俺たち早稲田短歌会!!
堂: こんにちは。
五: こんにちは。
堂: 今日の場所は、どこでしょう? 五島さん。
五: どこでしょうね。あえて言うならば、どこでもない場所、とでも申せましょうか。
堂: どこでもない場所、ですか。いきなりファンタジー路線になりましたね。短歌行、初の試みですね。
五: その通りです。この日のために私はタイピングソフトでブラインドタッチの研鑽を積んできたわけですからね。つまり、今回の場所は……
(ファンファーレの音)
五: インターネット掲示板です!
堂: な、なんですって!じゃあ、今の僕たちは……。
五: そうです。実体のない、いわば電子状の存在とでもいいましょうか。
堂: すごい! 短歌行にもついに技術の革命が!
五: やりましたね。
堂: では、いつものように場所解説を聞きましょうか。博士、インターネット掲示板の説明を。
五: この掲示板はかわいい猫のキャラクターが特徴ですね。書き込みに「ニコニコ」、「ワクワク」、「キョロキョロ」など十数種類の表情を添えてくれるようになっているんです。私は「シクシク」でいきますよ。ファミレスでできなくて実は悲しいですからね。はい、クリック。
堂: わあほんとうだ。猫が涙を流しています。じゃあ僕も「シクシク」で。
五: シクシク。
堂: シクシク。
五: というわけで、エレクトリシティーのとめどない煌めきの中からお届けする今回の短歌行は……
堂: 「俺たち早稲田短歌会!!」です!
五: おおっ!
堂: 私も五島さんも早稲田短歌会出身です。そこで今回は早稲田短歌会から生まれた数々の名歌をご紹介しよう、というわけです。
五: とは言っても、早稲田短歌会には長い長い歴史がありますから、そのすべてを網羅するのは大変です。
堂: そうです。ですから、我々が在籍していた時代に生まれた、あまり知られてはいないけれども注目すべき歌たちを、少しご披露しましょう。
五: なにしろ、当時の早稲田短歌会は人材の宝庫でしたからね。これを我々だけで楽しんでいるのはもったいない。ぜひ皆さんにお伝えしたいです。
堂: 僕が入ったとき、色んな人がいたなあ……。僕と五島さんは3学年違いだったんですが、キャラクターが独特な人ばかりで、初めびびりました。
五: びびったんだ。
堂: びびりました。
五: しかし、皆いい歌作ってましたね。歌会やってて楽しかった。
堂: それはほんとそうですね。なんか歌会ばっかりやってましたね。
五: 週一で歌会やって、そのほかに勉強会も週一でやってましたよね。人間関係が煮詰まっていく感覚は、学生独特のものでしょうね。
堂: しょっちゅうファミレスで喋ってましたしね。短歌行もある意味その延長にありますよね。
五: はい。夏目坂のデニーズがなくなったときは本当に悲しかった。自分の身体の一部が切り取られたみたいでした。思い出の場所です。そういう意味では、ファミレスというのも、私にとっては大切な場所なのであって、取り替えがきかないものなんですよ。
堂: あそこよくいきましたねー。僕も悲しかった。今日はファミレスからお送りできないのが、なんだか残念になってきましたが、そろそろ始めましょうか。
五: はい。では第一弾。秋元裕一作品から見ていきましょう。
- 長い間どうもありがとうこれからもどうかよろしく >format c: 秋元裕一
これは堂園くんが入学する一年くらい前の作品です。どうですか? いいでしょう、これ。
堂: 独特な寂しさがありますね。秋元作品は平易な表現と、一筋縄ではいかない叙情に特徴がありますね。
五: そうなんですよね。この寂しさの感じは、音楽でいうと the pillows あたりが近い気がします。
堂: うん、なんとなくわかる。
五: この歌は、パソコンのCドライブ、つまりメイン領域を初期化する場面ですね。「>format c:」はそのコマンドです。
堂: なるほど。普通、「長い間どうもありがとうこれからもどうかよろしく」という言葉のあとに、関係を消してしまう初期化は行わないですよね。
五: そこですね。まず今までの関係性に対して、「長い間どうもありがとう」、それからこれから始まる新しい関係性に対して「これからもどうぞよろしく」って言っているわけですね。初期化すると、今までのパソコンとの関係はすべて消えてしまうんだけど、パソコン自体は変わらない。それなのにその前後で関係性は全く違ったものになる。人間だとこうはいきません。記憶は消せない。
堂: そうですね。人間同士の関係性は通常、連綿と続くものですからね。関係性がスッパリ変ったりはしないです。
五: はい。
堂: しかし、この歌はパソコンに対して声をかけているわけですから、擬人的にパソコンを見ているわけですよね。そこが面白いし、さらに言えば、主体と誰かの関係も暗示していますよね。
五: つまりパソコンのパソコン性と人間性とを二重写しにしている。ロボット関連の表現作品(あまり詳しくないのでこの括りで勘弁してください)なんかでもありますよね。
