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2008年10月

2008年10月25日 (土)

会津八一の歌を読む

わが かど の あれたる はた を ゑがかむ と ふたり の ゑかき くさ に たつ みゆ   会津八一 『鹿鳴集』

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 今日も前回に引き続き横浜のジョナサンです。横浜アゲイン。再び聞きますが、横浜はどんな地でしょう。神奈川博士。

五: 今日は夜の横浜ですね。夜の横浜は昼の横浜とは一味違います。西口の近くを流れる川からは海草の腐ったような臭いが立ち込めて黒雲は空を覆い、道行く人々は百鬼夜行図を彷彿とさせますね。

堂: 五島さん、横浜キライなんですか?

五: 風情がある、と言いたいだけですよ。

堂: そうですか。そういうことにしておきましょう。僕は横浜と言えば、最近では今やっている横浜トリエンナーレに注目していますね。現代美術のフェスティバル。ぜひ行ってみたいです。

五: 今日もテレビの「日曜美術館」という番組で特集していましたね。ではそろそろ始めましょうか。今回は名歌鑑賞です。会津八一のこの歌。

堂: 「わが かど の あれたる はた を ゑがかむ と ふたり の ゑかき くさ に たつ みゆ」です。『鹿鳴集』に収録されている歌です。

五: はい。今日は会津八一をやりたいです。ではまず会津八一の紹介を。

堂: はい。会津八一は1881年新潟県生まれです。家は百年も続いた料亭をやっていて、使用人もたくさんいたとか。そこの次男ですね。ちなみに「八一」という名前は八月一日生まれだからみたいです。

五: そうなんだ。堂々とした名前のわりに安直な命名理由なんだね。

堂: ね。「会津八一」。この風格にして、この安直。すばらしい。そして、その後長じて古美術研究、書道、短歌などの各方面で名を残しました。

五: 歌人、ていうより文化人て感じだね。

堂: そうですね。歌も『会津八一全集』に収録されているのは総数1,036首らしくて、かなり少ないです。第一歌集も153首。

五: 少ないですね。正岡豊か会津八一かってくらい少ないですね。

堂: 正岡さんは『四月の魚』が208首ですか。それが十年間の作品だから、年間20首くらい。会津八一は本人の弁によると、年間5首くらいだそうです。

五: はー。

堂: でも、それくらいの数でもいいかなー、と思うときもあります。

五: ありますね。では始めましょうか。

堂: 今回この歌を選んだのは、前の釈迢空のときと同じように、良いとは思うのですが、その良さがうまく説明できる感じがしないからです。

五: それで今回も二人で色々喋っていこうというわけですね。じゃあまず、堂園くんはこの歌のどういうところが好きなの?

堂: えーと、それが難しいんだよな。「わが かど の あれたる はた を ゑがかむ と ふたり の ゑかき くさ に たつ みゆ」……。

五: 読者が食いつきそうなわかりやすいサビのある歌ではないですしね。

堂: そうですねー、やっぱりこの歌を読んだときに自分の中で広がる感覚があるからかな。

五: わかります。

堂: 景色の捉え方の問題だと思うのですが、かなり広いパースペクティブで景色を捉えていますよね。自分の家の近くに畑があって、その脇に草が生えてて、そこに絵描きが二人立ってるんだけど、この風景をイメージするときにかなり遠方からのカメラを想像します。まあ、実際は会津八一は結構近くで見ているのかもしれないけれど。

五: うん。目や頭に負荷をかけることによって普通なら目に入らないものをみてしまう、というのがよくある方法ですが、会津八一は違います。細部を捉えようとか、普通とは違った見方をしようとか、そういう力みが感じられない。目に力が入ってないんですね。だから一首の佇まいがすっきりしていて格好いい。 

堂: それで、その光景の中に余計な夾雑物がないことも「広い!」という感覚を増しています。周りには山があるんだろうなー、とか、空があるんだろうなー、とか周囲の風景までも想像させる。当たり前のことかもしれませんが、意外に珍しいですよ、こんなふうに広がっていくタイプの歌は。

五: ふうむ。広がりは感じますが、私のイメージでは畑の周囲は茫洋としていますね。茫洋としていることが広がりに繋がるような感じです。

堂: ちょっと言い方が拙くなってしまいました。周りに山がある、とか空がある、とか想像させるのが大事なのではなく、そうではなくて、目の前にある風景だけが世界ではない、という感覚でしょうか。限定されない感じ。もっと簡単にひと言で言えば、自由さを感じますね。それは、のどかな景色を見て心が休まるのとは全く別種の感動です。

