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2008年8月 2日 (土)

『新彗星』創刊号を読む

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 今日は逗子です。2度目ですね。前と同じモスバーガーでお送りします。

五: しかし今回の逗子は、前の逗子とは違う逗子なのです。

堂: と言うと?

五: まずマクドナルドがつぶれましたね。

堂: エルニーニョ現象の一環でしょうね。

五: さらにフレッシュネスバーガーができました。これは大事件です。

堂: 知らなかった。逗子も移り変わっているんですねえ。ところで、短歌行も一周年ですよ。一年経ってどうでしたか?

五: 単純にいろんな人から反応があったのが嬉しかったですね。

堂: そうですね。どこかで人に会うと、けっこう見てるよと言われます。まあ、なかなか更新しないね、ともよく言われますが。

五: でも基本的に大変好評で、とてもありがたいことです。

堂: 本当にそうです。そういえば、このあいだメールを見ていたら、なんと読者の方からお便りが来たんですよ。

五: ほう! それはすごい! ちょっと読んでみてください。

堂: じゃ読みます。「こんにちは。いつも短歌行楽しみにしています。私は福井県在住の主婦です。近所の田んぼでは、今、蛍がたくさん飛んでいて、夜になるととてもキレイです。私は前々回の釈迢空の記事が面白かったです。今後もっと有名歌人に関してお二人に語っていただけたらと思います。ところでお二人のご趣味は何でしょうか。よろしければ教えてください。五島さんは囲碁以外の趣味を教えてください。では、これからますます暑くなりますが、お身体にお気をつけください。」こんなお便りが来ました。

五: それ、本当に来たんですか? なんか文面が一般的過ぎません?

堂: 本当に来たんですよ(真顔)。

五: うそくさいなあ。

堂: まあいいじゃないですか。で、五島さん、ご趣味は?

五: 月並みですが、水きりが好きです。

堂: 水きり!(驚く) 何で?

五: 落ち着きませんか? 石が跳ねるのを見ていると。それに黙々と同じ動作を繰り返すのが心地よいのです。水がなければ木の幹に石を当てます。出勤前は必ず近所の駐車場の小石を椿の幹に当てて行きますね。20mくらいですかね。当てるまでは出勤しません。

堂: はあ、当てるまでは出勤しないんですか。

五: 堂園くんは?

堂: 僕は最近茶碗にはまっています。特に楽焼の茶碗が好きですね。なぜ茶碗が好きかというと、僕も見てると落ち着くからです。なんか形があるのがいいんですよ。茶碗は。楽焼の中でも長次郎の作ったものは揺ぎ無い感じを強く受けますし、見てて飽きません。まあ、見て楽しんでいるだけなので、詳しくはないんですけどね。

五: なるほど。はからずも似たような理由でしたね。でもキャラ差が出てますね。

堂: そうかもしれません。お便り、もっとたくさん来てくれるといいですね。質問にもバンバンお答えしたいと思います。

五: はい。お便りを求める気持ちは本当です。では今回のテーマに入りますか。今回のテーマは「『新彗星』を読む」でいきたいと思います。

堂: そうですね。今回取り上げたいテーマはそれですね。まず、『新彗星』の紹介をしたいと思います。『新彗星』は最近発行された、加藤治郎選歌欄「彗星集」の「会報」誌だそうです。

五: 「会報」といえども装丁などもしっかりしていて、サイズ的にも短歌総合誌風の作りになっていますね。1980年代の岡井隆選歌欄による雑誌『ゆにぞん』を元に、加藤治郎さんが企画したものだそうです。このような雑誌が出ることは喜ばしいのではないかと思います。

堂: そうですね。活気が伺えて、非常にいいことですよね。では、この『新彗星』を二人で始めから読んでいきましょうか。まず、巻頭作品、笹井宏之さんの「昏睡動物」です。全体的にどうでしたか、笹井作品は。

五: やはり、今回のこの雑誌の中で、この連作が頭ひとつ抜けているかな、と思いました。ただ、これから言うことになると思いますが、ここに表れる隠喩の質なり、目的なりが問題になってくるような気がします。

堂: 隠喩の問題は確かに大きそうですね。それは笹井さんだけでなく、この『新彗星』中の短歌作品全体に言えることかもしれませんね。

五: はい、そう思います。たとえば笹井さんのゆでたまごの拷問器具を湯へひたしきれいなサンドウィッチをつくるという歌でも、「ゆでたまご」「拷問器具」「サンドウィッチ」など個々の事物はすべて隠喩的に機能しているわけですね。

