2009年2月の総合誌を読む
2009年2月
五島選
- とれたての公務員からしぼりとる真冬の星の匂いの公務 笹井宏之 「歌壇」p.157
- 集積が力のようなものになるかかえきれないひなげしの群れ 佐藤りえ 「短歌研究」p.100
- 塩の柱となるべき我らおだやかな夏のひと日にすだちを絞る 服部真里子 「歌壇」p.55
- 4号機に放射能洩れがみつかつたときの1号機のやうな立ち方 岡井隆 「角川短歌」p.19
- 懸案の事項からいま新緑がけぶりはじめてゴールデンウィーク 今井ゆきこ 「歌壇」p.54
堂園選
- 零歳も五十五歳もにこつとすわれを撃つなとにこつとすなり 斎藤寛 「角川短歌」p.247
- 両の眼の間隔が徐々に狭くなり鼻梁が痛いひまわり畑 東洋 「角川短歌」p.244
- 手袋の小さきキティがよく遊びよく菓子を食ひよく眠りたり 西ノ原仁 「角川短歌」p.248
- 小さきもの陽の中きらきら浮遊するその小ささの中々にあやしき 竹内キク 「短歌研究」p.167
- ATMの監視カメラににっこりと笑いかけたるのちに引き出す 森田小夜子 「角川短歌」p.251
堂: こんにちは。
五: こんにちは。
堂: 今日は大船にいます。すかいらーくです。すかいらーくは初だ。初、というか最近あんまり見ないですよね、すかいらーく。
五: すかいらーくは全店幻でできていますからね。
堂: そのギャグはよくわからないよ、五島さん。それはいいとして、大船の解説をお願いします。
五: 大船はいいところですよ。何でもありますからね。中でも有名なのが湘南美術学院です。美大を目指す高校生が神奈川全土から集まってくる、まさに美大進学のメッカなんですよ、大船は。よく見ると若い人はみんなピカソの描く人物のようにあらぬところに目や鼻がついていたりします。
堂: ……。
五: なんですかその反応は。
堂: あいかわらず、どこまでが事実か判別しにくいコメントをするなあ、と思いまして。
五: まあ大船素人はいつもそうおっしゃいますね。
堂: うーん、僕がさっき散歩した感じでは、あらぬところに目鼻がついた人は皆無でしたが、確かにいいところでした。魚市場があって、牡蠣が安かった。2パック500円でした。うちの近くだと、だいたい1パック500円くらいですね。買いたかった。
五: ほう。
堂: まあ、座が牡蠣臭くなるので、やめましたが。
五: 秋は秋刀魚とかも安いんですよ。3尾150円を見たことがあります。
堂: それはすばらしい! うちの近くでは、旬の安いときで1尾90円くらいです。いーなー、大船。ところで、あのでかい観音についてはコメントないんですか?(注:大船には「大船観音」という超でかい観音があります)
五: ありません。
堂: そうですか。では始めますか。今日は通常営業で、ひさびさに総合誌3誌から、2人で5首ずつ選歌をして、話をしていきたいです。
五: 今回も選りすぐりの短歌をお送りします。
堂: では、順番にやっていきましょう。まずは笹井宏之さんの
- とれたての公務員からしぼりとる真冬の星の匂いの公務
です。採られた五島さん、どうですか?