堂: ロボットと人間の対比は流行りました。
五: パソコンって使っていると、データが消えてしまうんじゃないかっていう不安が、常にどっかにあるような気がしませんか? そのあたりの不安感や心もとなさと、すべて消えてしまうという潔さ、清潔な感じが入り混じっている感じがするんですよね。そこに独特の寂しさが生まれる。同じ連作には、
- 花びらが入ってくるまでこのままのカッコで口を開けてるつもり
- どうしてもおかしくなってしまうならおかしくなってしまえばいいよ。
- することがなにもないので美容院にあなたの匂いをまといにいった
といった作品があります。
堂: どの歌も優しいですね。優しさがねじくれてしまって、寂しさになっていますね。
五: そんな感じしますよね。一連のタイトルは「>format c:」なんですけど、そうすると二首目「どうしても…」あたりもパソコンと人間とを二重写しにしているのかもしれない。この歌、なんだかすごーく懐かしいような切ないような気持ちにさせるんだよなあ。
堂: 最後の「。」とかもすごく心をくすぐります。三首目「することが…」も、行為としては情けないけれども、切なさがある。こうした、心を揺り動かす原因はなんでしょうね?
五: 一つには、記憶とか気配とかの機微に非常に敏感だということがあるような気がします。
堂: なるほど、言えてますね。
五: パソコンは素材としてはありふれているけれど、これほど繊細に扱える人はなかなかいないと思いますね。『早稲田短歌34号』に載った、
- 消えかけた絵馬を読もうと触れたとき置いて行かれたことに気付いた
なども記憶にまつわる機微ですね。
堂: 「消えかけた絵馬」というかつてあった記憶を、「読もうと触れる」。ここに繊細な機微が強く出ている。とくに、「触れる」です。しかも、そののち「置いて行かれたこと」に、気付く。「気付いた」ことにも繊細な敏感さがとても表されていますね。
五: ですね。
堂: 「気付いた」ときのハッとした感情まで読み手に感じさせて、これもいい歌です。
五: 絵馬に手を触れるポーズのまま気付いているところがいい。
堂: しかも、表現がポップですよね。さっきの「花びらが…」もそうだけど、じめじめしていたり、重々しくなったり、えらそうになろうとしない。これもかなりすごいことです。
五: 文体はさらっとしているんですよね。
堂: でも、感覚の繊細さが際立っているので、ポップさ、平明さが、けして陳腐さに堕していかないんですよね。文体としても、平易だから一見練られたように見えないかもしれないけど、実はかなり繊細さが満ちている。
五: 「そのままのカッコ」の「カッコ」とかもいいよね。それからちょっと話に出ていたかもしれないけれど、作中主体の親しみやすさがポップさに繋がっていそうですね。
堂: そうですね。短歌の作中主体の性格は親しみにくいことが多いけれども、秋元作品は非常に親しみやすい。「することが…」もナルシシズムがないわけじゃないけど、まったく嫌な感じがしない。理由はさきほど述べたように、繊細さ、敏感さが感じられるからだと思いますが、この人とは友達になれそう、と思わせるような素敵さがある。
五: そうそう。たとえば学識とか独白の内容を過激にすることによってオリジナルな主体を出そうとしない。「おかしくなってしまえばいいよ。」というのも、こういう考え自体は珍しくないんだけど、ふっと親近感が湧くんですね。
堂: 作品の強度を保つやり方が、従来の多くの短歌が採用している方法とは別の方法が取られている。秋元作品を読んでいると、口語短歌の可能性を感じますよね。
五: ではそろそろ次に。次は山崎聡子さんの
- 動物記の裏表紙なる「いさましいジャックウサギ」が浴びる夕焼け
です。この歌、文句なく名歌だと思います。
堂: いやー、名歌ですね。堂々とした姿といい、着想の広がりといい、まさに名歌というに相応しい。秀歌、ではなく名歌です。ではまず、解釈してみましょうか。
五: はい。「動物記」は『シートン動物記』ですね。「いさましいジャックウサギ」はその中の一篇のタイトルでしょうか。
堂: その一冊の裏表紙に挿絵が描かれているんですね。
五: 夕焼けを浴びて立っているジャックウサギの挿絵です。なんという光景でしょう。この歌をはじめて歌会で見たときは、戦慄すら覚えたものです。
堂: あ、僕は「いさましいジャックウサギ」という挿絵に、実際に夕陽がかかっているのかと思っていた。そのほうが、目の前の現実にまで景が広がっていく感じがして。でも、どっちでもいいか。
五: うん。それも考えたけど、なんとなく挿絵でとりたかった。この歌の場合一番重要なのは語感だから、どっちでもいいと思うけど。「裏表紙」とあることから、本棚にあるのではなくて床かどっかに横倒しになっていることが分かりますね。その佇まいがとってもいいんです。