堂: つまり、ひとつひとつの比喩に対応する現実的具体物があるわけではない、ということですね。

五: はい、だからこれらの言葉はある象徴世界を作ることを目的としているわけです。でも私の考える象徴世界というのは、現実世界と関係がないわけではありません。つまり、私のイメージで言ってしまうと、その象徴世界がいろいろなものを含み込んでいくと、その世界に重みが出てきて現実世界と交流を始める、という図式があるような気がします。ところが、多くの象徴世界はその強度を保てないために現実とのインターアクションを持つことができない。

堂: それはすごく分かります。象徴世界に行ったきりになってしまうんですよね。でも、現実の方が大事とか、逆に象徴の方がすごいとか、そんな話ではなくて、インターアクションが大切なんですね。そして、そのインターアクションが起きるきっかけが、象徴世界の複雑性ということがとても重要だと思います。抽象的な作品を作る人たちに、現実派からよく加えられる批判としては、「もっと現実を見ろ」というものがありますが、僕はそれは違うと思います。抽象的なのにもっと現実を見ると、現実をチラ見することにしかならない。そうではなく、象徴世界の複雑性を増すことが逆に現実とのインターアクションとなると思います。

五: 現実派、といってもみんなが複雑性のすべてが見えているわけではないですからね。

堂: そうですね。

五: そうしたとき、笹井さんの歌を見てみると、象徴世界の重み、複雑性をかなり獲得できていると思いました。たとえば、てのひらの浅いくぼみでひと休みしているとてもやさしいたにしという歌です。もしこの歌から複雑性を奪ってしまうと、「てのひらのふとんの中で永遠に眠り続けるやさしいうさぎ」のようになってしまうわけです。欲望がストレートに出てしまうとこうなってしまうわけですね。

堂: そうそう。どこか目的に奉仕している雰囲気が歌に出てしまうんですよ。その点、笹井さんは割り切れない部分がふんだんにあって、複雑性があると言えると思います。

五: そうですね。きっと笹井さんはシリアスなんですね。甘い幻想は持っていない。でもちょっと気になる点もなくはないです。

堂: というと?

五: パターンが見えませんか?

堂: それは僕もうっすら感じます。でもうまく言えない。これはどうしてなんでしょうね。

五: 例えば、「つきつめてゆけばあなたがドアノブであることを認めざるをえない」という歌ですけど、この「認めざるをえない」にパターンが端的に表れていると思います。

堂: あー、少し分かってきました。他にも、「感覚のおこりとともにゆびさきが葉でも花でもないのに気づく」の「葉でも花でもないのに気づく」とか、「風船をゆわえられても浮かないし私、うすれてゆくのでしょうか」の「うすれてゆくのでしょうか」とか、「スパゲティ素手でつかんだ日のことを鮮明に思い出しまちがえる」の「思い出しまちがえる」とか。つまり、象徴世界の中でも自由にはならない、という感覚ですね。

五: そう、そういうパターンがある。先日出た笹井さんの歌集『ひとさらい』にもこのパターンはあると思います。「からっぽのうつわ みちているうつわ それから、その途中のうつわ」の「その途中のうつわ」とか、「海の神さまみんなでなめた しょっぱくてがまんができないとひとり泣いた」の三句目以下とかですね。つまり、十全な永遠とか愛とかが無化されることで複雑性を保持している。

堂: なるほど、分かりました。複雑性の保持の仕方にパターンがあるのでは、ということだ。たくさん笹井さんの作品を読んでいくと、ある種の単純さを感じてしまうのはそこかもしれません。

五: 分かりやすい欲望とは違うのだけど、全体としてみるとやはりある目的に沿って言葉が出ている感じがあるということですよね。

堂: そこは気になりますね、確かに。ではそろそろ次に。巻頭作品の次は笹井さんの歌集『ひとさらい』に対する批評が2つ掲載されています。西村旦さんの「『ひとさらい』をさらう」と、斉藤真伸さんの「荒野のなかの『ひとさらい』」ですね。これはどうでしたか?

