2007年8月の総合誌を読む
2007年8月
五島選
- 「中一コース」年間購読するだけで万年筆をもらえる春が 穂村弘 「短歌研究」p.20
- 私の歩みにつれて少しずつ回転してゆく猫のあたまよ 穂村弘 「短歌研究」p.20
- これの世は嫉妬の渦にほかならず鼻の先までくる鬼やんま 大畠笙治 「短歌研究」p.97
- 目敏きは狙撃スコープ父が遺すカメラと同じNikonの印 八木博信 「短歌研究」p.65
- サーフボードショップのまえを小走りにゆく修道女うしろ毛ひかる 大滝和子 「角川短歌」p.43
堂園選
- それぞれの夜のどこかでセロファンを肛門に貼る少年少女 穂村弘 「短歌研究」p.18
- 意味まるでわからないままきらきらとお醤油に振りかける味の素 穂村弘 「短歌研究」p.18
- 道端に捨てられし饅頭、拾はず歩行はなんら供養とならず 石原秀樹 「角川短歌」p.195
- 戦争よやあねいやあね 水槽に金魚の餌をこぼせば匂う 野口あや子 「短歌研究」p.68
- サーフボードショップのまえを小走りにゆく修道女うしろ毛ひかる 大滝和子 「角川短歌」p.43
堂: こんにちは。
五: こんにちは。
堂: 今日は戸塚にいます。なぜか。
五: お互いの家のだいたい中間地点なんですよね、戸塚は。
堂: 初めて来ました、戸塚。僕は五島さんよりも1時間くらい早く来て、その辺を散歩してたんですけど、分かりにくい町ですね、戸塚。
五: 戸塚は神奈川の迷路と呼ばれていますからね。
堂: では実際に戸塚にお住まいの石川美南さんに聞いてみましょう。こんにちは、石川さん。
石: こんにちは、たまたま通りかかりました、「pool」の石川です。戸塚で迷い続けて27年ですが、神奈川の迷路と呼ばれていたとは今初めて知りました。今、駅前の古い商店街を丸ごと一個壊している真っ最中で、名所とか何もないです。
堂: なるほど。商店街がないなーと思ってたんですよ。なんかでかいモールみたいなやつばっかりで。商店街が好きな僕は、よくない町だなあと思ってたんですが、そういう事情があったのか。
五: デニーズが好きな僕としてはなかなか良い町です。
石: というわけで戸塚はデニーズからお送りします。というか、私あと15分くらいしかいられないんですけどね。
堂: じゃあ急いで始めましょう。穂村弘さんの歌からやりたいと思います。今回はなんか穂村さんの話をしたい。最近の穂村さんの歌の傾向がどうなっているのか、気になったものですので。穂村特集みたいになるかも。
五: まず具体的な話から。堂園くんがとっている歌を見ると、たとえば「お醤油」という言い方は、『シンジケート』の頃ではあり得ないと思いますよね。
堂: そうですね。この言い方は非常に意識的に使っているでしょうね。あと、今回の一連の中の「五目並べに負けて泣いている夏の夜の耳を回っている蚊のぷ~ん」という歌の、「蚊のぷ~ん」という結句の語法などにとても最近の穂村さんの特徴を感じます。
石: うまく説明できないんだけど、文体的なかっこよさから意識的に逃げることで、今の時代の手ざわりを獲得しようとしているのではないかなあ。「蚊のぷ~ん」も、言葉をわざと日常レベルに引き下ろそうとしているように見えます。ちょっと痛々しい試みにも思えるんですけどね。
五: なるほど石川さんらしい見方ですね。
石: アバウトに言うので聞き流してください。どこかの段階で、穂村さんは『シンジケート』の頃の過剰なテンションで短歌を書き続けることに限界を感じたんだと思うんです。『手紙魔まみ』の頃は、「まみ」という女の子のパワーを自分の短歌に取り込むことで、自分の中にはない、熱いテンションを引き出そうとしていましたよね。でも多分、そのやり方でずっと続けていくこともできなかった。歌葉新人賞の選考会で、穂村さんは、永井祐さんや宇都宮敦さん、中田有里さんらを推していたでしょう。あの辺りからの穂村さんは、今度は若手の、一見温度が低くて無防備な文体に注目して、そこに新しい可能性を見出したのではないでしょうか。そしてそれをまた取り込むことで、自分もなんとか生き延びようとし始めたように思います。今回の一連は、穂村さん本来のハイテンションな文体と、若者から取り入れたローテンション気味な文体の混合という印象を受けました。
