり

の歌がとてもよかった。一方で結語の音が「り」ばかりであることが、とても気になりました。「とても」というか「無茶苦茶」気になりました。口語短歌が「語尾の砂漠」にあえぎながら様々な工夫をしてきたのに対して、花山さんの歌は文語体なのに「語尾の砂漠」に迷いこんでいるような……。

堂: 枡野浩一さんの

  • でも僕は口語で行くよ 単調な語尾の砂漠に立ちすくんでも

ですね。花山さんは文語文脈っていうより、口語の文語バリエーションって気がする。

五: 1首目、いいですね。驚くのは4句目「マイ・フレンド」です。超力技。ここが「友達は」だったら駄目ですね。凡作になりそうなところでグニャーとねじ曲げてチャーミングな一首にしてしまうんですよね。そこのところのセンスには舌を巻きます。同じような手つきは2首目、

  • じっとしてんじゃないぜ喫煙者。煙のように消えてしまうぜ。

にもあって、内容で読ませるというよりも、最後の「ぜ」という呼びかけのテンションの高さで無理矢理一首にしてしまう。10首目なども顕著です。

  • 秋なのか春なのかわからないような夕暮れを私はバスに乗って進めり

上の句は平凡。ところが、下句、「私は」を入れることで無理矢理定型を崩して重くし、最後の「り」の言い切りの凛々しさで一首に仕立て上げてしまう。そこに力強さがあります。

堂: そうなんですよね。

五: ただし、この手法が頻発すると、5首目、

  • 雷の所在は知れず手の平を漠然と光てらす窓際

のような定型で、しかも結句に「なり」とか「たり」とかを使わない歌が印象として弱くなるような気もします。

堂: 花山さんは韻律の魅力が大きいですからね。7首目、

  • 視覚的な画家の散歩がキャンバスに盲目的な絵を描かせたり

も「視覚的」と「盲目的」は対比なんだけど、正確には全然対比ではない。というか、よく分からない。「盲目的な絵」のイメージが湧かない。しかし、この韻律で説得されてしまうところがあって、「作者はこう思ったんだろうなあ」と思わされてしまう。なんだかんだ言ってそう思わされてしまうのは力だと思います。

光: 「り」の言い切りの凛々しさ、8首目、

  • 君に贈る青いビー玉ぼんやりと手に乗せしのちわがものとせり

の歌のすっぱりとした気持ちの良いわがままさと、エッセイの「偽善的な駄作に過ぎず」という言い切り、それぞれの根っこは同じような気がしました。では次は川島信敬さんの「ピンク」です。……って司会を始めてしまっていますが……。私は6点です。

五: 8点。

堂: 6点。

光: 高い点数を付けられた五島さんからコメントをお願いいたします。

五: うーん、8点は少し高すぎたかなあと思いますが、文体に可能性を感じました。9首目、

  • ゆるやかに右折してゆくバスのなか君の思想を考えてみる

のような歌は、他の人の連作に入ったら駄目になってしまうんですけど、この人の連作だと違和感がないんですね。無理がない。こういうことが言える文体を見出したことに価値があります。こういうちょっとした機微みたいなものが扱えるのは、「かしら」とか「くれたね」のような女性的、あるいは中性的な口調のおかげだと思います。

堂: 機微が伝わるのは、確かに文体の力かな、と思います。ただ、そんなに見たことない文体ではない気がして。わりとよくある気がしますけどね。あと、単語のランダム性も気になる。具体的に言うと、2首目、

  • 好きな本ベスト10をいいあってヘルマン・ヘッセだけがかぶった

の「ヘルマン・ヘッセ」はどんな本でもいいと言えばいい気がするし、3首目、

  • 年金と四書五経を論じつつこころは君に傾いてゆく

の「四書五経」もそう。6首目、

  • ひやむぎのピンクではしゃぐおとうとといもうとがいて、きのうのことのよう

の「ひやむぎのピンク」もそうだし、7首目、

  • クールベの画集繰りつつおもいだす蛙にしてたひどいいたずら

の「クールベの画集」もそうですね。この、「どんな単語でもいい感」はすごく特徴な気がします。良いか悪いかは分からないけど。

光: 軽い口調のすーっとした文体ですが味があります。9首目の歌は、8首目

  • シュヴァイツェルとシュヴァイツァーの間をおもい岡井隆の野原で遊んでいるの

に「岡井隆」が含まれていることから、

  • 雨脚のしろき炎に包まれて暁のバス発てり勝ちて還れ     岡井隆

が思いおこされますし、

  • ここよりは先へゆけないぼくのため左折してゆけ省線電車    福島泰樹

の歌も浮かびます。本が好きなのでしょうか。その文脈で考えるとヘッセ、四書五経、画集など、本に関する歌が多いですね。ところで、5首目

  • 幸福というほどではないけれど、加部くんはいまも怒ってるのかしら

のこの「加部くん」って……。

五: 何か、連作に一首は必ず入れるシリーズものみたいですね。短歌研究新人賞次席の「スピン」の3首目にも

  • 歳月はひかりのように過ぎるけど、加部くんは猫を飼ったのかしら

とありますし。本が好き、というのも軽くウェットな感じか……。こういうウェットで、悪く言うとちょっと女々しい文体っていうのは、堂園くんの言うとおり珍しいって感じはしないですね。音楽だと曽我部恵一とかくるりとかの路線だと思います。ただ短歌ではあんまり見かけなかった。

堂: 確かに短歌ではあんまり見ないのかも。誰かいたような気がしましたが、じゃあ誰と言われると名前が挙がりませんし。ではそろそろ次に。石川美南さんの「海を分ける」です。僕は5点です。

五: 私は6点です。

光: 私は7点です。

堂: 石川さんは文体がもうしっかりとありますから、どうしてもその期待度の中で読んでしまいますね。だから、今回もバリエーションのひとつと考えました。石川さんは連作の作り方が独特ですよね。物語をいつも作ろうとしている。そのために歌を奉仕させている雰囲気がいつもどこかにあって、例えば2首目、

