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2009年5月

2009年5月31日 (日)

山中智恵子の歌を読む

石巣(いわす)より石巣にとびて鳥首(とりくび)の重かりきわが狂心(たぶ)るる自由   山中智恵子  『みずかありなむ』

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: ごきげんよう。短歌行です。今日は戸塚のデニーズにいます。2回目ですね。戸塚はどんな町でしたっけ、五島さん。

五: 戸塚といえば「神奈川の魔境」ですよね。

堂: 前回より混沌度が上っている!

五: 徐々に進化するようになっているんです。前回は着工したばかりだったモールも完成しつつありますしね。

堂: はあそうなんですか。底知れないですね、戸塚。それにしても今日は寒いですねえ。もう五月だというのに。

五: そうですねえ。堂園くんの胃腸も弱る一方です。

堂: 僕は、『ちびまる子ちゃん』の山根くんと勝負できるくらい、胃腸が弱いですからね! 一日徹夜するだけで本当に使い物にならなくなるからね!

五: 自信まんまんだね。

堂: 挑戦者募集中です。

五: といったところで、そろそろ始めましょうか。今日は名歌鑑賞です。

堂: おっ、人気企画ですね。

五: そして、今回は満を持して、山中智恵子でいきたいと思います。

堂: おおっ。山中といえば、五島さんイチオシの!

五: そうです。このブログのタイトル「短歌行」も山中智恵子の第六歌集から取っているんです。もちろん、中国の楽府詩の形式でもあるわけですが。

堂: いま明かされる「短歌行」のタイトルの秘密! みなさん、曹操の「短歌行」とばかり思っていたでしょう? しかし、山中の歌集のタイトルはどれもかっこいいですね。『短歌行』『紡錘』『みずかありなむ』『星肆』。

五: 装丁もすばらしいですよ。この『短歌行』の装丁を見てくれよ。この紺色の美しいこと。

堂: ほんとにいいですね。こういう歌集を作りたいなあ。

五: 思うよね。本自体に帯やカバーがついていないのもいい。あれ結構邪魔じゃないですか? 私はいつも読むときカバーも帯も取っちゃいます。帯なんて、すぐくしゃくしゃになってしまうし、いいことないですよ。

堂: まったくね。じゃあそろそろ今日の歌の紹介を。

五: 今日は山中の第三歌集『みずかありなむ』から。

  • 石巣(いわす)より石巣にとびて鳥首(とりくび)の重かりきわが狂心(たぶ)るる自由

を取り上げたいと思います。

堂: はい。いやー、わくわくしますね。山中はずっとやりたかったですからね。さて、始めましょう。さっそくですが、五島さんはこの歌のどんなところが好きですか?

五: どんなところっていわれると、難しいなあ。

堂: うーん、なんていうか、読んだときの感覚というか、気持ちというか・・・・・・。

五: そうだな、世界が一気に開かれるような爽快感がありますね。言っていることはかなりシュールで怖いんですけど、不思議とそういう感じは持たない。

堂: あー、なるほど。僕は今日初めてこの歌を読んだんですけど、よく分かりますね。爽快感、たしかにあるなあ。

五: だよね。

堂: あと、「狂心るる」なのに怖くないのもすごいね。なんていうか、歌の姿がものすごくきりっとしているせいか、怖さとかシュールさには目が向かない感じ。

五: 少なくともシュールさや怖さを狙った歌ではないと思いますね。

堂: そうですね。

五: で、この歌の修辞の中心は「鳥」から「われ」への移行にありますね。キーになっているのは三句目「重かりき」です。純粋に鳥を描写しているんだったら、首の重さを感じるはずはないんですね。そこから一気に下句「わが狂心るる自由」へドライブしていく、その官能に強い魅力が宿っているように感じます。

堂: なるほど。ドライブの官能、面白いですね。しかし、どうして「重かりき」を基点として移行できるんだろう。

五: なんでだろうね。

堂: 一般的なところからいうと、やはり身体感覚みたいなことは言えますよね。鳥の首の重さが、「重かりき」で自分の感じているように語られる、ぐっと自分に引き付けられるから、単に対象でしかなかったものに自分の感覚が重ねられる。そうした働きがこの「重かりき」にはあると思います。