五: そうですね。だいぶ大まかな輪郭は見えてきましたね。そろそろ細かいところを見ていきましょうか。この「ふたり の ゑかき」というのは洋画家中村彝(つね)(1888-1924)の門人二人らしいですね。

堂: そうらしいですね。中村彝が会津八一の友人で近所に住んでたらしいです。『自註 鹿鳴集』に書いてあります。門人、ということはこの二人は無名な人たちですね。有名な画家よりも、無名な二人の絵描きの方がこの歌はいい感じがします。

五: やはり、有名な画家だとイメージが強すぎて歌の性格が決まってしまいそうですよね。風景の広がりが消えてしまいそうです。それに「あれたる はた」が特別な価値を持つものになってしまうと良くないのではないか、という気がします。

堂: そうですね。会津八一の歌は他の歌人の歌と比べると特殊に見えますが、歌の中の言葉はかなり一般的ですね。言葉が一般を目指している。

五: わかります。もし「ひとり の ゑかき」だとしたら、その「ひとり」の画家の特殊な美意識がクローズアップされてくると思います。

堂: まったくそうですね。「ふたり」であることで、その二人がなんとなくそこにいる感じが強調される。二人の絵描きが「ここでも描こうか」というふうに選んだような。しかし、ここに一人の画家が絵を描いていたら、それはその画家が明確な意思を持ってその場所を描こうとしているように見えます。

五: はい。さらにこの光景を詠んだ作者の美意識も、二人の絵描きがいることで限定されすぎずに表現されている。

堂: 一人の画家だと、作者の美意識がはっきり出すぎてしまって、読者を選んでしまうんですね。

五: もちろん、美意識が出ていない訳ではないですけどね。

堂: ですね。でも、それが広いかたちで表現されている。

五: そうだね。こういうふうに広く広く捉えるのは、迢空にちょっと似ているのかもしれませんね。

堂: あー、似てますね。風景として捉える視線がここにもありますね。

五: あと、その二人の絵描きの足元なんですけど、立っているところは「くさ」ですね。「くさに たつ みゆ」。絵描きの足元が草に隠れている情景が思い浮かびます。

堂: この草は若草ではないですね。「あれたる はた」に引っ張られて自然とくすんだ緑を想像させられます。

五: 夏草が萌えている訳ではないね。それにこの「くさ」が景物の抽象化に働いていることも見逃せません。

堂: というと?

五: 足元が草によって覆われることで輪郭がぼやけますよね。もし、これが道路に立っているとしたら、一首全体の景がもっとくっきりはっきりなると思う。一首の終わりのほうで草の中に立っているという、輪郭がぼんやりとした景を提示することで、ある場所に確固として立っている訳ではない、ある種の観念的な場面を提示することに成功している気がします。幽けさ、というとちょっと通俗的ですが。

堂: たしかに徐々に観念的になっていくような作りになっていますね。

五: こうした観念的な終わり方が広がりにつながっていると思います。最初に話した茫漠とした感じにもつながりますが。

堂: そういえば、始まりは「わが かど」と、かなり具体的でくっきりしていますね。

五: はい。「ふたり の ゑかき」ぐらいからぼんやりしてきて、かなりぼんやり終わる。くっきりからだんだんぼんやりへ。ここは工夫がありますよね。

堂: そうですねー。

五: 実際、何ほどのこともないことを歌っていますからね。ぼんやりで終われる。

堂: や、会津八一は内容的にはたいしたことを言っていないのがいいですよね。

五: たいしたことないと思うのは、歌を自意識の葛藤というか、自己表現のために奉仕させることがたいしたものだ、という認識を下敷きにした言い方だよね。でも言いたいことはよく分かって、要素はかなり少ないですよね。「おほてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ」にしてもどんどん抽象化されていく手つきがありますし、要素も少ないです。

堂: こうした要素の少なさは現代では珍しいですよね。五島さんの言葉で言えば、自己表現であることが多くて、結果、一首の中に要素が多くなる。自分の心をしっかり表現しようとすると要素が多くならざるをえない。しかし、会津八一はあまりそうした欲望を感じないですね。