  • 公正を期するためにはできるだけまつすぐな流木が必要

はいわゆる文脈を説明する、普通の「地の歌」というよりも、奉仕している歌、という感じがしてしまう。つまり、「地の歌」のようにうまく読み流せないし、かといって、一首で立ち上がってくるものがない。だからどこか落ち着かない気持ちになってしまいました。難しい問題なので、「この歌を抜け」とかそういう話ではないですけど。僕がいいと思ったのは、3首目

  • 砂浜の砂をぬぐふと一枚の証書出てきてそこに印鑑

や8首目、

  • 伏線のとんと出てこぬ小説を決別の章まで読みとばす

などです。

光: 1首目の

  • 話し合つて分け方決める 沖に浮く島は私の方でひきとる

で読み手をぐいっと世界に引きずり込む。その後ずんずん連作の世界を先導してゆくのが石川さんの連作のうまさだと思います。ときどき読み手のほうを振り返って、ついてきていないようならば、まだぐっと引きずり込みなおす歌を置く。今回では、6首目の

  • (微笑を絶やさぬままに)組み上げたばかりのテトラポッドくづせり

が「引きずり込みなおしの歌」かな。「この世界はテトラポッドを組み上げる世界ですよー」という念押しを、計算されたタイミングで挿入する。

堂: ふむ。

光: 石川作品の特徴としては他には……、3首目に出てくる「証書」や「印鑑」の出し方があると思います。空想的な世界にこういう現実的な道具を持ってきても、自身の作品世界が崩れないことを良く知っているし、むしろ自身の作品をより遠い空想世界に引っ張り上げるものだと知っている。

五: 良いと思ったのは8首目の「伏線」の歌です。一連でこの歌だけ物語を完全に無視して読めました。4首目

  • 水平線ふたつに割つて朝焼けの広がる側を貰ひ受けたり

は一首だけ切り離せば好きな歌でしたが、この中に入ってしまうと良さが消える気がします。10首の連作で物語を作るのは厳しいのではないか。気になったのは最後の歌、

  • ひさかたの光あてれば歓びにうらがへりうらがへる魚(うを)たち

は「歓び」すぎなのではないかと感じます。

堂: 表現に淫している感じがしますね。

五: はい。ただ、単語と単語の距離をはかる物差しに独特なものがあるので、私は6点という感じです。といったところでしょうか。では次。柳澤美晴さんの「めばえ」です。私は3点でしたがどうですか?

光: 6点です。

堂: 3点でした。うーん、何から言えばいいかな。きちんとニュアンスが伝わるか自信がないのですが、歌から非常に作者の満足感が伝わってきて、そこに疑問を覚えました。言いっぱなしはよくないので、具体的に歌をあげますが、1首目、

  • 宛先に「廃墟」と書かれてある手紙五通くらいは届く気がする

は「届く気がする」と言われていますが、僕は「届かないだろう」と思ってしまった。どうしてそう思ったか。やはりその根拠がない気がしてしまったからではないか。

五: ふーむ。

堂: いや、もちろんはっきりした根拠が明示されていなくてもいいんですよ。例えば気持ちの強さとかで説得できる場合もあるし。しかし、この歌はそこらへんがふわふわしていて、「届かないんじゃないの」と言いたくなってしまう。でも作者は満足していて、僕が聞いても「届く気がする」としか言ってくれない。自分に一生懸命になるあまりに。

五: なるほど。

堂: 他には3首目

  • 塩基配列ひとつ違ってもきみに会えぬ不思議の世に照る月は

も疑問でした。「不思議の世」とありますが、この「不思議」はどのレベルの「不思議」なのか。「塩基配列ひとつ違っても」君に会えないというのは、それはその通りなんだけど、その不思議さはブルーバックスとか、新書とかを読んで感じるレベルの不思議さではないか。だから、なんというか、思考の枠が先にあって、歌があと、という気がする。世の中にはもっと不思議があるぞ! と僕は言いたいです。

光: うーん……。

堂: まあ、枠の何がいけないのか、と言われてしまうと、言いようがないのですが……。

光: 最後の歌、

  • ひとすじの潮の香りを嗅ぎ分けるキタキツネかも風(レラ)に吹かれる

は◎をつけました。「風」に「レラ」というルビを振らなくても北国のこととは分かるのですが、2首目、

  • 徹夜して実験をするこいびとよ水のカムイと語らいながら

の「カムイ」とのつながりで振られたルビなんだと思います。潮のにおいにピクッと反応するキタキツネの動きが目に浮かびます。一方で、「実験するこいびと」が何の実験をしているのかなどはよく分からなくて。別に何の実験か知りたいのではないのですが、自分自身の研究者になる(?)夢を歌った7首目、

  • 諦めた夢に小さく灯りいる丸底フラスコ三角フラスコ

もそうですが、「丸底フラスコ三角フラスコ」までしか踏み込まないのが気になりました。その踏み込まなさが、徹夜で実験する「こいびと」や「諦めた夢」を軽いものにしてしまっている気がします。そうではなくて、作者としては軽く出したいということなのかなあ。

堂: それが枠ってことだと思いますが。「理系」というかなり一般的なイメージに寄り添っている。

五: 戻りますが、「語らう」とか「しるき」とか「ぬばたま」といった歌言葉と科学っぽいワードはとても相性が良くて、何かしら大きなものに簡単に接続できたような気になってしまうところがありますよね。

堂: 労力なり、勇気なり、感情なり、そういった対価を払う必要なく使える言葉ですからね。簡単な印象がしてしまいますね。そうした言葉のすべてがいけないわけではないのは当然ですが、今回はあまりうまくいっていないと思う。

光: うーん……。5首目の

  • ぬばたまの夜をつらぬく性愛のめばえひこばえさかえあれかし

の歌は柳澤さんしか歌えない独特なものがあって、その独特さはうまく言えないのですが……、注目しています。

堂: では次に。笹公人さんの「笹公人ファンタジー劇場2008」です。僕は4点。

五: 私は3点です。

光: 私は7点です。一つの世界が確立されていますね。タイトル「笹公人ファンタジー劇場2008」の「2008」がその表れと思います。「2009」「2010」……と続けられるし、続けるという意思のようなものを感じます。5首目、