五: そうですね。身体感覚。それと同時にこのモチーフは非常に観念的でもあります。この歌の入った連作「会明」の中には他に、

  • きみはわが頭脳のほのほ 夏鳥の羽ふぶき啼く杉群も炎ゆ

という歌もあって、つまり「鳥」は「わが頭脳」の中の風景でもあるんですね。

堂: ああー。かなり観念的なところもある「鳥」なんですね。

五: 観念的だからこそ、「鳥首」という言葉でクローズアップされた鳥の頭が「重かりき」を媒介にして「われ」の頭脳とか頭蓋へと移行できるんでしょうね。「狂心るる」は、歌の中には直接書かれていないその頭脳のイメージから導かれるのだと感じます。

堂: つまり、「具体から抽象に移っていく」というよりも、抽象へ行くための素地が元からあるんですね。観念から観念へ飛翔する感覚だ。

五: 「石巣より石巣に」という部分からは、私は、切り立った崖から崖へ飛ぶ鳥をイメージするんですけど・・・・・・。

堂: そんな感じだと思います。

五: そうだとすると実景としても、かなり観念的な要素が強いですよね。イワツバメのような鳥をイメージしたとしても、切り立った崖のイメージは、何かしら激しいものが込められている。

堂: うーん。たしかに、「わが狂心るる自由」なんていう、ものすごいフレーズは簡単につなげられるようなフレーズではないですからね。

五: だよね。あと、「鳥首」の「首」というイメージも非常に重要で、なんていうか、「首」は頭につながっていますけど、頭が狂うみたいなイメージが潜在的にある。

堂: おおー、なるほど。

五: また、「石巣より石巣にとびて」も、とても危険なものを想起させますしね。

堂: 上句ですでに、緊張がびんびんにあるんですね。それでこその下句なのか。そもそも、「石巣より石巣にとびて」という始まり自体すごいよね。

五: いきなりスピードMax。ジェットコースターに乗っているようなものだ。山中はイメージの出足が速いのが特徴で、普通ならもっと地道な、たとえば身辺から歌い始めて、おかしなところにちょっと触れてそれで終わり。なのに、山中の場合は最初から尋常ならざる場所にいるから、到達できるところが非常に遠いところまで行けるというか・・・・・・。

堂: 開けるというかね。

五: このイメージの速さみたいなものについて行けないときは、山中はなかなか読めないね。

堂: だから、「難解」とよく言われるんですね。

五: 『みずかありなむ』の中では「鳥髪」の一連が有名だしすごい歌が多いんですね、それに匹敵するくらいよく引かれるのが、この歌、

  • 三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや

ですが、堂園くん、この歌はどうですか?

堂: うーん・・・・・・、たしかによく引かれる、有名な歌ですけど、

  • 石巣より石巣にとびて鳥首の重かりきわが狂心るる自由

より広がる感覚がないかなあ。素直に読むと。

五: そうだよねえ。私もあんまりこの歌がいいとは思えないんだよなあ。なんというか抽象的な普遍性へ到達する、「抜け」の感覚が少ない。なんでこの歌が評価されるんだろう?

堂: 「抜け」ね。分かるなー。たぶん、この歌は分かりやすいんじゃないかなあ。

五: どういうところが?

堂: そうだねえ。他の山中の歌に比べて、メッセージというか、内容があるよね。つまり、この歌は「三輪山の背後から月が昇っているけど、月って不思議だよなあ、そもそも月って呼び始めたのは誰なんだろう」という歌ですよね。もちろん、「三輪山」の「古事記」に出てくる伝承とか、あるいは月の照っている山の光景の神秘とか、イメージの広がりはあるけど、でも結局は「月って誰が呼び始めたんだろう」というメッセージが眼目になる。あるいは、それが前面に出る。

