「町」を読む
堂: こんにちは。
五: こんにちは。
堂: みなさんこんにちは。短歌行です。今日は鎌倉に来ています。
五: 短歌行では、2回目だけど、あいかわらず素晴らしい町ですね。鎌倉。のどかで。
堂: ほら、道行く人々の表情を見てくださいよ、五島さん。きつい表情をした人が一人もいないよ。
五: どれどれ、ああほんとうだ。いいね。なんかバイクの音までやさしい気がするね。
堂: 夏の始まりの日曜日だからね。みんな海に行くんでしょう。そりゃ、バイクの音もやさしくなるよ。
五: うーん、いいなあ、鎌倉。というわけで、前回と同じく鎌倉のフレッシュネスバーガーのテラス席からお送りしています。今回の短歌行、今日のテーマはなんですか? 堂園くん。
堂: 今日のテーマはこれです!(バッ)
五: おっ! その光り輝く緑色の短歌同人誌は……
堂: そうです! 今回は発刊されたばかりのこの短歌同人誌「町」を取り上げたいと思います。
五: はい。ではまずこの同人誌の説明を。
堂: 「町」は、早稲田短歌会と京大短歌会の有志6人が作った同人誌です。メンバーは、平岡直子さん、望月裕二郎さん、吉岡太朗さん、瀬戸夏子さん、土岐友浩さん、服部真里子さんの6人。みな20代の若者たちです。
五: はい、同人誌としてはそんな感じですね。堂園くんは全体的にどうでしたか?
堂: や、とても面白かったです。とんがってんなー、というのが第一感想ですね。五島さんは?
五: 6人の言葉の質がそれぞれ違っていて、バラエティーに富んでいますね。すごく面白かったですよ。
堂: そうだね。読んでいてワクワクする同人誌でした。「町」というタイトルもいいね。
五: 表紙がビビットな緑で、その裏が補色関係の赤というのも、とんがった感じがしますね。
堂: このビビットさで「町」だからね。とんがってるよ。これで「牧羊神」とかだとベタだけど。
五: うん。
堂: 宣言文とか巻頭言とか一切ないのもとんがりだよなー。
五: では内容に入りましょう。まずは瀬戸夏子さんの「すべてが可能なわたしの家で」を読みます。まずこの作品が短歌として(?)提出されているということに驚きます。
堂: なにしろ詩にしか見えないものが20ページも続いていますからね。
五: で、ここには仕掛けがあるんですよね、僕は最初気がつきませんでしたけれども。
堂: そうなんです。実は太字のところをつなげて読むと、五七五七七になってるんです。たとえば初めのところの太字をつなげると、「でもまだだ急に恐竜な食事は頬から、頬が笑い入浴」となります。
五: たしかに五七五七七だ。でも歌意を取るのはなかなか難しそうですね。
堂: 明確な歌意があるのかなあ? そこのところは僕にはちょっとわかりませんが、そうですね、思いついたことを順番に言っていきたいと思います。
五: はい、どうぞ。
堂: まず、この作品は流れ出る言葉の洪水みたいで、とてもたくさんの語彙が使われています。次から次へとイメージがくるくる変化していく。それにまず目を奪われます。
五: そうだね。ほんといろんな言葉が出てくるね。
堂: うん。一文一文、フレーズフレーズは意味が通るようになっているけど、隣のフレーズとは直線的にはつながらないよね。その飛躍に面白みがあって、読者はぽんぽんぽんぽん、ずっと飛び石を飛んでいる気持ちになる。そういう楽しさがあるね。
五: うん、わかります。
堂: とても多彩な言葉たちです。でも、さらに注目したいのは、ここで使われているたくさんの言葉の質が実はどれも一緒ということです。
五: あー、わかります。どの言葉も、なんというか同じ色をしている。「コインランドリー」も「日本人」も「小池光」も同じ言葉に見える。
堂: そのことに、なんというかびびりますね。
五: それは作者性がある、ということですね。
堂: そうですね。
五: そしてその、言葉の色が一緒、ということを利用して、私が不遜にもこの作品の要約をしてみます。
堂: おっ、そいつはすごいね。ぜひ。
五: 「すべてが可能なわたしたちの家で朝が昼と夜へダイヤモンドの橋を渡す これが標準のサイズ」。こんな感じでしょうか。
堂: ほー。
五: もちろん、20ページもの作品をこんなに短くしてしまったらいろんなものが抜け落ちてしまうのは避けられないけど、ここから言えることもあると思う。
堂: どういう手順で要約したんですか?