      「愛と死をみつめて」

  • 「広末にミコの役などできるか」と怒るオヤジに注ぐ日本酒

と6首目、

        「伊豆の踊り子」

  • 「薫役やれる娘などいない時代」と嘆くオヤジにうなずいており

7首目、

  • 童貞のクラスメイトを数えれば阿弥陀籤のごと伸びる正の字

と8首目、

  • 真乙女(まおとめ)のクラスメイトを数えればノートの隅に光るTの字

の歌のペアなど笑わせつつも、ほんのりとしたノスタルジーが後味に残ります。薫役は山口百恵が演じたときですかね。

五: そうなんですかね。

堂: 笑わせようとしていますね。でも誰でも笑えるかというとどうかなあ。僕にはピンとこなかった。

光: 私は楽しめましたよ。

堂: そうか。好みもあるかもしれないですけどね。なんていうか、この「ほんのりとしたノスタルジー」と「少しひねりを加えた笑い」を楽しめないと、他に楽しめるところがないと言うか……。

五: そうですね。すでに文体を確立した人ですから、それを楽しめるかどうかということになりますね。その徹底度は認めるにしても、好きかと言われるとちょっと……。好みの問題で3点ですね。それから細かい点ですが、7首目は、正の字が阿弥陀籤に見えなかったです。

光: 正

   正

   正

   正

……ちょっと無理があるかもしれませんね。

堂: あと最後にひと言だけ。4首目、

  • 地獄学園遅刻常習者の持てるバケツに揺れているプルトニウム

の「プルトニウム」は東海村の事件のことでしょうけど、こういう詠い方はどうなんでしょうか。確かに事件を風化させない意味合いもありますし、あの事件はこの歌のようにどこかしら滑稽な空気がありましたが、イージーに歌いすぎというか。なんでもかんでも深刻ぶるのも問題ですが、こんな感じでまとめられてしまうと、それで終わり、という気もします。笹さんはそんなつもりないのかもしれないけど、題材を扱う手つきに「あれを笹公人的に面白くしてみました」というのが見えて、どんな事件でもこんな感じにまとめることができそうで、事件の個別性は失われてしまっている。そのまとめ方はちょっと批判したいかな。

五: では次。しおみまきさんの「水のゆうれい」です。私は3点。

堂: 5点。

光: 6点です。

堂: 異様な感じを受けて、目が止まりました。このひらがな、表記はなんでしょう。例えば、2首目、

  • 赤ちゃん。はすきかきらいかぴちゃぴちゃとおだてるように啜るポタージュ

の「赤ちゃん。」の「。」に一種、ぐにゃあとした強い感情を込めていて、その異様さにうーむと思いましたね。うまく読み取れていないところも多いですが。

五: 良いと思った歌は3首目、

  • ほとばしるおとこのせなか上下してうなばらせんり万里遠泳

です。この歌は遠泳の男の人を見ているのだと思うのですが、フェティッシュな視線を加えることで性愛のような感じも出ていて面白いと思いました。「せんり万里」あたりが心地よい感じがします。ただ「上下して」は情景が取りづらかったです。

光: 「上下して」は平泳ぎの動きでしょうか。その歌は私も印を付けました。1首目の

  • かなしみはきそくただしくびっしりとじゃばらのふたにはりついていた。

も印象に残る歌で、集合体恐怖症のような生理的な気味の悪さが浮かびます。

五: 5首目

  • 蛇口から水のにおいがするまではうまれてたことわすれてました。

や6首目

  • いしきはねとけてゆくのよてのひらでこねられてゆくにくのかたまり

ですが、ポーズがなんとなく気になります。「うまれてたことわすれてました。」は嘘だと思ってしまいます。6首目はハンバーグか何かを作っている場面でしょうが、ちょっと気色悪いです。もちろんねらってやっているのだと思いますが、私は嫌でした。だから3点は多分に好みの問題です。

光: 6首目はその怖さに魅力があると思うのですが。

五: はい。分かります。意識的ですね。

堂: 僕も分かります。

光: では次は高島裕さんの「つややかな檻」です。

堂: 僕は7点です。

五: 6点です。

光: 7点ですね。1首目の

  • 夕窓に妻の不貞を覗きゐつ どくだみの香にひとり噎せつつ

に象徴される淫猥な雰囲気の作品です。2首目の

  • 女より生(あ)れしこの身に堪へたる女性憎悪といふ重き蜜

の「女性憎悪といふ重き蜜」や3首目の

  • 痛痒は快楽(けらく)に紛ふ、さらになほ傷つきたくて指を挿しゆく

「痛痒は快楽に紛ふ」など、自己処罰を繰り返す歌が並んでいます。

堂: そうですね。どの歌もかなり言葉に負荷がかかっていますね。「快楽」とか「矜り」とかかなり強い言葉です。でも僕は読むときにそれほどこちらの負担や疲労は感じなくて、カッチリと気持ちの強さが伝わりました。4首目、

  • 愛といふ戦争(いくさ)果てなく続くのみ 炎のいろに眼は濁りつつ

の「炎のいろ」など、大仰な言い方ですけど、その大仰さにきちんと意味がある気がしました。ロマンチシズムの強さに由来してるのでしょうね。内容として賛否はあるかもしれないですが、こうしたロマンチシズムの強さが伝わることがよいと思いました。

五: 同感です。ちょっと今回の連作から話がずれますが、私は高島さんの歌を読むと杜甫を思い浮かべます。詩の叙情と思想との同化という感じ。杜甫も自分の身の上を憂えたり、家族を愛したりといった叙情と王朝への忠誠心との同化という感じがするんですね。政治について常に一家言あるぞ、という態度があります。その思想内容の是非は全く別の話ですが。10首目

  • 働きてこそ婦(をみな)なれ、野に立てば大地へつづく裾のゆたかさ

の「働きてこそ婦なれ」のあたりに独特の思想の一端がうかがえます。良いと思った歌は7首目、

  • 一様(ひとざま)の可視光線で測りたる美醜ですべて決まるだらう か?