五: なるほど。

堂: そうした、メッセージを言語的に抽出できる分かりやすさが、たくさんの引用を招くのではないかな。

五: この歌がちょっと閉じている感じがするのは、良さがある程度簡単に説明できてしまう、すぐパラフレーズできてしまう、というところにあるのかも知れませんね。僕の思う山中の良さとはちょっと違う。最近僕が好きなのは『星肆』のこの歌、

  • 明日といへば余生の一日(ひとひ)きみあらば百歌(ひゃくか)のあらむ余生の一日

です。『星肆』は第八歌集。ご主人を亡くされたあとの歌集ですね。

堂: 「明日といへば余生の一日きみあらば百歌のあらむ余生の一日」・・・・・・。うん、これはすごくいい歌だとおもいます。広がるし、気持ちは強いし。

五: いいでしょう?

堂: なんていうか、歌に対する愛と、夫に対する愛が同じくらい強く感じられる歌ですよね。

五: うん。この歌は「(愛する君が亡くなってしまったから)明日はもう『余生』の一日なんだ。もし、君がいたなら百首の歌があるくらい素晴らしいはずの一日なのに、『余生』の一日なんだ」という意味だからね。

堂: 「百歌のあらむ」が「素晴らしい」につながるところが驚異ですよね。ここまで愛されたら、歌のほうも幸せだね。

五: 二句目と結句のリフレインは、たとえば日本書紀に

  • ぬば玉の甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒

とあるように、古くからある手法なんだけど、その韻律をすごく生かしていると思いますね。「百歌のあらむ」には感動しますね。塾の授業前に読んでたから生徒に笑われてしまった。「先生、目が赤いよ」って。

堂: 感動するよなあ。山中智恵子は、「歌」が本当に好きな感じがするよ。いや、「好き」は違うな。ちょっと安っぽい。そうじゃなくて、「山中は歌だなー」と力を込めて言う感じかな。

五: 山中はなんかもう「歌」に作らされている気がするよ。

堂: それがすごいことだし、素晴らしいですね。ほんとに芸術家だなあと思う。山中は。

五: そうだね。

堂: あんまりこういう印象を他の歌人に抱かないね。たとえば、岡井(隆)さんなんかは芸術家というより、「詩人」て感じだな。僕は。

五: ふーん。

堂: 塚本(邦雄)は「文学者」ね。

五: なんとなく分かるなあ。山中は自らを歌の中に消すことができるというか、歌と一体化して舞っているような感じがあるからね。官能に身をゆだねることができるというか。

堂: そうだね。ジャンルに一体化してる、という感じだね。

五: そうした人の作品は、なにか連れて行ってくれる感覚があるよね。

堂: そうなんだよ。よく分からないところに連れて行ってくれる。「作者が見たもの」とか「作者と対象物」という対立とかでは、どんどんなくなっていく。「詩人」はもっと「言葉を扱う人」という主体が強いなあ。もちろん、良し悪しではなくて、違いだけどね。

五: そうだね。岡井さんの歌は、特に最近のはすごく好きだけど、岡井さんの歌の世界の中に佇んでみたいとは思わない。それに対して山中の歌は、その世界に連れて行ってくれるだけではなくて、読者がその中にしばらく佇むことができるのね。その世界は観念の世界なんだけど、そこで呼吸して、伸びをしたり、寝転んだり、泣いたりできる感じがするのね。

堂: うん。それが「抜け」だよね。

五: そうそう。多くの短歌は、歌われた世界に作者一人の席しか用意されていない。歌を読む僕ら読者は、その歌の光景に感心したり、感動したりはできるけど、普通、一緒に参加はできない。

堂: つまり、スクリーンに映される映像として、歌の中の世界を味わうしかない。でも、「抜け」ると、広い世界が広がっていて、そこに読者も参加できるんだ。

五: その「抜け」た世界の成分は何なんだろうね。観念的っていうのが大事な気がするけど。

堂: そうだね。観念的というか、ある種の普遍性の世界だよね。

五: 普遍性っていうのは?