五: はい。今回は3誌の中で私はこの歌が一番いいと思いました。公務員はここ5年くらい旬ですね。公務員制度改革が叫ばれていますし、大阪市のように給料を取りすぎているという報道がされたり、着服事件が問題になったりと話題には事欠きません。そんな公務員を果物に喩えていることに、まず目を見張ります。
堂: 確かによく聞く話題ですねえ。
五: その話題はどちらかというと暗いイメージの話題が圧倒的に多いですよね。公務員=悪、というイメージさえある。笹井さんはそのイメージを逆手に取って、瑞々しい果物というイメージを持ってきているんですね。
堂: そうですね。かなり現実的で、ポエティックではない「公務員」という言葉が、きらきらとしたものに変質している。このイメージの転化のさせ方が面白いですね。
五: はい。批評意識が前景化するのではなくて、むしろ一首からはきらきらとしたポエジーが匂い立つ。普通の意味での批評意識からはこのような言葉は絶対に生まれない。非公務員の立場から公務員を批判する言説に乗っかってしまうだけでしょう。「真冬の星の匂いの公務」という部分からは、公務というものがきらきらとして美しいもののように感じられ、そういうものはしぼりとられるものなのであるというような、世界そのもののハードさにまで届くような表現になっていると思うんです。
堂: 僕が読んだときは「現実→きらきら」のギャップのみで、読んで面白い、と思いましたが、確かに、そこまで読み取れる表現ですね。説得されました。意図的かどうかは別として、そうするとかなり射程の長い表現ですね。
五: ところで、「しぼりとる」の主語はなんでしょうね。
堂: ああ、何でしょうね。主語省略は「私」を補えという鉄則があるけど、この場合は「私」ではないですね。
五: そうですよね。もっと一般化された何者かですね。
堂: そのあたりが歌柄の大きさにつながっているのは確かでしょうね。
五: 「人々」、「我々」、「時代」……etcと、いろいろ候補が浮かびますが、そういう何者かなんですよね。このあたりが普通の歌と位相が違う歌になっている理由の一つですよね。
堂: 笹井さんは他に
- あんぱんがたべたいひととあんぱんのあいだに物凄い滝がある
も面白かった。笑いました、これ。
五: あ、それも良かった。といったところで次の歌に行きましょう。斎藤寛さんの
- 零歳も五十五歳もにこつとすわれを撃つなとにこつとすなり
です。
堂: はい。今回の僕の選はすべて投稿欄からです。特にそうしよう、と思ったわけではなくて、自然とそうなってしまったんですが、中でもこの歌が一番よかったかな。
五: いい歌ですねえ。しかし、これはどういう状況なんでしょうね。
堂: どういう状況なんでしょうね。非常に怖い。僕は、はじめ中東諸国のゲリラ軍が多い状況とか、テロとかをイメージしましたが、そこまで限定しなくてもいいかもしれませんね。日本での無差別殺人もイメージさせるし、あるいは写真とか本とかのフィクションでもいい。とにかく、零歳も、五十五歳も、人間はにこっとするんです。撃たれないために。
五: はい。五十五歳という微妙な数値が挙がっているので、何かありそうな気もしますが、より一般的に解釈していいかも知れませんね。
堂: と、思います。その普遍的なところがやはりよくて、よくある時事詠のように事実のこまごまとしたところを言いつのるよりも、ピシッと時代的な恐怖を伝えていると思う。
五: 恐怖と、さらに言えば生きていることの切実さですよね。
堂: それもありますね。「にこっとしないと撃たれる」という状況への怖さと同時に、「人間はにこっとするものだ」という人間の性質の切実さも表わされている。
五: ですね。それにしてもこの歌、4句目でいきなり極限状況が現れるという作りになっていますよね。ここで日常が破られていることで、本質が丸裸になっているような感覚があります。
堂: そうですね。どきっとしてしまいます。あと、「零歳」と「五十五歳」という幅のつけ方も効いていますね。
五: うん。でも、どう効いているんでしょう?
堂: ちょっと難しいんですけど、例えば「零歳」と「百歳」ではやはり嘘くさくなってしまう。それは明らかです。あと、「五十五」という数字も何か表しているものがあって、「ごじゅうご」という音やリズムがどっしりしているせいか、歌に落ち着きと深みが加わっている気がする。それに、「五十五歳」を考えると、壮年から老年にさしかかる頃ですが、なんとなく落ち着きのある人格をイメージして、その人がにこっとする姿は複雑性を増していると思う。
五: 「五十五歳」とこの歌の中で聞くと、不思議と男性をイメージしますね。なんでだろう。
堂: あ! 僕も男性をイメージしていました。不思議だなあ。
五: それは不思議だね。しかし、うん、いい歌でした。では、次に。佐藤りえさんの
- 集積が力のようなものになるかかえきれないひなげしの群れ
です。
堂: はい。
五: 抽象と具体、アフォリズムと景、というよくある構図に沿って書かれた歌ではあると思いますが、説得力があると思いました。なんというか、「集積」という語が「かかえきれないひなげしの群れ」で具現されるとき、ひなげしのボリューム感と花の明るさが一挙に押し寄せるような感じがして、そこに説得されるんでしょうね。ああ、これは確かに「力のようなもの」だな、と思えるわけです。
堂: やはりイメージで手渡されるのところがよいと思いますね。「力のような」の「ような」などに気が使われていますね。
五: 「力」と言うよりももっと明るいやさしい何か。力と言えば言えるかも知れないんだけど、そう言った瞬間に少しずれてしまうような、そういう微妙なニュアンスを伝えようとしているんですね。
堂: ですね。では次に。東洋さんの
- 両の眼の間隔が徐々に狭くなり鼻梁が痛いひまわり畑
です。まず読みを。たくさんのひまわりが咲くひまわり畑にいたら、だんだん両の眼の間が狭まってきて、鼻が痛いような感覚に陥った、というふうに読みました。
五: そう読みたいです。
堂: それで、面白かったのは、やはり両の眼の間がだんだんと狭まって、鼻に集まってくる感覚、これが体感として分かったことでしょうね。「徐々に」とか、効いていますし、「鼻梁」という固い言葉も、そうした痛みをより伝えている。また、ひまわり畑の明るく黄色い色彩も、痛みを強調しますね。
五: 花がいっぱいあって、それがなにがしかのパワーを帯びる、という感じはさっきの佐藤りえさんの歌に似ていますが、こっちの歌のほうがなんとなく不吉なパワーに満ちていますね。面白い歌でした。では次。服部真里子さんの
- 塩の柱となるべき我らおだやかな夏のひと日にすだちを絞る
です。この歌、「塩の柱」が分かりにくいですが、これには逸話がある、と堂園くんが言っていました。
堂: 博覧強記、古今無双の僕の学識を持ってすれば当然思い当たる逸話です。旧約聖書第19章、26節に、背徳の町ソドムを神が滅ぼす記述があります。その際、心正しきロトの一家だけは事前に神からそれを伝えられ、脱出するのですが、「町を振り返ってはいけない」と神から言われていたにもかかわらず、ロトの妻は振り返ってしまい、塩の柱と化してしまった。この「塩の柱」とは、そのことを言っているわけです。
五: さっすが! 詳しいね!