です。ただ今回の連作は高島さんとしてはあまりいいとは思えませんでした。

光: なるほど。

堂: それほど力の入った一連ではないかもしれませんね。では次、大井学さんの「晩夏」です。僕は5点です。

光: 6点です。

五: 4点です。

堂: 静かな歌ですね。日々のささやかなところに悲しみを見出している。8首目、

  • めを瞑るときすらまなこはそとがわにむきてあることしばし瞑らな

など非常に繊細で内省的ですね。こうした姿勢に好感を持ちました。

五: はい。私もぎらぎらしていない感じに妙に安心しました。透明感がありますね。ただ、4首目、

  • 電車にてひらきしページにはしる紙魚ひとひ連れればみのがしており

の「連れれば」の活用は文法的に正しいのかどうか。あまり自信はないですが。その他にもいくつか表現に無理のある歌があるような気がします。

光: 5首目、

  • わが肩にもたれくる頭おっさんの眠る髪から〈メリット〉香る

の「おっさんの眠る髪」、6首目

  • 水飲めばわが密室にみずわたり君すむまちに雨をふらせり

の「みずわたり」、7首目

  • 白鳥はどこまで来しや 蝋燭はおのれ消しつつあかき火を生く

の「蝋燭はおのれ消しつつ」、「あかき火を生く」あたりが語順や助詞の省略が気になりました。でも6首目の歌はスケールが大きくて好きです。10首目

  • のちにくるかなしみのごと秋冷は首都にあさもやみたしておりぬ

もいい歌だと思いました。

堂: 文法は僕も多少気になりました。なーんか少しだけ変な気が。あと、5首目は連作の中で雰囲気がこの歌だけ違ってあまり生きていないような気がしました。

五: では次は田中教子さんの「桃を食む」。点数を。

堂: 3点です。

光: 7点です。

五: 私は2点です。

堂: はい。えーと、少し恣意的なところが気になりました。1首目、

  • 鴨肉を捌(さば)けばくらき胸の中かつて飛びたる空がひろがる

の「かつて飛びたる空がひろがる」はとても恣意的な見方で、なんでそう思ったか分からないし、本当にそうなのか、とやっぱり思ってしまう。思ってもいいけど、説得力を感じないのはどうかと。その原因はやはり言葉遣いだと思いますね。「くらき胸の中」とか「かつて飛びたる」とか「空がひろがる」とかこうした言葉が一般的でゆるんでいるから、内容に感動できない。

五: 確かに、内容としては葛原妙子が歌っても不思議はないけど、葛原は文体や韻律がもっとピシッとしてるから説得力がある。

堂: 9首目、

  • 莢黒きバニラを裂けば知らざらし母の心の奥底の闇

の「心の奥底の闇」とかも一般的でよくある言葉すぎて、どうかなあと思いました。

光: 構成意識が高く、いい作品だと感じました。1首目の「鴨肉を捌く」私と、4首目、

  • 刃の先にひらかれるとき肉体を離れし我が海辺を歩く

の手術でメスを入れられる自分、1首目の「空」、5首目

  • 朝採りの無花果の実を頬張れば亡き祖母(おほはは)の我を呼ぶ声

のどこからか呼ぶ祖母が10首目、

  • 冴え冴えとひかる空より何者かの見つめる視線 桃食むときに

の空からの視線につながるように思います。

五: どの歌も食べ物をきっかけとして広大なものにつながったり、死者とつながったりしています。「食べる」というより格式ばっていて「飲食(おんじき)」という感じなのがちょっとどうか。それから、接続が急なのを支える韻律を欠くために、大仰な感じだけが残るように思いました。「大仰な感じ」を具体的に言えば、「生ある今の不思議を思ふ」や「ながらへわたる」などに違和感を覚えました。そこは狙いなのかも知れませんが。

堂: そうですね。では最後、米田収さんの「水」です。点数を。

五: 3点です。

光: 8点です。

堂: 僕は5点でした。

光: 4首目以降は全部○をつけました。過去を思い出しての歌ですよね。年上である好きな人が4首目、

  • 頬高の細きおもてをよそほひて嫁ぎゆかむを見に来よと言ふ

で嫁ぎにゆくところなど、私も涙が出ます。

五: 精神の高揚が感じられますね。ただし、9首目、

  • かつて雲や雨や樹や草や少年だつた 水はるばると卓上に澄む

などはやっぱりオカルトだと思います。オカルトというのは、根源的なことや形而上的なことを言うときに一般に流通している安っぽいイメージを使ってしまうこと、くらいの意味です。こういうところにロマンを感じるというのは分かりますが、安すぎるような気がします。良いと思ったのは7首目、

  • 若狭より栃の木峠を越ゆるそら真水を見たる鳥なきにけり

の歌。渡り鳥が湖に降り立とうとする場面でしょうか。すっきり読めていいと思いました。

堂: 僕は高揚に好感を持ちました。3首目、

  • 年下のわれをかなしく言ひ含め去りにし君を夢に千回愛す

の「千回愛す」など、勢いが感じられて面白かった。「千回かよっ」って。ですが、9首目のイメージなど、ありがちだと思ってしまいましたし、一般に流通しているイメージはあると思います。

光: 9首目は良い歌と思うんだけどなー。「かつて少年だった」ではなく、「かつて雲や雨や樹や少年だった」と言うことで、それまでの歌で思い出の中で動いていた若いころの自分が、思い出せるものすべてに拡張される。ずんずんと巨大化する。その視点が下の句の「水はるばると卓上に澄む」という俯瞰的な表現につながるのでは。もちろんひとつ前の歌の鳥の視点でもあると思います。

堂: なるほど、というところでそろそろ締めますか。ふー、疲れた。長丁場でしたね。ところで光森さんの好きな食べ物は何ですか?

光: とくには、ありません。

堂: あれ? なんかコーヒーゼリーソフトを何度か食べていましたよね。

光: あ、それは大好きです!

五: 私は大判焼きが好きです。つぶあんが食べたいな。

光: あ、それも大好きです!

堂: お二人ともお眼が高い。大判焼きは日本三大甘味のひとつですからね。

光: コーヒーゼリーソフトは?