五: そうですね。一個一個の言葉に作者の期待がべったりと張り付いていくと、言葉が重く重くなっていくんですよね。そういうのは会津八一にはない。

堂: そうそう。分かりやすくなるので、また斎藤茂吉を引きますが、「こらへゐし我のまなこに涙たまる一つの息の朝雉のこゑ」では、どの語にも作者の気持ちが込められている。簡単に言うと、この「朝雉のこゑ」は茂吉の声でもある。つまり、この一首では茂吉の感情の強さが表現される訳です。しかし、会津八一の「あれたる はた」は別に会津八一の心が荒れている訳ではない。

五: 茂吉の歌の方は言葉のひとつひとつに気持ちがこもっているから、読者としてはひとつひとつ読み解いていく。息が抜けない。その分体力を使いますね。

堂: 会津八一の方は体力を使いませんよね。

五: うん。そこが違い。しかし、改めて読むとこの茂吉の歌もすばらしいね。気持ちがビンビン伝わる。

堂: 読み解かせるだけ、強い気持ちが読者の心に残りますよね。

五: 会津八一は強い気持ちが心に残る訳ではないよね。そうではなくて、もっと世界が広がると言うか……。

堂: そうそう。何か目が開いていく感じ。

五: 強い気持ちというものは心に残るけど、ある意味閉じられてもいますからね。

堂: こうした広がりの歌が最近は面白いと感じるようになった。

五: そうだね。最近本当にそう感じてしまいますね。会津八一の歌には心の軽みというか、余裕を感じますね。

堂: 余裕は会津八一のとても大切な要素だと思います。「わが すてし バナナ の かは を ながし ゆく しほ の うねり を しばし ながむる」も海を余裕を持って眺めている。海の歌といえば、そうだな、例えば北原白秋の「寂しさに海を覗けばあはれあはれ章魚(たこ)逃げてゆく真昼の光」もすばらしい歌ですけど、ここで感動するのは白秋の心です。白秋の心が寂しくてきらきらしているのがよく分かるから僕は感動する。しかし、会津八一の方はバナナの皮の方に興味がいきます。バナナの皮が潮にうねっている動き自体が面白く感じる。しかし、白秋の方はタコの動き自体の面白さではなく、そのように見える白秋の心の面白さだと思うんですよ。

五: あー、分かります。もちろん、会津八一も心を表していない訳ではないのだけれど、歌の中での心の表出の激しさが他の人よりも少ない感じです。心に必要以上に価値を見ないんですね。

堂: そうそう。バナナの歌にも、会津八一の視線の面白さ、バナナを見る心の余裕の面白さはあるけど、読んだときに「バナナかー」と思うんだよね。「バナナうねってるのかー」って。でも、白秋のタコの歌は「タコかー」とは思わない。

五: 「ゑかき」が二人だなー、と思うよね。

堂: では、ちょっとまた「わが かど の」の歌に戻りますか。あとは、そうですねえ、「あれはる はた」、つまり作物の作られていない畑を二人の絵描きが描いているのも面白いですね。

五: そうだね。

堂: 池とか山とかをもし描こうとしていたら、もっとその対象に集中しますよね。視線が一箇所に集まる。しかし、荒れた畑だと、作物もないし、たぶんそんなに脇の道とかと色が変らない。しかも、目立つ中心物がない。やはりこの畑も茫漠とした感じ、広がりを持つ感じを表現しています。

五: 同感ですね。あと、作者が対象にあまり興味がない感じもして、それも面白いですね。

堂: あー、そこ不思議ですね。「わが かど の あれたる はた」を絵描きが描いていることにそこまで興味がなさそう。

五: 描いてんなあ、というか。

堂: やっぱり風景になってる。

五: うん。対象に興味がないというよりも、対象を捉えている自分の心に興味があまりないという方がいいのかも知れませんが。白秋の『雲母集』の歌とか読んでいると、生命力が横溢していて、きらきらしているじゃないですか。

堂: 穂村さん的に言うと、心が一点に張られているよね。

五: でも、会津八一は心が一点に張られていないのに面白いよね。

堂: 結局、心を一点に張るだけが短歌の面白さではない、ということでしょうね。

五: そうだね。その通り。

堂: なんていうか、別の価値観があることをちょっと言いたいね。

五: そうね。釈迢空とか会津八一の歌を読んでいるとそう思う。

堂: うん。その二人は推していきたい。もちろん、二人にも違いは結構あって、さっき会津八一は読むのに体力いらない、って言ったけど、迢空は結構いりますね。この違いは自分としては興味深い。