堂: まあ、本当はズルをしていて、僕もこの「塩の柱」がぜんぜんわからなくて、服部さん本人に聞いたのです。早稲田短歌の後輩なので。で、さっき言ったようなことを教えてもらいました。
五: なーんだ。
堂: 選評にも「『塩の柱』が象徴するものがあいまいで」と書かれていましたが、やっぱりこの部分はよくわからん、と思います。
五: そうですね、それにその逸話がもしわかったとしても、やはりどう読めばいいのか分からない部分はあります。ここではとりあえず非常事態的な、背徳的な雰囲気を読み取っておきたいと思います。そうすると、「おだやかな夏のひと日」が単におだやかなだけではなくなって、「すだちを絞る」という行為も輝きが増すように感じます。全然うまく言えないんですけど。
堂: 難しい歌ですね。言葉の選択に非常に緊密性が高い。この緊密な感じに価値を見たいです。
五: まさにそうですね。たるんだところがない。それに「すだちを絞る」の「絞る」のあたりに非常事態性や背徳性がぐーっと収斂していく感じがする。「絞る」にウエイトが乗っている。
堂: 「塩の柱となるべき我ら」という広く運命的な把握から始まり、「おだやかな夏のひと日」で、ある一時点に景が限定されることで、、運命的な言い方が一つの確固としたものとして表れてくる。そして、最後の「すだちを絞る」という印象深い動作によって、全体の運命性がより強調され、同時に読者に「絞る」イメージが強烈に残る、とこういう作りになっています。
五: なるほど。
堂: 「塩」、「夏」、「すだち」、というピリッとしていて、甘くないイメージも非常に印象的です。
五: 叙情質に粘着性がないというか、のど越しにキレがありますよね。つまりジメジメしてないところもいい。というところで次の歌、西ノ原仁さんの
- 手袋の小さきキティがよく遊びよく菓子を食ひよく眠りたり
です。
堂: この歌は、まず解釈をすると、たぶん、手袋にキティがプリントされていて、その絵はキティが遊んでいる絵だったり、菓子を食べている絵だったり、眠っている絵だったりしたわけです。プリントされているから、いつ見ても手袋のキティは遊んでいるし、食べているし、眠っている。それを「よく遊びよく菓子を食ひよく眠りたり」と表現した歌だととりました。
五: なるほど。つまり小さいキティがいっぱいいる絵柄なんですね。
堂: で、その視線のずらし方が面白かったです。
五: 確かに。
堂: さらに、「手袋の小さきキティ」ですから、これをはめている小さな子供がいるはずで、その子のイメージにキティのイメージが重なってくる。その重なりも面白いし、その子に対する視線が優しいのもいいです。
五: 私ははじめこの歌を読んだときは、その子にウエイトをかけて読みましたね。はじめからキティの絵柄よりその子を思い浮かべました。でもキティとその子のイメージが重なるという基本線は一緒ですね。では次。岡井隆さんの
- 4号機に放射能洩れがみつかつたときの1号機のやうな立ち方
です。
堂: この歌、うまいなあと思いました。
五: そうですよね。原子炉か何かのことを言っているのだと思いますが、放射能洩れが見つかって、やはり原子炉は危険だ、とか性能や管理に問題があったのだ、とか言われている4号機を横目に見ながら、同じ原子炉として他人事ではない、次は自分だろうか、という不安定な気持ちで立っている1号機。そういう立ち方だと言っているわけです。
堂: 絵が浮かびますね。
五: 4号機と1号機だから、普段そんなに親密ではないんだけど、やはり同類の親近感は感じざるをえない、という微妙なニュアンスまで伝わってきますよね。
堂: それが人間界にオーバーラップしてくるわけですね。よくあるよなあこういう場面。同情でもなく、非難でもなく、微妙なニュアンスですね。では次。竹内キクさんの
- 小さきもの陽の中きらきら浮遊するその小ささの中々にあやしき
です。
五: これも不思議な歌ですね。