堂: それはランクインしてません。

五: それでは解散しますか。お疲れ様です。

光: お疲れ様です。

堂: お疲れです。

2008年11月29日 (土)

2008年短歌研究11月号「新進気鋭の歌人たち」を読む(前)

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 突然ですが、宣伝です。我々短歌行の二人の所属する同人誌「pool」の最新号が出ました! もちろん、我々二人も作品を載せているほか、「新風十人」についての特集や、現代短歌の現状について問題点を拾いまくった座談会など、充実の112ページです。

五: やー、あの座談会大変だったね。

堂: 面白いと思いますので、「pool」vol.6を入手したい方は石川美南さんのアドレス(shiru@m13.alpha-net.ne.jp)にお申し込みください。メールの件名に「pool申込」と書いて、お名前とご住所を明記して送れば、折り返し振込先を連絡するそうです。ちなみに送料込みで500円!(後注:残部わずかだそうです!)

五: お買い得ですねえ。

堂: と、宣伝をしたところで、本日のテーマは「短歌研究11月号、新進気鋭の歌人たちを読む」です。

五: そしてゲストには、なんと! 先日第54回角川短歌賞を受賞された光森裕樹さんをお迎えしております。

堂: それでは、登場していただきましょう、どうぞ!

光: はじめまして、光森裕樹です。

五: こんにちは。今日はよろしくお願いします。

堂: お願いします。今日は渋谷のジョナサンからお送りします。最近ジョナサン多いな。いきなりですけど、渋谷はどういう土地でしょう? 光森さん。

光: よく分かっていないです。ただ、駅前の映像広告を何人が見ているかを分析する技術ができたと聞きましたので、最近興味が出てきました。

堂: ほお! 駅前のスクランブル交差点ですね。自動的に分析できるんだ。そいつはすごいな。

五: 近年の科学技術の発達は目覚しいですね。宇宙人との交信は間近いと見るべきでしょう。

堂: はい。そんなこともあるかもしれない。というところでさっそく始めましょう。まず今日の企画説明をしたいと思います。冒頭でも言いましたけれども、今日は「短歌研究」11月号の特集、「新進気鋭の歌人たち」を3人で読んでいきます。でもただ読んでいくだけでは面白くないので、各連作に十段階評価で点数もつけたいと思います。

五: はい。点数は、できるだけ偏差が出るように付ける、という方針です。そして、「短歌としてどうか」という大上段から付けた点数ではなく、あくまで個人的な好みに基づいているということも、付け加えておきたいと思います。

堂: そうですね。読みの差が目立つための基準みたいなものと理解してください。では、さっそく載っている順番でやっていきたいと思います。いいですか? 光森さん。

光: あ、すいません。「pool」最新号を読みふけっていました。はい。作品は基本的に作者の生年順に並んでいますね。

五: あ、本当だ。今気づきました。年齢順てすごいですね。

堂: 田口さんだけこの間の受賞者だから一番前なんですね。では、その田口綾子さんの「喪」から始めましょうか。じゃ、ま、点数を。

光: 7です。

五: 5。

堂: 5。

五: ほう。わりと高い点が付きましたね。では最高得点の光森さんからお願いします。この7という数字のニュアンスもお聞きしたいですね。

光: それぞれの点数の分布が異なるので、私たち三人での点数比較はあまり意味がなさそうですが……。私は6名の方の作品に7を付けました。

堂: では、7、というのは特別高いというわけではないんですか。

光: んー、いろんな7が6作品ありました。

五: ふむふむ。私の5点はわりと好み、という感じですね。堂園くんの5は?

堂: そうですね。だいたい同じです。4.5を±0、ニュートラルとして考えて5ですね。

五: なるほど。では作品を見ていきましょう。「喪」というタイトルが示すように、一連のテーマは親しい人への挽歌です。私は中でも4首目の

  • 川沿いを歩いたことなど遺影には写らぬ時間のことを語れり

が好きでした。「など」とありますから、いろいろなことを語ったのでしょうが、その中から「川沿いを歩いたこと」だけをピックアップしている。「川沿い」というイメージがかすかに時間の流れというか、無常感みたいなものを誘いますし、親密さも伝わります。

光: 私も4首目に◎を付けました。作品の中で相手がどういう人物なのかということがほとんど書かれていないですね。5首目

  • その先に彼が見たものを知らぬまま花瓶は水を保ち続ける

まで読んではじめて男性であるということが分かるのですが、4首目だけで相手の全てが語られているように感じました。ただ、「喪」という題は直接的すぎるかなと、感じました。

堂: そうですね、僕も4首目なかなかいいと思いました。ただ、僕はテーマの扱われ方が少し問題かな、と思います。光森さんが今、タイトルが直接的すぎる、と言われましたが、それはたぶん、田口さんがこの一連を「喪の歌」とかなり頭で意識していることが表れているからだと思います。つまり、挽歌を作る、と決めて作っている。そのせいか、終わりの2首、

  • 画数の少なき名字 白い花のように書いて、書いて、それだけ

  • 届かないものそれぞれに白い花の名前を与え終えて新月

がむりやり終わりっぽくなってしまっている、というか、オチっぽくなってしまっている。それが惜しいと思います。

光: そうですね。「白い花」の歌が2首並ぶのは、作者のなんらかの構成意図が少し強く出過ぎているように感じました。

堂: 先にイメージがあって、そっちにムリヤリ引きつけてしまった印象がありますね。

五: しかし、連作全体を見ていくとこの人は基本的にイメージの使い手ですよね。たとえば、1首目、

  • 電話から死は告げられて遠くなる十指に冬のざわめきやまず

の「遠くなる十指に冬のざわめきやまず」のように、感情をイメージに転換して美的に昇華するというのが持ち味です。1首目などは成功しているのではないかと思いますね。

光: 五島さんのおっしゃる話を引き継げているか分かりませんが、3首目

  • 銀紙を星のかたちに切るように命日という言葉を使う

の歌にも印を付けました。少し特別な紙「銀紙」に丁寧に星型を与えるときの静かな感じが伝わってきます。具体的に、どのような言い方で「命日という言葉を使」ったのかは書かれていないのですが、そこに不満が生じない。読み手としては、作者の伝えたいものをしっかり受け取った実感があります。その伝わるルートが、具体経由ではなくイメージ経由ということでしょうか。田口さんは後者が得意なんだと感じました。