堂: そうですね。横倒しであること、かなり重要ですね。なんでだろう、やっぱり一つ、ということが分かるからかな。本棚にあるとたくさんの本に紛れてしまうけれど、床に落ちていると一冊、と存在が際立つ。なにか孤高の感触もあるね。
五: そうそう。その孤高さが、「いさましいジャックウサギ」のかっこよさに合っているんですね。
堂: ですね。あと、「ジャックウサギ」なのもいいよね。
五: オオカミとかトラじゃだめだね。「ジャックウサギ」に「いさましい」という形容詞をかぶせた瞬間に孤高度が飛躍的に上がる。それに、「動物記」という選択も実に渋い。
堂: 渋いですね。子供が読む本としてはクラッシクな本で、ある程度厚みがあって……。
五: その質感がね。
堂: すぐに分かる。字が大きいこととか、絵がちょっと古くさくて味があることとか、そういうことも瞬時に分かる。それがいいし、内容に合っている。
五: そうした本の性質がどこかノスタルジックな部分をくすぐるよね。
堂: 僕、実は『シートン動物記』を読んだことないんですけど、それでもこれだけで分かって、くすぐられたものなあ。
五: 私は『シートン動物記』、愛読したほうで、「いさましいジャックウサギ」というタイトルだったか忘れたけど、かっこいいウサギが出てくる話があったのを覚えています。でも読んでなくても心に響く歌なんですね。
堂: そうですね。そこはすごいよね。やはり、この表現の持っている感じみたいなのが、単に個人的なものから脱してるからでしょうね。
五: うん。あと、言葉つきでは「裏表紙なる」の「なる」とかかっこいいですよね。
堂: かっこいいですね。ここでちょっと締まった感じを受ける。
五: うーん、名歌だなあ!
堂: といったところで五島さん、次はどんな歌を紹介してくれるんですか?
五: 次は長歌です。ちょっと長いですよ。早稲田短歌30号、「空間」と名づけられた一連に登場します。
長歌Ⅰ「古代」
はにわ 土偶の
昔には 目にうつる
全てのものが 空白の
ネイムプレート 万象に
人々は 名前をつけた
名前というのは 即ち詩だ
古代の人の 生きた血だ
現代 二十世紀の 末には
すでに あらゆるものに
名があって 見上げれば
空という名の 青くて
広い 空間に
太陽という 球体がある
反歌
見上げればただ青だけの空間にバベルの塔を立てたくなった 石井輝馬
堂: きましたねー、長歌。繊細な秋元作品や凛とした山崎作品とは、また違った雰囲気がありますが、まずちょっと解説をしてくれません?
五: 作者の石井さんは早稲田短歌の2年先輩。ギターをかき鳴らしながら「カントリー・ロード」を歌っていたのを覚えています。ちなみに秋元くんと山崎さんは僕の同級生です。
堂: では歌の解説を。
五: はいはい。この長歌、簡潔に言えば、人々が万物に名前をつけていった古代への憧憬を詠っています。そのテーマだけでも僕には十分面白いです。なんというか、文系男子学生のもっとも良質なロマンがある。
堂: なるほど。そういえば、行間からワクワクとした気持が伝わってきますね。
五: でしょう。
堂: しかし、「はにわ 土偶の 昔には」って始まり、面白いですね。
五: 出だしのそのフレーズがすでにすごいですよね。「はにわ 土偶の 昔には」って、はにわと土偶は時代が違うのに一緒くたに捉えているのが笑えます。本気なんだけど、ちょっとずれている。タイトルが「古代Ⅰ」なのでちょっと本格的・学術的な叙事詩みたいなものを想像するんですけど、最初のフレーズでいきなりその線は消えます。後に残るのは純化されたロマンだけ。それに、3・4・5のリズムがいいですね。
堂: そうですね。このリズムと、そしてこのちょっと笑える始まりかたが親しみやすさにつながってますね。テーマは壮大なんだけど、一人の青年の健やかさみたいなものが溢れてます。
五: そんな第一連から調子が一転するのが第二連です。「~だ」という断定にのせて高らかに詠嘆している。ここでテンションが最高潮に達するわけです。
堂: 「生きた血だ」がすごいです。
五: すごいよね。
堂: 名前が詩だ、という発想はわりかしあるかもしれないけど、「生きた血だ」でイメージが広がりますね。
五: 「詩だ」と「血だ」で韻をふんでいるようなところも見逃せません。
堂: で、第三連に続くわけですね。第三連の見所は。
五: 万物に名前をつけていく、という精神の根源のような行為を失った現代が描かれています。第二連で盛り上がった気分が第三連でちょっと沈んでセンチメンタルなところを垣間見せている。そのへんの呼吸が絶妙です。
堂: しかし、そこには太陽という球体があるんだ。青い空の中のたったひとつの太陽、という太陽のイメージが強く残る終り方ですね。
五: はい。ちょっとだけセンチメンタルな気分も空と太陽に吸い込まれていくような、そんな終わり方です。反歌についてコメントはありますか?