五: 私は批評という感じはしなかったですね。具体的に言うと、西村さんは、「凄い歌」、とか「天才」とか、「秀歌」とか言っているけど、その根拠をもう少し示してほしかった。斉藤さんは「短歌作者にとって『成熟』とは、作品に用いる言葉が『ねばり』を持つことである。と主張されていますが、紙数の制限もあったかもしれないけど、この「ねばり」についてもっと具体的に説明してほしかったです。

堂: そうですね。同感です。僕はこれらの批評だけでは、笹井さんの作品のどこがすごいのかいまいち分からなかったです。

五: では次にいきますか。次は短歌作品。しおみまきさんの「やみのはしら」15首です。

堂: この作品を読むと、やはり象徴世界に行ったきりの「メルヘン」の世界だと感じてしまいます。現実と対置できるだけの強度が感じられません。あるひとつの世界は提示されていますが、どうしても読み手としては自分とは関係のない世界だと思ってしまう。

五: インターアクションが弱い、ということでしょうね。

堂: そんな気がしました。作者には大事な内容なのかもしれないですけど、読者の僕には大事とは感じられなかったですね。では次は佐原みつるさんの「カルボナーラ」15首です。どうでした?

五: そうですね、これは日常のわずかなへこみが佐原さんの心に集まってできた歌の数々ですね。

堂: テーマと内容は一連のどの歌もそうでしょうね。日常生活のちょっとしたつまずきが喚起させる主体の感情。でも、それは佐原さんのつまずきであって、やはり僕には関係ない気がしてしまいました。あと、こうした日常の瑣末な出来事、例えば、「インデックスラベルを剥がす指先にはがしきれない痛みが残る」という歌だったり、「カローラを歩道の端に乗り上げてただ訪れを待っているのみ」のカローラを歩道に乗り上げてしまったこととか、「諦めるほかはないのか封筒の宛名が右へ右へ傾く」の封筒の宛名がどうしても右へ傾いていってしまうこととか、こうしたことに不幸を象徴させるのはどうか、と思います。ちょっと言いがかりめいてしまいますし、極論だと思いますが、問題の本質はそこじゃないだろう、と思ってしまう。あなたが日常なんとなく悲しいのは、もっと別に原因があるでしょう、と。僕はなんだかはぐらかされている気がしてしまう。大事なことをもっと言っておくれと思う。

五: 堂園くんは、大事なことと簡単に言うけど、具体的な一つの大事なことがあるわけじゃなくて、もっとそれは漠然としているんじゃないかな。それよりも、簡単に言うと、世界を矮小化してしまっているかどうかの問題だと思いますね。

堂: ああ、もしかしたらそうかもしれません。日常の細かい感情の揺れに目を向けること自体は悪いことではないですもんね。では次は駒形陽子さんの「―水の鱗―」15首ですね。

五: 堂園くんはどうでしたか?

堂: そうですね。ファンタジーというか、俗化したファンタジーの世界を描いていると思いますが、厳しめに言ってしまうと、その世界を描くことばかりに言葉を使っていて、それ以外の目新しい感じがしませんでしたね。僕は。

五: なるほど。私はイメージのつなげ方に難がある歌があると思いました。「翠なす眼下の檻にとじこめた彼方の声を弔いにゆく」など、眼下なのに彼方? と思ってしまいました。絵が浮かびにくいです。

堂: では次に。次は、野口あや子さんと栁澤美晴さんと笹井宏之さんの鼎談「私たちの向かう場所」ですね。まあでもこれは、三人の自己紹介みたいなものでしたからね。おっ、と思うようなところもなかったし、あまりコメントないかな。

五: 野口さんの発言が率直で楽しかったです。

堂: 僕はメッセンジャーで鼎談をやっているのが、うらやましかった。僕たちは毎回会って大変ですからねえ。短歌行も早くハイテク化したいものです。あと、「椎名林檎が短歌を作ると、野口あや子になる感じはします(笑と笹井さんが言ってるのですが、僕は椎名林檎が短歌を作っても、野口あや子にならないと思います。

五: そうですか。では次に。問題作「よもつひらさか異聞」30首です。これは高田祥さんと紺乃卓海さんのユニットを秋月祐一さんが構成演出するという形で出来上がった作品だそうです。

堂: この、構成・演出っていうのは何でしょう。よく分からなかったです。アドバイザー的な存在ですか?