五: 迢空の方が情念がずっと強いですね。執念深いというか。ただ私はそれほど体力を使って読む感じはしないです。歌柄がでかいからかなあ。

堂: ふーむ。しかし、心が粋で視野が広い会津八一、心が強く視野が広い迢空、心が強く視野が狭い茂吉の中で、一番継承されているというか、言及される度合いが多いのが茂吉というのは面白いですよね。

五: 若干片寄った印象があるなあ。歌い上げる(下げる、と言う人もいるがこれも同じパターン)とか心を張るとか、言い方は色々ですけど、そういう方法が現代短歌のあるトーンになっていると思いますね。個人的には「歌いゆるめる」、という感覚も大切にしたいです。

堂: 茂吉がいけない訳じゃないですけどね。すばらしいものがとてもたくさんある。やはり茂吉がいなかったら、現代短歌の豊かさは今よりも確実に減っていたでしょう。ただ、現代短歌を読むときのある種の疲労を考えると、歌いゆるめる、という感覚も提示したいですね。

五: うむ。しかし、それでもやはり会津八一は近代以前の歌とは明確に違いますよね。そのことも言っておきたい。

堂: ああ、それも大事だ。

五: 例えば、今回の歌では、「わが かど の」という始まり方をしているところに若干の矜持が見られます。近代的まではいかないにしても。

堂: よく歌に出てくる仏に対する視線が分かりやすいですよね。非常に近代的。例えば、「あせたる を ひと は よし とふ びんばくわ の ほとけ の くち は もゆ べき もの を」が分かりやすいと思います。「びんばくわ」は「頻婆果(びんばか)」で、インドの果実で赤いそうです。この歌は、世の人々は仏というものは古色蒼然としているのがいいと言っているけど、本来仏の唇は頻婆果のように赤く輝いているものなのに、分かってないなあ、て感じの歌です。この歌を見ると、仏像を宗教的ではなく、美的に見ている。これは非常に近代的ですね。

五: 近代的なロマン性が見られるように感じますね。

堂: 「かたむきて うちねむり ゆく あき の よ の ゆめ にも たたす わが ほとけ たち」の「わが ほとけ たち」とかね。『鹿鳴集』の装丁は青山二郎なんですけど、美術への視線に共通するものを感じますね。二人とも古美術を近代的にリファインしていると思う。

五: 会津八一には今後注目ですね。

堂: 最後に、僕の好きな会津八一の文章を引用します。『渾齋随筆』からです。長いですがほんとに鹿は、いつ見ても、誰の目にも面白い。生きてゐるからである。美術も生きてゐるのであろうし、もちろん天然の鹿などより、高尚なものに違ひなからうが、それを活かして見るのは、見る人の目のはたらき一つである。めいめいが、果してどれだけ、ほんとに活きた美術を見てゐるのか、比較することも出来ないが、それでかへつていゝのかも知れぬと思ふほど、むつかしいのは美術である。そこにいたると、鹿はとにかく自體が生きてゐるのであり、出来上りに巧拙もないし、見やうによつて生きるの死ぬのといふのでもないから、まことに簡単でそして安心である。あの色合の鮮かさ、動きの軽さ、とりわけ、あの鳴き聲は、大ッぴらで、高ッ調子で、そのくせ、そのまゝ人の心に強く沁み入る。あんな調子で人間の歌も詠めないものであらうか、と、つくづく思ふこともある。かう考へると、『鹿鳴集』とは、私の集の名としては、少し不似合なほどに出来過ぎてゐるのかも知れない。 」

五: 『鹿鳴集』ってかっこいいタイトルだよなあ。

堂: 歌集名ランキングトップ10には入るよね。というところで、もちろん語り残したこともありますが、この辺で今回は締めますか。

五: そうですね。ああ疲れた。私はもう疲れてしまって、机の下までずりおちそうです。(ずりずりずり)

堂: そうですね。もうすっかり五島さんは下までずりおちてしまって、僕からは顔しか見えません。シュールな光景が広がっています。まるで現代アートのパフォーマンスです。

五: でしょう。

堂: まあ五島さんは生ける現代美術と呼ばれていますからね。

五: 横浜トリエンナーレでお会いしましょう。(むっくり起き上がる)では帰りますか。

堂: お疲れ様です。

五: お疲れです。

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プロフィール

  • 五島諭 1981年生まれ。「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。
    堂園昌彦 1983年生まれ。「コスモス」「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。

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