堂: なるほど。混合ですか。
石: ただ、なんで無理しているように見えるかというと、中田有里さんとか永井祐さんは、はじめから歌の中心を自分自身に固定しているでしょう。素のわたくしから一歩も出る気がない。そういう立ち位置だからこそ、あの文体に力がある。で、穂村さんはどうかというと、本質的に素の自分をそのまま見せるタイプじゃないし、そもそも永井くんの持っている日常感覚自体、穂村さんのそれとは全く異質な気がして。「蚊のぷ~ん」にしても、穂村さん自身の日常から出て来た言葉っていうよりは、一般的な日常の世界を取り入れている感があって、そこにどうしても齟齬が出てくる気がするんです。
堂: うーん、興味深いですね。
石: というところで、ちょっと行かなければならないので、すいません、一方的に言い逃げて、去ります……。
五: ああ。もうそんな時間か。突然参加させてすみませんでした。
堂: 石川さん、ありがとうございました。
五: 石川さんが帰ってしまったので、ここからは二人で進めたいと思います。トピックがいくつか出たと思いますが、その中でも、文体的なかっこよさから意識的に逃げることで今の時代の手ざわりを獲得しようとしている、というのはその通りだと思います。ただ、私は穂村さんが取り入れようとしている、今の時代の手ざわりというものの受け取り方の方向が、石川さんとは若干違います。
堂: 五島さんは穂村さんの文体の変化をどう思っているんですか。
五: 端的に言えば、ある種のアイロニーが表れていると思っています。ある時期に穂村さんが強調していた「愛の希求の絶対性」というモデルがありますが、そのモデルは根本的には変わっていない。目指すものは一緒だと思うんですよ。
堂: つまり、目指し方が変わったということですか?
五: そう思います。目指すときに一段階屈折が入っている感じかと思います。ストレートに真実を目指すのではなく、かっこ悪さを経由してそこを目指すということ。『世界音痴』などのエッセイ活動とパラレルと考えていいと思います。
堂: 『世界音痴』は売れましたからね。
五: それでこの方法が届くということに確信に近いものを得た、ということもあるかも知れませんね。歌葉で斉藤斎藤さんが出て来たことなども関連しているかも知れない。
堂: そこで僕が気になるのが、穂村さんがしきりに発言している、斎藤茂吉を超えるにはどうすればよいのか、という問題意識です。穂村さんが言っているのは、茂吉が創り出した方法では茂吉よりも凄みのある歌は詠めない。なぜかというと、近代化の中で茂吉が苦労してあの文体を身に付けたことと、現代の我々が茂吉の文体を学ぶことでは、労力の違いからくる強度の差はまぬがれ得ない。
五: 穂村さんは言っていますね。
堂: ただ、茂吉が絶対的なセオリーではなく、流派の1つだとも言っていましたから、穂村さんは何か別の方法で凄みのある歌を作ろうとしているのではないか、とどうしてもそう思ってしまいます。最近の穂村さんの歌はその文脈に引きつけて読んでしまいますね。僕は。
五: 「お醤油」や「蚊のぷ~ん」は茂吉超えプロジェクトの一環だということですか。
堂: 断言はできませんけど、なんとなくそんな気がします。ちょっと話が抽象的になってきましたので、一首一首読んでいくスタイルに戻しましょうか。では僕のとった「それぞれの夜のどこかでセロファンを肛門に貼る少年少女」。一つの世界を描けていると思います。「それぞれの夜」、「どこか」とあいまいな表現ですが、読者の持っている、「あの感じ」にリンクしていくと思います。懐かしいような、不思議なような。多くの人がセロファンを肛門に貼る、ぎょう虫検査の経験を持っていますよね。この「セロファンを肛門に貼る」が具体的な重石として機能しています。