堂: そうですね。それは田口さんの特徴ですね。では次に行きましょう。次は野口あや子さんの「拒食症だった私へ」です。まず点ですが、僕は3点です。

五: 私は4点ですね。

光: 私は7点です。

堂: けっこう割れましたね。では僕から。タイトルから分かるように、拒食症の「私」の感情を描いた連作ですね。やはり特徴は修辞の使い方だと思います。まず、面白かったのは、たとえば7首目

  • かあさんは食べさせたがるかあさんは(私に砂を)食べさせたがる

の歌の「(私に砂を)」の砂のイメージなど、ぶれがない。砂のニュアンスがきちんと伝わります。こうしたイメージの伝達の仕方が巧みだと思います。あいまいなイメージがない。ただ、そのイメージにパターンがあるというか、狭い印象があるのが問題かな、と。

光: 「イメージのパターン」について、もっと詳しくお聞きしたいです。私が体験したことのない拒食症の苦しさが伝わってきてよい印象を持った作品でした。その代表が堂園さんがあげられた7首目です。私はこの歌に◎付けてます。

堂: 好みの話に入ってしまうのですが、たとえば

  • すべらかにカルテは記せり言の葉に人工甘味料(ソルビトール)を匂わすわれを

の「人工甘味料(ソルビトール)」のなど、意味合いはよく分かります。「人工甘味料」の甘いけどうそくさい感じ。それを醒めた目で自分を見ている。ただ、この「人工甘味料」というレトリックは既視感がある。この既視感がある感じを野口さんの歌からわりかしいつも受けます。歌全体に既視感はないけど、レトリックに既視感があるというか。

光: 「言の葉」という語から「人工甘味料」は点滴で「ソルビトール」をうっているのではなく、「ソルビトール」入りのガムを食べている、と解釈しました。拒食症の治療をしている間にも自分が選んだ食べる物はダイエット食品である、ということなのかな。ですから、「人工甘味料」という語の選択はレトリック半分、体験半分であり、気にはならなかったのですが。

堂: ああ、そうかもしれませんね。そうか、体験半分か。

五: 先ほどの田口さんと比べると、野口さんは非常にリアリスティックですね。自分の姿を見据えようという気迫を感じます。だから言葉つきがごりごりしているんですね。そこがいいと思いました。ただ、

  • ただひとつ信じようとしていたものを広げて畳んでトイレで吐いた

  • 幸せになれという声 タンポポの根まで届けばもう知るだろう

の歌は私には意味が取りづらかったです。

堂: あー、確かに分かりにくいかも。

五: もうひとつだけ。作品ではないですけど、「初めて出会った歌」で中原中也の「腹たちて紙三枚をさきてみぬ四枚目からが惜しく思はる」という歌を出しているのが面白かったです。それに「四枚目から」が「将来」の喩として読める、ということを指摘されていて、読みにも興味を持ちました。

堂: それは僕も面白いと思った。では次。吉岡太朗さんの「ねこ」です。これはどうでした?

五: 私は6点。

光: 8点です。

堂: 僕も6点です。合計20点ですか。おおっ、けっこう高い。吉岡さんは内容、ストーリー重視派というか、リズムの快楽とか、助詞で微妙なことを示してゆらぎを出すとか、あんまりそういうことには興味がないですね。

五: ルサンチマンの発露という感じがあんまりないように見えますね。だから微妙なゆらぎみたいなものは必要ないということですかね。ストーリー的に言うと、「ねこ」というあだ名の「君」と「僕」とが、夏から冬のはじめにかけてを一緒に過ごした。その間にいろいろなことがあって、メールのやりとりなんかもあるんだけど、そもそものはじめから「君」は森へ帰ることが分かっていて、そのことが一つ一つの出来事を特別にしている。という感じでしょうか。この辺のストーリーはサブカルチャーのプロットを利用しているんでしょうね。

光: 「プロット」が敷かれているという点、納得です。1首目の

  • キッチンへカルピス作りにゆく君はいつか森へと帰ってしまう

の「森へと帰」る、は8首目

  • んんしょっ、って机を運んできたひとの染めた髪から(森はないんだ)

の「(森はないんだ)」、10首目

  • 着ぐるみの温き背を曲げ編んでいる帰らぬための尻尾のケース

の「帰らぬための」まで線が引かれている。「何でもない道でこける」しまうまは、たけうまに乗っても「こけそうになる」。そのように物語をつむいでいる一方で、ねこ、しまうまが想像上の「着ぐるみ」であること、「大学祭」という現実的な出来事との結びつきもある。だから「楽しい想像ですね」だけでは終わらない作品になっている。

堂: 吉岡さんはいつもサービス精神がありますよね。

五: エッセイで作品の背景を説明するあたりも図太い神経を感じます。最後の小さい字の一首

  • Message from Zebra(しまうま):けふ、ねこにケーキ屋さんを教えてもらった♪

の「けふ」など、芸の細かさを感じますね。こういう遊びはメールで私もやってしまいそうです。

堂: 吉岡さんだけひそかに(?)19首も出しているのですが、やはり一首一首のインパクトではなく、細かいシチュエーションを重ねていくタイプ。ひとつひとつの語に重みはなく、一見交換可能に見えるけど、全体から見ると意味を持ってくるというか。

  • つよくなる強くなるって言いながらハッピーターン丸ごと食べる

の「ハッピーターン」とか。あと、やっぱり穂村さんの子孫だなあとすごく思った。

五: 「ハッピーターン」への期待感は個人的な期待ではないですね。自意識が張り付いているというのではない。

堂: では次は原梓さん。「言葉は、食べることができない」です。僕は5点です。

光: 私は5点です。

五: 私は7点。

光: 字余りが気になって、歌の中に意識をすべり込ませて行くのが難しい作品でした。4首目

  • ひさかたの雨宮処凛のむらさきがしっくり馴染んでしまうにっぽん

の「ひさかたの雨宮処凛」や6首目

  • 信じられるものをつきつめればさきくさの中川翔子に薄桃(ピンク)の後光

の「さきくさの中川翔子」のような、枕詞を人名の中の漢字にかけることによって、その漢字のイメージを人名の中で強調する手法が見られます。そのことと、定型に対するゆるい意識とが、私の中でうまく説明がつかなかったです。4首目「ひさかたの雨宮処凛」は面白いなと思い印を付けました。