五: 一連で二度使われている「すべてが可能なわたしたちの家で これが標準のサイズ」という部分は外せないと思うんです。これがこの作品の核になっているような気がする。
堂: なるほど。タイトルにもなっているし、最初と、それから最後の連にも出てきますからね。
五: そこに最後の二行を挟んだのは、ここが特に重要だから、という意味ではありません。「すべてが可能なわたしたちの家で これが標準のサイズ」以外のフレーズ全体を最後の二行に代表させてみた、ということです。
堂: 代表させてみた、なるほど。つまり、この二行のヴァリエーションとして、他の詩句がある、という解釈ですね。
五: はい。「わたしたちの家」という舞台でいろいろなものが渦巻くのだけれど、それが「標準のサイズ」だよ、という。そうするとすっきりするから「いろいろ」の内容を考えやすくなると思うんです。
堂: ふむ。いろいろとはしょりましたけど、ひとつの読み解き方としては面白いですね。
五: うん。絶対これしかない、と主張する気はないけど、作品が読みやすくなるといいかな、と思って。
堂: なるほど、なるほど。
五: で、そのいろいろの質ですけど……。
堂: じゃあ、とりあえず、特徴のある言葉をあげてみましょうか。
五: そうだね。
堂: 五島さん、なにかあります?
五: えーと、まず、肉体的語彙がよく出てくるよね。「歯型」とか「桃色の歯ぐき」とか。そして、それが、またグロテスクな形で出てくる。「犬の断面」や「猫の首を切る」とかもありました。
堂: あと、なんていうか、現代日本のコンビニ的なものもよく出てくる。「volvicのフルーツキス」とか「トイレットペーパー」とか「バスマジックリン」とか。軽くて、画一的なイメージ。
五: うん。それと、きらきらしたものもたくさんある。「シャンデリア」、「ダイヤモンド」、「ステンドグラス」。
堂: 「地獄」とか「国境」とか「日本人」とか重い言葉もよく出てくるんだけど、「炭酸たっぷりの国境」みたいにコンビニ的語彙と一緒に使われているから、薄っぺらくされてしまう。
五: そしてきらきら語彙によって輝かされてしまう。
堂: だから、現代詩手帖7月号で黒瀬珂瀾さんがこの作品について言っていたことば、「規範の破壊」っていうのも正しいのかも知れません。
五: そうですね、あの文章は紙幅の制約もあってかなり抽象度の高いものでしたが。それから、肉体的語彙のグロテスクさも、きらきら語彙とぶつかることによってシュールな部分を残しながらもやはり輝いていく。
堂: 緑と赤の補色関係に似ていますね。
五: それが作品のエネルギーを生み出している。渦巻状に。
堂: なんか、このきらきらする感じとエネルギーが生まれる感じには見覚えがあって、ひとつは、やはり穂村弘から「かばん」を経由して結実した方法論。具体的に一人挙げると我妻俊樹さんとの親和性は非常に感じます。
五: そういうものが、ある一まとまりの文化圏を形成しているという感じはたしかにしますよね。
堂: 我妻さんは「かばん」ではないですが、意識的にせよ、無意識的にせよ、そういった文化圏、モードの言葉の使い方を採用している、ということです。で、瀬戸さんもそう見えると。そしてもうひとつは現代美術ね。これも一面的な言い方になってしまうかもしれないけど、今、日本の現代美術は重いものを軽くうすくしてきらきらさせる、っていうのにみんな取り組んでいる気がして。この瀬戸さんの作品にはそれと同じ匂いを感じますね。
五: よく分かります。
堂: で、これも今の「重いものを軽くしてきらきら」と関連するけど、この作品を読んでいると、短歌が持っている、自分で自分を納得するような感じというか、あの独特の円環する感じみたいなのが嫌なんだろうな、と思う。
五: 円環する感じって?