五: ちょっとした滑稽さを使って共感を得るという方法ですね。そう考えると、さっき私がアイロニーと言ったことは、共感を求めているという風にもとれて、『シンジケート』の文体のような直接目指すべきものを歌うというのと、共感のクッションが入った歌い方とどちらを取るか考えたときに、今は後者だと穂村さんは感じているのかもしれません。思いつきですが。
堂: そうですね。変化は見えますね。もうひとつ僕のとった「意味まるでわからないままきらきらとお醤油に振りかける味の素」の「きらきらと」も昔とは響きがまるで違って、非常にアイロニーがある。しかし、これも「それぞれの夜のどこかでセロファンを肛門に貼る少年少女」と同じで、一つの世界、一つの感情にリンクしていると思います。なんというか、再現性が高い歌だと思います。
五: 私のとった「「中一コース」年間購読するだけで万年筆をもらえる春が」でも、なんとなく万年筆とか望遠鏡とか懸賞が付いていたな、と思い返して共感できるところがあるわけです。この歌は「春が」の言い差しが良い。ここの詠嘆性が共感だけじゃない表現を獲得していると思います。この歌が、堂園君の言う「一つの世界、一つの感情」にリンクできているとすれば、それはこの言い差しがあるからだと思います。ただやはり共感がクッションとしてある。最後に、「私の歩みにつれて少しずつ回転してゆく猫のあたまよ」ですが……。
堂: これも態度がよく出ていますね。「よ」が変ですね。「猫のあたまよ」。素直にとっていると、「よ」なんて言わないでしょう。「猫」もただ一回限りの生にいる猫ではなく、「猫」ですよね。一般的な。茂吉は一回限りの生の強さですが、穂村さんは一回限りの生ではない。そこが最も異なる気がする。なんていうか、茂吉のいなかった世界にタイムスリップして、そこからもう一度生き直しているような。この一連が穂村さんの子供の頃の事柄で構成されていているのも、そんな感じです。茂吉を知らなかった頃の穂村さん。うーん、ちょっと「茂吉超え」の文脈に引き付け過ぎかな。
五: そこは大事ですね。茂吉の回帰性というのは「この私」の生が回帰するという感じがあるのに対して、最近の穂村さんの歌は、ある一般性を持った細部が回帰するタイプが多い。「猫のあたまよ」の「よ」の詠嘆がもたらすのは、「私」が通るたびに毎回猫の頭が回転するような、そういう回帰性です。「私の歩みにつれて」の「私」も、茂吉の「この私」と違ってある一般性を持っている。それがどんなところから言えるかというと、たとえば「席替えが理解できずに泣きながらおんなじ席に座っています」という今回の一連の別の歌がそうなんですが、少なくとも穂村さんのスタンスとしては、こういう感じは、きれいな心を持っていれば、みんな分かるはずだ、という風に書かれている気がするんですね。その辺が、茂吉などの「この私」ではない、という感じがするわけです。
堂: 茂吉の歌だと、茂吉が再現されるけれど、穂村さんの歌では、穂村さんは再現されず、ある意味読者が主人公になる感じでしょうか。
五: そんな感じです。ではこの辺で次の歌に行きましょうか。
堂: 行きましょう。大畠笙治さんの「これの世は嫉妬の渦にほかならず鼻の先までくる鬼やんま」の歌。
五: これはコミカルですよね。この世は「嫉妬の渦にほかなら」ないというのは、本当か? と思いますが、面白い。「鬼やんま」の「鬼」が効いていて、嫉妬にかられた人間が鬼の形相になっている映像がちらつきます。
堂: そうですね。ユーモアだと思います。主体の落ち着きが伺えますね。二句目で「嫉妬の渦」という語が出てくるところなどにそれが見えます。漢字の配置のバランスがいいです。では次に。石原秀樹さんの「道端に捨てられし饅頭、拾はず歩行はなんら供養とならず」の歌。変な歌なんですけれど、面白いです。道端に饅頭が捨てられていて、それを、わっ、と思ったのだけれど、なぜか拾わず、しかし先を歩いてもどうしても饅頭が気になる。次の歌に「島のごとく家々の墓ありき墓標をわたりて行きし学校」とあるので、たぶん、この饅頭は墓にお供えとしてあったのでしょう。歩いているだけでは、墓の主への供養にはならないなあ、と思いながらも、戻ることはしない。ずっと気になって歩いている。こういう一言では言いにくい感情を詠った歌と読みました。