五: 1首目

  • 冷蔵庫という密室で胡瓜萎び果つ、その時われは傍観者だった

は三句目が「胡瓜萎び果つ」。ここを一気に読むと韻律も悪くないですよ。それに三句目の終わりの「、」ですね。ここにブレスを入れて下句につなげています。韻律に自分なりの息づかいを持ち込もうとする意識は高いんじゃないかと思います。

光: でも終わりから2首目

  • にてもやいてもくえぬものをやっきになってことばとはかくもやっかいだなあ

はどうですか。表記は全部ひらがな書きになっていて、わーっとなってだーっと定型からあふれる書き方の歌です。そのような歌に効果を持たせるためには、他の歌をもっとかっちり作ったほうがいいんじゃないですか。

五: 逆ですよ。「にてもやいても」のような全部放り投げとけっていう歌があってもいい理由は、文体の一貫性があるからじゃないですか。短歌研究新人賞の候補作になった原さんの一連もそうですけど、言葉が飛んだり跳ねたり、生き生きしているんですよ。こっちも楽しくなって

  • ぼくはもう、疲れましたと日国大。捨て鉢はおよし、と大漢和。

(詞書:「日本国語大辞典、大漢和辞典」)の「日国大」って本当に言うんですか? とか

  • 履歴書という定型にむにゃむにゃのわれを投じ「原 梓」となりぬ

の「原 梓」って新人賞で名前出していいのかよっ? とか言いたくなる。

堂: そういうつっこみ込みなんでしょうねえ、この文体は。

光: 1首目の「胡瓜萎び果つ」、7首目

  • こぼれたる半熟卵の黄身の黄がひかりのように我が手をよごす

の三句目「黄が」などどう思いますか。「き み の き が」は読みづらくてリズムが悪くないですか。

堂: 息が切れますね。

  • あたたかな言葉ほど言いよどむのでアボカドの種の重みをいだく

の「ので」とか、苦しいですよ。他は

  • 三人称で饒舌に話すわたくしのうそ寒く膝の裏側の汗

とかも読むと苦しい。ふつう、「うそ寒く」で軽く切れたくなるけど、次に「膝の裏側の汗」とあると、息継ぎする間もなく読まざるをえないと感じる。

光: なんというか、クロールの息継ぎするところじゃないところで、「はい、今!」と言われて息継ぎをさせられるような。

五: 「黄が」とか「ので」は勢いで読むんです。いけいけで明るいんですよ、この人の文体は。

堂: いけいけかー。

光: (いけいけって久し振りに聞いたなー)定型意識の共有が確信できないと歌に入って行けない、というのも心が狭いのかもしれないけれども、「勢いで読めばいい」をすんなりと受け入れるのは時間がかかりそうです。

堂: タイトルの「言葉は、食べることができない」の「、」にすごく個性というかリズムが出ている。なんていうか、「、」をつけたいんだなー、とすごく思った。この「、」に象徴されますね、原さんは。

五: ではそろそろ次に。次は川口慈子さんの「恋はいらない」です。点数を。

堂: 2点。

光: 5点でした。

五: 6点です。

堂: 五島さん、6点ですか。ほう。ではまず、僕から言いますけど、タイトルの「恋はいらない」につっこみを入れたい。

五: どうぞ。

堂: いや、だってこのタイトル、「恋はいらない」と言いながら恋がいるのがみえみえじゃないですか。読んだだけで。

五: まあ、恋と関係ありそうな歌が並んでいますよねえ。私はなぜこの連作に6点つけたかと言うと、

  • シースルーエレベーターの落日に燃えつつ我は宙に浮かべる

の歌が好きだったからです。そのほかの歌は確かに作りとしては甘いと思います。でもこの「シースルー」はやっぱり良くて、短歌の王道という感じがします。内容としては単純です。夕日に自分の存在が照らされて燃え盛りながら宙に浮いている、というだけですが、短歌が愛しそうな内容です。「浮かべる」という連体止めの詠嘆も効いています。

光: 9首目「シースルー」の歌は確かに良いですね。印を付けています。ただ「シースルーエレベーターの」の「の」の使い方はひっかかりました。主格の「の」であることがすんなりと分からなくて。

堂: そうですね。

五: そうですか? 私は主格の「の」とは取らずに読みました。燃えているのは「我」かと。

光: それならば、「落日のシースルーエレベーター」ならまだ分かるのですが、「シースルーエレベーターの落日」はひっかかります。ひっかかりを感じた歌がもう一首あって、7首目の

  • 電球を替えんと椅子に見下ろせば我が暮らしいる一室縮む

の「電球を替えんと椅子に見下ろせば」という箇所です。「電球を替えようとして椅子に上ったときに下を見たところ」という場面であることは分かるのですが、それをこの表現で本当に言い表せているか疑問でした。

堂: それ、僕も思いました。これだと、電球を替える動作をしながら同時に下を見ている感じ。手は上、視線は下、と変な動作を想像してしまった。

光: 好きな歌ですが、1首目の

  • 立ち上がる赤き鉄橋いつよりか我が内にあり君捨ててより

に◎を付けました。こちらから相手と別れたあと、心の内に立ち上がる鉄橋は、強さとも解釈できますし、強くあらねばならないという無意識の弱さをも感じさせます。しかし、それ以降に出てくる恋の歌は、1首目との接続がみられなくて、あれ?と感じました。

堂: そうですね。

光: 2首目

  • われの目を覗き込みつつ恋を語るギタリストと飲むいも焼酎

の「恋」と「いも焼酎」、4首目

  • 優等生らしきつぶらな梅干しを口に含めり恋はいらない

の「恋」と「梅干し」の組み合わせは面白いのです。ですが、恋に似つかわしくないものを持ってこようという意識が感じられるという意味において、結局「道具立て」に終わってしまっている点が残念です。