堂: 自分で自分の歌に封をするっていうか。ほらあるじゃん、独特の完結した感じがさ。
五: あー、なんとなくは分かりますよ。名歌と言われる歌には共通の詠嘆がありますよね。永井陽子さんの
- ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
とかが典型でしょうか。
堂: もしかしたら、それでこんなフォルムをしているのかも。自分で自分に封ができないように。
五: 言葉に封をして捧げ奉る、みたいなのは体に合わないんだろうね。その手の宗教性は感じない。ある種の生活スタイルを「これが標準」という言い方で提示してみせた、かなり挑発的な作品だったように思います。しかし同じようなテンションで最後まで行くから、読者としてはかなりきついですけどね。
堂: ですね。はい、ではそろそろ次に。土岐友浩さんの「in clover / by moonlight」です。
五: 瀬戸さんの作品から言葉つきが一変します。静かで丁寧で分をわきまえた言葉たちです。言葉に対する作者の期待が抑制されている感じがします。
堂: そうですね。諦念を感じます。
五: 期待の抑制っていうのは諦念と同じことですね。なぜ抑制されているかを勝手に推測すると、やはり、この先大きな幸福などというものは待っていないだろう、という諦念に突き当たるわけです。
堂: ほう。大きな幸福。どういうことですか。
五: 何か偶然雷に打たれるみたいな幸福です。たとえば宝くじを買う人は、一億円当ててやるぞ、と思って買うと思うし、もし当たったら転げまわって喜ぶと思うんだけど、土岐さんはそういう買い方はしないと思うし、当たったとしても大して喜ばないと思う。
堂: なるほど。
五: 「人々が支払ったお金が私の手元に今こうして届いている、このシステムが宝くじというものなんだなあ」とか、そういうことを思うだけなんじゃないかなあ。そういう言葉つきをしている。
堂: うーん、確かに。強い喜びとか、心に燃えるひとつの炎とか、そんなものはこの文体からは感じられないですね。
五: 具体的に作品を見ていきましょう。
- ヴォリュームをちょうどよくなるまで上げる 草にふる雨音のヴォリューム
という歌、うまいです。雨音のヴォリュームを上げるとはどのような行為でしょうか。作者は最初自分の内面を見つめていたいわけです。物思いに沈んでいたわけですね。その沈み具合をゆるめて外界の比重を上げていくと雨音のヴォリュームが少しずつ上がっていくのでしょう。
堂: なるほど。この歌はそのような内面性が前面に出過ぎない形で提示されているのですね。「草にふる雨音のヴォリューム」というイメージで、主体の繊細な内面が象徴されているんだ。
五: うん。そして、「ちょうどよくなるまで」というところにこの作者の手つきが良く出ていると思うんです。雨音を適切なヴォリュームにするのであって、大きすぎても小さすぎてもだめなんですね。それともう一つ重要だと思うのは、物思いに沈む主体をいわば「適度な感傷」にまで引き上げるもう一人の主体の存在です。その存在が言葉をコントロールして抑制の効いた適切な範囲に歌を囲い込んでいるような気がします。
堂: なるほど。
- 風速を平均したら4ノット もらった梨と買ってきた梨
もそうだね。もう一人の主体を感じる。しかし、そうだとして、その「囲い込み」の是非はどうなんですか?
五: 是非を判断するのは難しいですが、少なくとも作者の世界観にこれだけアクセスできるという意味で、この2つの連作は優れていると思います、ある程度言葉を囲い込まないと、小さな揺れみたいなものを読み取ってもらえないと思うんです。
堂: 小さな揺れというのはたとえばどんな歌ですか?
五: たとえば「by moonlight」の一首目、
- くさむらの水引草の赤い実がはじけようともさびしい秋は
ですが、「水引草の赤い実」ってすごく小さいもので決して華やかなものではないですよね。
堂: 小さい粒粒がさびしげについているという感じですね。
五: そこから「はじけようともさびしい」とつないでいるんですね。これって微妙にイレギュラーじゃないかと思うんです。「水引草の赤い実がはじける」という状況が華やかなものなら分かりやすいんですが、一般的には決してそうではない。だけどこの作者にはこれでも十分華やかだと感じられているんだと思うんです。そうでなければ「とも」という助詞が入るはずがない。この「とも」が微妙で、言葉を囲い込むことによって、こういう細かい部分が読み取れるようになるんだと思います。
堂: つまり、この世界観、そして言葉つきの中では、普通よりも目が細かくなっているんですね。
五: そういうことだね。
堂: しかし、それは読んだ人みんなが分かるんでしょうか?