五: なるほど。一読したときはわかりにくかったですが。「饅頭、拾はず」の読点は何でしょう。
堂: そこは僕にも分からないのですが、異様な感じがして、目を引かれてしまいました。下句の内容も変で、「歩行はなんら供養とならず」って、それはそうだけど、何でこんなこと言うのかな、と面白かったです。ここに飛躍がある。やはり表面的な面白さ、意味的な面白さだけには止まっていなくて、ある種の厚み、混沌としたものに少しだけ触れているような気がします。あと、この歌は「学校」という連作の中の一首で、他の歌では作者の高校もしくは中学生活が回想されているのですが、一首だけこんな歌が入っている。学校時代の思い出を思い返すときに、落ちていた饅頭のことを思い出すのは、なんかリアルで、そこも面白かったかな。まあ、端整な歌ではないですけど。
五: リズムとしては、上句は例によって読み下しでしょうね。では次。八木博信さんの「目敏きは狙撃スコープ父が遺すカメラと同じNikonの印」です。これは視点がいいと思いました。狙撃スコープもNikon、カメラもNikon。人間の営みの幅の広さが一首に詰め込まれている感じがしました。個人だけでなく会社や軍隊まで入っているのが良さです。
堂: そうですね。視点の面白さ。しかし、リズムはあまりよくないと思います。あと、「父の遺す」という内容も特に必要ないと思いました。狙撃スコープがNikonというだけで充分面白いです。
五: まあその通りです。「父が遺す」という言い方自体もたどたどしい感じはします。「目敏き」もどう効いているのか。では次、野口あや子さんの「戦争よやあねいやあね 水槽に金魚の餌をこぼせば匂う」です。
堂: 一読、うまいな、と思いました。戦争という捉え方の難しいものを、金魚の餌の匂いという直感的なものに関連させているのが、理屈に落ちておらず、巧みです。金魚の水槽の匂いって独特ですよね。非常に印象に残る。
五: 金魚の餌の匂いというのは人によるとも思いますが、とても嫌、というよりは微妙に嫌、というくらいで、むしろ懐かしい感じさえあって、それを戦争との距離感に使っていると読める。そのバランスにかなりの危うさが内蔵されている気がします。是非は不明です。それから、「こぼせば」はうまいですね。普通は水槽の中に入っているなら「こぼす」とは言わないような気がしますが、水面にパラパラと浮かんだ金魚の餌が見えてきます。
堂: では次に。最後です。大滝和子さんの「サーフボードショップのまえを小走りにゆく修道女うしろ毛ひかる」の歌です。これはいい歌です。
五: いい歌です。独特の決まり方ですよね。この「修道女」は。他の人には真似できない気がする。映像が鮮やかに浮かぶし、「うしろ毛」が清潔なうしろ毛なのがイメージされます。全体的に爽やかです。善きものを見ている感じがして、それがいいのかな。日常性を脱する瞬間がここにあります。
堂: 表面的には「サーフボードショップ」の俗性と「修道女」の対比があります。これも効いている。それに加えて、こちらの方がより重要だと思うのですが、「修道女うしろ毛ひかる」の2度の助詞抜きによって光が増している。そこにこの「修道女」への信頼というか肯定したいという感覚が生まれているのですね。
五: その通りですね。さて、一通り終わりました。お疲れ様です。今回は飛び入りで石川さんが参加してくれました。穂村さんのところだけだったのが残念です。
堂: でも、非常にありがたかったですよね。おかげで幅広い議論になった気がします。もちろん、細部を厳密に詰めたわけではないので、そこはまた考える必要があるかもしれないですけど。
五: そうですね。……あれ?
堂: 石川さん!
石: 用事を済ませて地元に戻って来ました。まだデニーズにいたのか! お疲れ様でした。
堂: まだいたんですよ。戸塚の町はまだよく分からないですが、戸塚のデニーズの客の移り変わりは充分分かりました。若者があまり騒がなくて、いいですね、戸塚のデニーズ。
五: では帰りますか。お疲れ様です。
堂: お疲れです。