堂: 表現されたものが古びない世界っていうか。最近出た高橋源一郎の『大人にはわからない日本文学史』という本で書かれていた論理を利用するけど、たとえば、「サザンオールスターズの歌を聴いて感動した」っていうことがあったとして、そのことを言うときに、「サザンオールスターズに感動した」という事実は古びる。しかし、「歌に感動した」という感情は古びない。

五: 「抜け」た先の世界っていうのは、そうした古びないことやものの世界ということか。

堂: 「古びない」が普遍性ということだね。

五: 「発見の歌」なんていう言葉があるように、「発見」による世界の更新に価値を見出す考え方も分かるけど、「発見」だけだと古びてしまう可能性がある。しばらくするとそれが常態化してしまう。だから、「発見」が最重要っていうわけではない。

堂: 小さな更新をどれだけたくさん積んでも、普遍性にアクセスできなければ古びてしまう。小さな差異の世界に留まってしまう。つまり、どう違うかばかりが目立ってしまう。そうじゃなくて、差異を起点として、より大きな世界にたどり着いて、そこで呼吸できるようにしなければね。

五: たどり着いただけでなくて、呼吸までする。読者の居る場所を作る、というのが大切で。観念性というか普遍性への回路はいろいろあると思うけれど、大抵の歌は観念に触れたあと、帰ってきてしまうんだよなあ。

堂: そうそう。観念のことを言うんだけど、それが現実に従属しているんだよ。現実の事象、たとえば、「私の人生がつらい」とか「もっと私を見て」とか言いたいがために、観念を使う。

五: 意味づけの問題があるね。そのときに「使われる」ときの観念って必ず矮小化されてるでしょ。「死」とか「愛」とかそういう風に。これって観念っていうより概念なんだよね。だけど、山中の場合は観念自体が自律しているよね。パラフレーズできないでしょ。

堂: うん。「私の人生がつらい」と言いたいために観念を使うと、どうしても矮小化されてしまいますよね。

五: あと、逆のパターンもあるよね。「愛」とか「死」とか一般的な概念に向って差異を使うパターン。

堂: ああ、あるね。概念のために現実を従属させるパターンだ。

五: 差異に、「それはつまり○○だ」と概念を当てはめてしまうと、差異自体が持っていたはずの様々な要素がぜんぶ捨象されてしまってきらめきが失せるんだよ。

堂: そうだなあ。

五: だから、「愛」や「死」と言葉にできてしまうものを目的にするのも問題なんだよね。こちらも矮小化されているのには違いないんだから。しかも、「私の人生がつらい」とか「もっと私を見て」よりも陳腐さが見えにくいから、より罪が重いよ。

堂: そうすると、やはり山中の凄さは自律した観念世界を作ったことですね。現実と観念はどちらがどちらかを従属させるような陳腐な関係にはないはずだからね。

五: 現実の差異を見ることで「抜け」ることはできるはずだからね。それからもう一つ、パラフレーズ不能という意味で、観念の世界っていうのは非常に現実的な世界なんであって、観念の中では観念こそが現実なんだよね。読者にとってもそうだし、山中にとってもそうなんだと思う。だから、観念と現実の区別は究極的には重要ではないんですよ。

堂: うん。とてもよく分かります。というところでそろそろ締めますか。

五: そうだね。

堂: 五島さん、今日はいかがでしたか?

五: 疲れたけど、楽しかったね。山中智恵子だったからなあ。どんどんテンションが上ったよ。堂園くんの胃腸は?

堂: 僕の胃腸も山中智恵子だったせいか、どんどんテンションが上ったね。

五: それはよかったね。さっき途中でしょうが焼き定食食ってたもんなあ。

堂: 胃弱には山中を読もう。といったところで帰りますか。

五: そうしましょう。戸塚の魔境を通って帰りましょう。

堂: 次に来るときには、さらに複雑になっているといいですね、戸塚。

五: そうだね。二度と帰れないくらいにね。

堂: では、おつかれさまです。

五: おつかれです。

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プロフィール

  • 五島諭 1981年生まれ。「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。
    堂園昌彦 1983年生まれ。「コスモス」「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。

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