堂: 不思議ですよね。語弊がある言い方かもしれませんが、お婆さん的不思議さな気がします。まず読みですが、埃か虫か、なにか小さなものが日の光の中できらきら光って浮かんでいる。光っててよく見えないので、「小さきもの」なのです。そして、その小ささがなーんかあやしいな、と思ったという歌です。「その小ささの中々にあやしき」の「中々に」とかわざわざ字余りで言っているのが、妙なおかしみを出していると思います。
五: 「中々に」がすごいですよね。お婆さん的、というのもなんとなくこの辺からくるような気がします。若い人だったらもっとこのきらきらの中に没入してしまうような気がするけど、「中々に」ってなんかこう余裕がありますよね。こいつらもなかなかあやしげよのう、というような感じがある。
堂: ですね。あと、普通ならば、見えている光景の輪郭をもっとくっきりさせるべきなんだけど、この歌の場合はこのぼんやりとした感じが面白い。
五: なにげない光景が変なものに変化しているのは、このぼんやりとした言葉つきが原因になっていると思います。
堂: そうですよね。しかし、不思議な歌だ。では次、今井ゆきこさんの
- 懸案の事項からいま新緑がけぶりはじめてゴールデンウィーク
です。
五: 「懸案の事項」という言い方から、オフィスワークのOLを想像しました。会議なんかで話題になって結局決着がついていない事がある。けれど、そこから新緑がけぶりはじめて気もそぞろ。懸案の事項なんてどうでもよくなってきて、ゴールデンウィークに突入する。やったー、連休だーっ、というわけですね。
堂: 内容としては、非常に俗っぽくて、たいしたことはないけれど、こういう言い方をすると、面白いですね。
五: 「けぶりはじめてゴールデンウィーク」というところ、スピード感があって、からっとしていて気持ちいいですよね。堅い仕事の話題に漬かった生活から解放されていく様子が実に見事に表現されています。「ゴールデンウィーク」がとっても素敵なものに見える。
堂: そうですね。では次。森田佐代子さん。
- ATMの監視カメラににっこりと笑いかけたるのちに引き出す
です。五島さん、どうですか?
五: これも面白い歌ですね。ATMと防犯カメラに向かって笑いかける様子がちょっとシュールだし、じゃあ何のために笑いかけるのかっていうと、カメラだからちょっと感じよく映りたいっていう欲望、システムに対する批判意識、監視カメラの向こうにいる人に対する脅しなど、様々な線が考えられる。
堂: うん。そういう風にいろいろ読めるところが、この歌では生きている。ひとつに確定しなければならないタイプの歌もあると思うけれど、この歌はいろいろあっていいと思う。あと、終わり方に注目しました。「のちに引き出す」。にっこりと笑ってはいるけど、しれっといきなり引き出す。やることはやる、というか、いきなり現実に戻ったな、というか、このいきなり感は面白かったです。
五: そうですね。「のちに引き出す」で、結局ATMの無機質なシステムに乗るんだけど、その前の「にっこり」によって、生身の人間を刻みつけているような感じ。
堂: うん。基本意識はシステム批判にあるような気がするんだけど、それだけでとってしまうとつまらない。もっと生々しい何かがある。
五: はい。というところでしょうか。おっ、これで全部終わりましたね。
堂: ですね。今日はずっとすかいらーくでやっていましたけど、普段と何か違ったことありました?
五: すかいらーくは子供が大声を上げ走りまわる、まるで早春の野原のようなファミレスでしたね。
堂: なるほど、僕もファミリーレストランのファミリーっぷりを見せつけられた気がしました。あと、ドリンクバーの冷たいジャスミンティーがおいしかったんですけど、そこに、「アイスで飲むにはもったいないくらい良質な茶葉を使用しています(中級クラス)。」と書いてあって、笑いました。
五: どうせなら高級って書いてほしいよー。
堂: 嘘でもいいから。
五: じゃあ、そろそろ帰りますか。
堂: 僕は牡蠣買って帰ろうかな。牡蠣ソテーにします。しかし、大船観音でかいなあ。
五: 不穏なほどだよね。
堂: 夢に出てきてうなされそうだなあ。ではお疲れさまです。
五: お疲れです。