五: たぶんそうなんじゃないですか。で、内容ですが、僕は乗れません。古事記が下敷きになっているということですが、取り入れ方がイージーです。

堂: イージーだと思います。必然性を強く感じることができませんでした。ちょっと別の話に逸れますが、最近アニミズムの取り入れ方にも疑問を抱きますね。誰が、という話でもないのですが、イージーにアニミズムを使っているのが散見されます。「使っている」という感じです。それも都合の良いところだけを使っている。この連作にも似たような感じを受けてしまいました。必然性を感じられないところに強い力は生まれないと思います。

五: うーん、もう少し具体的に歌を挙げて話をしましょうか。

堂: そうですね。では、一連の最後の五首を引用します。「そんなにもスタッカートで駆けのぼる階段ファソラシの先なくて、と「たちつくす桃にゆびさき突き刺せばかえりちまみれ 鏡のなかの」という紺野さんの連続する2首があり、次に高田さんの「髪と髪からめ合うごと櫛と櫛かみ合わすごとぎりぎりと 愛」という歌に続きます。そして次に一行空いて、紺野さんの「うつくしい樹氷であったきみだけは 逃げてもいいよ 鍵をしまって」という歌があり、最後に高田さんの「この坂道を涙のように下りゆくわれとめどなくとめどなく 海」で連作は終わっています。

五: まず一首目、「そんなにもスタッカートで駆けのぼる階段ファソラシの先なくて」ですが、ストーリーの中で読めば焦燥感を表している場面と分かりますが、これだけで読むと、「スタッカート」とか喜んでいるのか焦っているのか分からない。階段を上ることを音階で表現するのは簡単すぎますし。

堂: 二首目「たちつくす桃にゆびさき突き刺せばかえりちまみれ 鏡のなかの」も古事記を踏まえれば桃が出てくるのは分かりますが、古事記を外して読んだときに作品の強度が保たれているとは思えません。だから、古事記の中で対応しているところを、やっぱりいちいち考えてしまいました。

五: 次の「髪と髪からめ合うごと櫛と櫛かみ合わすごとぎりぎりと 愛」はどうですか?

堂: うーん、結句の「愛」が効いていないかな。この「愛」って何? って聞きたくなってしまう。いわゆる「愛」って感じ。いわゆる。ドラマに出てくるような。

五: 全体的にメロドラマ感がある。次の「うつくしい樹氷であったきみだけは 逃げてもいいよ 鍵をしまって」も、別れの場面の悲しみを歌っていると思いますが、「うつくしい樹氷であったきみ」の「きみ」がどういう人なのか見えませんね。「鍵をしまって」もよく分からない。

堂: 最後の「この坂道を涙のように下りゆくわれとめどなくとめどなく 海」も「涙のように」はステレオタイプ的な把握で、ゆるい比喩だと思ってしまいました。全体的に古事記を外すと、場面や情景があいまいにしか分からない作品が多かったように思います。

五: そうですね。「即興のエチュード」つまり「即興の習作」とありますから、あまりひとつひとつの完成度を求めるのもどうかと思いますが。

堂: 確かに我々は細かい部分を言いすぎなのかもしれません。それに、作品全部を十全に読めた自信は、正直ありません。もっと良い読みができるのかもしれない。

五: もっと良い読み方や、あるいは反論があれば、ぜひどなたかメールで教えていただきたいです。

堂: そうですね。メールはこのブログの右上の「プロフィール」のところに書いてありますからね。では次に。盛田志保子さんの連載エッセイ「今日か明日」です。第一回のタイトルは「おばけのレシピ」。

五: 白眉の部分を引用します。「平野レミのレシピ本も持っている。でも、本人が作ればもっともっと、もう何倍も美味しいんだろうということだけがわかり、とてもさびしくなる。/そういう意味で、料理は旅だ。自分のものとして持ち帰ることのできないところが醍醐味」。私にはレシピを元に料理を作ったという経験がほとんどないのですが、「自分のものとして持ち帰ることのできないところが醍醐味」には説得されます。なぜか。「料理は旅だ」という一節が開けていて見通しがいいからだと思います。見通しの良さは読者に文章を楽しむ余裕を与えてくれます。

堂: なるほど。この部分は確かに開ける感じしますね。うん。では次は?

五: 栁澤美晴さんの歌壇賞受賞作「硝子のモビール」に対する作品批評ですね。三人の方が書かれてしますが、中でも須崎友文さんの評が明確で、分かりやすかったと思います。

堂: 栁澤さんの連作に対して、「一連の、明瞭な、共感しやすい『われ』像は広い層の読者を引きつける魅力を持っているだろう」としながらも、「若い女性像として、大衆にもっとも共感されやすいものを(計算の末に)持ってきた、という印象も受ける」という批判を加えていますね。よくわかる論旨でした。他二人、中島裕介さんと岩崎恵さんも丁寧でよかったと思います。

五: そうですね。では次に行きたいですが、そろそろさすがに疲れてきましたね。あとは残りの短歌作品についてだけ触れますか。

堂: そうしましょう。まず、宮野友和さんの「剥がれゆく」15首ですか。

五: 繊細そうで少し不幸な作中主体を作ろうとしていますね。

堂: うーん、そうですね。具体的にあげますか。「きつかけは悲しい春の音だつた 幼い子供として僕はゐた」の歌はどうですか?