堂: 僕はこの返歌にも青年らしさが溢れていると思いました。バベルの塔、といえば愚かしさの象徴であり、いずれ崩されるものですが、それを広々とした明るい、でもどこか空虚な空間に立てたくなる、というのは青年の気持だと思います。
五: 青年らしさ、わかります。「立てたくなった」というさらっとした言い方の中に、青年期のある種の断念からくるペーソスが感じられます。一連にはほかに、
- 真夜中にPlayStationスコールとリノアの恋に救われている
という歌もあります。見開き1ページを使って、この歌だけを3回登場させています。
堂: その歌もなんかすごいですね。「スコールとリノア」というのは「ファイナルファンタジー8」のキャラクターで、まあ要するにゲームのキャラクターですね。ゲームキャラクターのステレオタイプの恋に真夜中に救われる、というのは目の前のどうにもならない現実から救われたいけれどそれが叶わない気持が強く出ています。
五: うん。でも「救われている」と書くからには、やはり本当に少し救われているんですよね。そして「救われている」と書ける作者像に非常にナイーヴなものを感じます。ここにも文系的なロマンとペーソスの最良の部分が顔を出しているような気がするんです。
堂: ふむ。「やはり本当に少し救われている」、分かります。そこらへんの機微が読みどころなんでしょうね。ニヒリズムの中のかすかなロマンティシズム、というか。いま、30号を見返してみたんですが、本当に見開きにおんなじ歌が、3つ並んでいる。これはちょっとウッときますね。なんか、内容に対して「おいおいそれはちょっと……」とツッコミを入れそうになって、やっぱりやめとこう、となる。なんか、この主体がナイーブすぎて手が引っ込んでしまう(笑)。
五: 確かにそう言うことはできると思うんです。この歌もまたさっきの長歌と同じ心から生まれている作品だということを強く感じて、だから僕は二つ同時に紹介したかったんです。
堂: それはほんとにそうですね。同じ心が書いている。そう思うと、ちょっと胸を打つ、というか、はかないものを見ているような気持になります。でも、この感じは僕にはストライクではないかなー。五島さんといま話してて思ったけど。
五: 私はこの作品があることが石井さんの場合にはむしろ総体として完成度を高めるほうに作用していると思います。この二作だけだとちょっとごり押しもできませんが。といったところで、「俺たち早稲田短歌会」の第一回、そろそろ締めましょうか。
堂: そうですね。そろそろ締めましょう。ふー、しかし、電子の海に漂うのも疲れますね。
五: 終わったしウィスキーでもいただきましょう、っていう感じでもないしね。キーボードの音だけが友達です。
堂: そうですね。さびしーなー。そういえば、五島さん、冒頭でタイピングソフトでブラインドタッチを練習したと言ってましたが、どんなタイピングソフトを使ったんですか?
五: キティちゃんのタイピングソフトです。おかげでかなり上達したんですよ。
堂: キティちゃん!? なんですか、それ。あいかわらずキャラに合わないことするなー。ちなみに僕は北斗の拳のタイピングソフトです。
五: 私のキティちゃんを侮辱しましたね。キティアタックの錆にしてあげましょうか。
堂: じゃあ僕は北斗百烈拳で応戦しましょう。
五: では、とりあえず締めて、それから勝負ですね。
堂: 望むところです。
五: では、お疲れ様です。
堂: お疲れです。