五: 分かるんじゃないですか。それを読まないと読むところがなくなってしまうでしょう?
堂: うーん。説得されましたし、分かるんですが、「目が細かい」っていうことがみんな分かるかどうかはちょっと疑問だなあ。
五: そうかな。
堂: うん。僕は、ですが。
五: そうかあ。でもその囲い込みが感じられなければ
- 夕暮れにぽたぽた実るからすうり幼いころの記憶のように
なんかはただのだめな歌になってしまうね。これなんかは囲い込みの中にあるから成立する。この歌に○を出す作者の感性にはけっこう驚きます。自分の歌の世界をよく知っていないとできないことですよ。
堂: うん。それはそうだね。一首の驚きはないけど、世界観の把握という点で、正確な歌だね。
五: だよね。
堂: しかし、土岐さんはほんとうに微細な、もうほとんど空気の振動かと思うようなところに勝負をかけてますね。
五: うん。きっとそれが好きなんだろうし、ある意味それしか感じられないんだと思いますよ。大きな振れ幅とか、ドラマチックな動き、とかは分からないんだろうと思う。
堂: ふむ。でも、ドラマチックなものだけが価値ではないですからね。微細な振動のぴりぴりでしか言えないものもあるし。
五: そういうことです。
堂: ただ、僕はドラマチック、大きな振れ幅、広大な世界、そういうものが大好きだからなー(笑)。好みとしてはそういうのを志向してしまうなあ。
五: まあ、私もそうだけど(笑)。
堂: といったところで次に行きますか。
五: そうしましょう。
堂: では次。服部真里子さんの「セキレイ」です。
五: では、よいと思った歌から。
堂: どうぞ。
五:
- 朝礼は訓示残して終わりつつ駅舎を越えて飛ぶポリ袋
と、
- 少しずつ角度違えて立っている三博士もう春が来ている
ですね。
堂: ほう。僕も
- 少しずつ角度違えて立っている三博士もう春が来ている
はいいと思いました。どんなところがいいんですか? その二首は。
五: ではまず「朝礼」の歌についてですが、「訓示」という堅い言葉と、「駅舎を越えて飛ぶポリ袋」の解放感との対照がうまいと思いました。
堂: なるほど。しかし、僕にはちょっと「駅舎を越えて飛ぶポリ袋」が道具立てっぽく見えるな。道具立てっぽいのはこの歌だけじゃなくて、服部さんの歌にいつもある特徴で、それは必ずしも悪いことではないけれど、この歌のように解放感の歌の場合はあまり活きない気がする。
五: 解放感の歌で活きないと思うのはなぜ?
堂: 動きがあまり躍動して見えないからかな。道具立てと思ってしまうと止まった絵のように感じてしまって、動きは見えなくなると思う。
五: そういうことか。確かにね。でも絵のようだとしても下句があることで景色が開けるという効果はやっぱりあって、朝礼もきっと屋外でやっているんだな、とか、いろいろ想像できますよね。
堂: それは言えますね。
五: 少し大げさに言ってしまえば、訓示みたいなその場にいる人を縛る道徳律が何の変哲もないポリ袋によって相対化されるところに解放感が生まれていると思います。構造が見え透くのは欠点といえば欠点ですが。
堂: ふむ。なるほど。では「少しずつ」のほうは?