五: この歌は、「悲しい春の音」が具体的に何かは分かりませんが、その音が聞こえた瞬間に私は幼い子供としてそこにいた、という歌ですね。「幼い子供」というのは、ノスタルジックな、まあある種の自己憐憫でしょうね。このような歌があってもいいと思いますが、全体にこの自己憐憫一色ですから、読むほうとしてはつらくなります。

堂: 先ほど、笹井さんの歌の話のときに、複雑性がなくなると欲望がストレートに見えてしまうという話をしましたが、宮野さんの歌はどうしても欲望がストレートに見えてしまいます。

五: 「メルヘン」ととれてしまいますね。本当は、自己憐憫自体が問題なのではなく、作品自体の強度が問題なのですが。それは前川佐美雄の「バットの殻に歌かきつけてゐるわれのいまのこころはさびしきなり」などの歌を思い出せば、自己憐憫でも良い作品があるのは明らかです。

堂: はい。では次。岩尾淳子さんの「跳ねている鳩」15首です。岩尾さんの作品も自己認識のために字数をかけすぎている気がします。

五: 世界の豊かさに届かない感じがしますね。15首あったら中と外、いろいろなものを見せてほしい。一連の中では「情欲のなごりを寒い陽がさして駅階段を跳ねている鳩」がいい気がします。「寒い陽」は自分の心情につき過ぎている気がしますが、「駅階段を跳ねている鳩」はよいと思います。特に「跳ねている」が面白い。

堂: 同感です。では次、高見里香さんの「栗鼠の心音」15首です。樹木や植物の歌が多いですね。一首目「冬と春入り混じりつつふつふつと育ち始める幹のうらがわ」からも分かるように、樹木に視線を向けています。ただ、「楡の葉がざわめく夜のかくれんぼ見つけられずに樹木となった」の歌に見られるように樹木自身を歌うというより、象徴として樹木を使っている感がありまして、樹木を見てはいないのでしょうね。単純化が見られます。

五: そうですね。

堂: でも、樹に目を向けることはいいと思うんですよね。複雑なものですからね、樹は。ぜひ今後も樹を見続けてほしいと思います。

五: では次ですね。野樹かずみさんの「翼」15首です。1937年に26歳で夭折した李箱(イ・サン)という詩人へのオマージュでしょうか。全体としてこの詩人への愛着は強く感じられます。ただ、「逝きてあの日の少年に戻りふるさとの海からの光 見るだろうか」など、リズムの悪い歌が散見されます。

堂: リズム、気になります。では、次。佐藤理江さんの「『ウソではない!』」15首です。批評意識のある歌たちだと思います。私はこの批評意識の出し方に疑問を持ちました。一首目「主な公用語で絶句 満天に(比喩ですらなく)星の降る夜」の「主な公用語で」とか、「(比喩ですらなく)」とかですね、あと、「被害者と加害者に分かれお茶の間にバターナイフを奪ひ合ふ家族」とか。理性の臭みを感じてしまいました。

五: というと?

堂: なんていうか、言われている内容よりも、作者の顔の方が目立つ感じですかね。

五: なるほど。同感ですね。短歌作品はこれで終わりですか。では、最後に総括を行いたいと思います。

堂: 行いたいと思います。長々と、興味を持って読ませてもらいましたが、残念ながら、ピリッとした短歌作品には出会えませんでしたね。内部の批判精神、あるいは各作者の自分自身への批判精神もあまり感じなかった。もっとピリッとしたもの、キラキラしたものに出会いたかったです。

五: 今回の作品の中ではやはり笹井さんの作品に良質なものを感じました。この雑誌にはもっと多彩な作品を期待したいと思います。

堂: ですね。期待しております。

五: それではこの辺で終わりにして、逗子海岸でも散歩しましょうか。

堂: あー、いいですね散歩。散歩は世界三大娯楽の一つですからね。

五: ではお疲れさまです。

堂: お疲れです。

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  • 五島諭 1981年生まれ。「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。
    堂園昌彦 1983年生まれ。「コスモス」「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。

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