五: そうなんですよね。この人の特性ということを見ると、外に向って臆面もなく自分をさらけ出してしまえる強さが感じられます。「シースルー」の歌はそういう強さが生んだのだと思います。というところでしょうか。では次。佐々木博章さんの「大人になれると知った」です。点数はどうでしょう。

堂: 3点。

光: 5点です。

五: 私は3点です。では堂園くんから。

堂: はい。全体としては、主体は子供の頃に嫌なことを受けて、それについてこだわり続けている歌ですね。で、最後、それでも前に進んでいく、と結論づけられている。特徴は、そうですね、だいぶ散文的な文体ですね。5首目の

  • お前ほど嫌いな奴はいないから会う人会う人許せてはいる

など、こうした散文的な文体に疑問を持ちました。あっさりとした印象を受けてしまってこちらに届いてこなかった。この人の思い入れを情報以上に感じることができませんでした。どれほど嫌いなのか、僕には分からない。あと、さっき「結論」といったけど、最後の歌、

  • 靴底が減ってた今頃気がついたきちんと前に歩いていたんだ

は、むりやりまとめっぽくなってしまって、あまり評価できませんでした。

五: 57577の切れ目が必ず意味の切れ目にきています。このあたりが印象を薄めるんでしょうね。それから論理でできている歌が多いのも気になります。

  • 忘れ物昔は得意だったのにお前はいつまでも覚えてる

の歌も、小さい頃よく忘れ物をしたという、その「忘れ物」に引っかけて「お前」を「覚えてる」ということを出しているんですけど、それが分かると後に残るものはあまりないですよね。その分、内容の割りに軽くて読者に負担がかからないという利点はあります。

光: 一首一首分かりやすい点に好感を持ちました。ただ、表現したい話の始まりから終わりに向けて、寄り道なくコマを進めて行っているため、連作としての“面積”が小さくなってしまっている印象を受けました。2首目

  • 思い出にならないでほしい出来事が思い出になる それもたくさん

に印を付けたのですが、その2首目で書かれている「いやな思い出」が9首目で「忘れ」られると来たときに、展開が早すぎると感じられ、心の底まで心情が届かなかったです。これは10首という数が少ないためでなく、「寄り道」をしなかったことに要因があるのではないかと思います。連作の面積が広くなると、同じ歌数でも読み手の歩かされる(歩ける)距離は長くなるものだと考えています。

堂: なるほど。“面積”はうまい表現ですね。今度使おう(笑)。はい。では次。鷺沢朱理さんの「秋、友へ」です。僕は3点です。

五: 私は3点です。

光: 私は5点です。佐々木さんの作品同様、連作の面積が小さい点に難を感じました。職業詠であれ、なんであれ、読み手をこちらの世界に引きずり込むためには、一首一首を積み上げるよりも、一首目でグイッっと読み手の胸ぐらを掴むほうがよいのではと考えています。作品「秋、友へ」の場合、現在を歌った1首目

  • “忘れよう…”友をまさぐる指先の記憶はツッと切れて結婚式招待状

と10首目

  • “参加します”招待状に記すとき何か思いがふっきれたりもした

で回想を挟むかたちになっており、その枠組み自体はかっちり決まっているのですが、たとえば5首目

  • 思いっきりぶちまけてみる冬の日の男子一人が男子好くこと

を最初に持ってこられていた方が、私としては作品世界に引きずり込まれたと思います。

堂: うーん、そうですねえ。枠のかっちりさがうまく決まっていないのかもしれませんね。もう少しやわらかさが欲しかったかな。アスタリスクもちょっと疑問でした。

五: アスタリスクは必要ないでしょうね。それから口語が緩い感じがします。特に結句「刹那を後悔する」「涙して笑いに」「「お前が好きかも…」」「ふっきれたりもした」あたりは、字余りが機能しているのかどうか。

堂: 口語の緩さは気になりますね。添えられたエッセイに「自分なりの古典主義の完成を目指したいです。」とあるので、もしかしたら得意な文体ではないのをあえてやっているのかもしれませんが。

五: では次に小玉春歌さんの「メランコリー」です。私は4点をつけましたが、どうですか?

光: 5点です。

堂: うーん……、1点。少し表面的なことに目が行ってしまったのですが、やっぱり

  • 何もかも忘れて語り明かそうよ 女四人で行こう箱根へ

は。「女四人で行こう箱根へ」と言われてしまうと脱力してしまったので。行ってらっしゃい! としか思えなかった。最後の

  • 宵闇がビル・エヴァンスを引き立てる すべて許してしまえるほどに

の「ビル・エヴァンス」のゆるーい出し方とか。これ、ぜったいコンピレーション・アルバムのビル・エヴァンスですよね。「はじめてのJAZZ」的な。まあ、楽しんで作っているところは好感を持ったのですが。

五: ゆるーい感じがいいんですよ。下句「すべて許してしまえるほどに」とか。主体はにんまりしてますね、ここで。「有給休暇を課長に申請」なんて後ろに「!」マークが付いている感じがします。ここまでOLとして型にはまっているというのは逆に珍しいですよ。マンガのキャラみたいです。

光: 題の「メランコリー」にはじまり、「ストレス」「鬱」という言葉からは、今、社会で使われているような重い意味が完全に剥がされた明るい作品世界です。3首目の

  • 誰でもない君に会いたい一心で有給休暇を課長に申請

は面白くて、その突き抜けた明るさに○を付けた歌ですが、恋愛と仕事とを天秤にかけられるというのも、よく考えると「イマドキ」ではないようで不思議です。

堂: 軽いと思いますけどね、僕は。

  • 気心の知れた仲間が次々と東京を去る彼女の嘆き

とかも。

五: 軽さがいいんですよ。

光: うーん、歌の中の「彼女」はそれでいいのかなあ、とは思いますが。

五: というところで小玉さんは締めますか。

(つづく)

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プロフィール

  • 五島諭 1981年生まれ。「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。
    堂園昌彦 1983年生まれ。「コスモス」「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。

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