五: 「少しずつ角度違えて立っている三博士」までと「もう春が来ている」の響き合いが楽しいです。「三博士」は「東方の三博士」ですね。聖書の。イエスが生れたときにやってきた。でも聖書の記述を厳密にたどる必要はないでしょう。何かしら言祝いでいるような語感が大切です。
堂: 「三博士」ってまとめて言うってこと自体がなんとなく楽しいですね。「三原色」「三羽烏」「三銃士」とか楽しいイメージがあるよね。
五: 「3」がね。それから「少しずつ角度違えて立っている」というところからはいろんなイメージが生まれてきますが、一つは春の光が角度の違いによって微妙な陰影を生んでいるということがある。「角度違えて」のところは、三博士を物体として見ているような感じがするけど、そこに春の光が差すことで情趣が生まれている。
堂: なるほど。僕はこの「三博士」はなんとなく中世の宗教画の中の「三博士」のイメージで捉えていて、どんなのかって言うと、中世の宗教画ってあんまりカラフルじゃないんですね。茶色っぽい感じ。で、表情や動きもアグレッシブではない。そんな絵の中の三博士を想像しました。
五: なるほどね。
堂: なんでそんなのをイメージしたかというと、たぶん、「少しずつ角度違えて立っている」の「少しずつ」ですね。たとえば、宗教をテーマとした絵画でも、ルーベンスみたいに動きのある絵だとこんな微妙な言い方しないだろうから。で、そうしたのっぺりした三博士がちょっとずつ角度を違えているのが面白いなあ、と。
五: そういう絵画的な像を思い浮かべているわけね。僕はなんとなく石膏像っぽい感じだったけど。
堂: そして、そうした茶色っぽいイメージに春が重なることで、より春のイメージが強調されて鮮やかになると思って。
五: その対比、分かりますね。三博士、おっさんだしね。
堂: おっさんだしね。
五: 「少しずつ」角度が違うってところがおかしくてきらきらしてて笑えますね。
堂: しかし、「町」はみんなそうだけど、服部さんも言葉つきに個性がありますよね。
五: ありますね。言葉への期待が大きい感じがします。たとえば
- 青銅の都市があるのだ そこへ向け拭いてはならぬレンズがあるのだ
という歌があって、「青銅の都市」や「拭いてはならぬレンズ」という言葉に非常に大きな負荷がかかっていますよね。
堂: キンキンしてますね。このキンキンはやはり大きなものが心に燃えているから出せるのでしょう。言葉つきを比較すると、さきほどの土岐さんの歌とはだいぶ違いますね。言葉を大きく振りかぶる。
五: はい。この先大きな幸福に出会うことを信じているし、また出会うであろうことを予感させる。そんな言葉つきです。言葉の力を割り引いて考えるのではなく、逆に割り増していくような歌ぶりですね。では次。
堂: 平岡直子さんの「ランプ/花嵐」ですね。
五: では、よいと思った歌から話していきましょうか。
堂: ですね。僕は
- 刺抜きを拾い上げたい秋の野で触れればそれはみんな朝露
ですね。
五: ああ僕もそれですね。平岡さんの歌の特徴がよく出ているし、それが成功している。
堂: 特徴って何ですか?
五: 結句の「朝露」というまとめ方は特徴的です。湿度の高い透明感のあるフレーズで一首をまとめる、という方法が連作中に頻出する。連作全体が手を触れたら消えそうな、そんな繊細なイメージを持っているんですね。この歌なんかはまさにそういう歌です。
堂: 他にも、
- そうか君はランプだったんだね君は光りおえたら海に沈むね
の「海に沈むね」もそうだし、
- ベビーカーにいちばん怖いもの乗せて一緒に沼を見に行きたいね
の「一緒に沼を見に行きたいね」も、
- どうして手が届かないのかこの町は 地図のよう君の血脈のよう
の「君の血脈のよう」もみんなそうだね。湿度が高くて、そして、大きなものへつながる入口みたいなものが終わりによく出てくる。その中でも、この「朝露」は成功しているかな。
五: うん。そうですね。「棘抜き」という金属のしっかりしたアイテムが最初にひとつ出てきて、それを拾い上げようとすると、その棘抜きが朝露になってしまうんですね。「棘」という言葉にかすかな痛みが伴うことで、この喪失感がより強く伝わってくる。
堂: 銀色で光ってて少し寂しい感じがしますね。
五: さらに下句の「みんな」によって、触れるものは全部朝露だと言っているところにこの歌の強さがある。「棘抜き」はひとつのアイテムなんだけど、最後は全部朝露にしてしまう。このねじれが強さになっている。
堂: ですね。「触れればそれはみんな朝露」というタンタンタンタンと、よいリズムで言葉が続いていくことで、この喪失がある種自動的に、運命的に響くから、より喪失感が強まるんでしょうね。
五: そうだと思います。
堂: うん。しかし、平岡さんの歌はなんかいつも遠ーい印象があるね。言葉が、遠ーくから持って来られている気がする。
五: 「遠ーく」? どういうこと?
堂: えーと、言葉がぼんやりしてない?
五: ぼわーっとしてるね。
堂: 自分の手ざわりのある、近くの使いやすい言葉じゃなくて、遠くのほうにある「短歌っぽい」言葉をわざわざ拾いに行って使ってるというかさ。
五: ああ、ちょっと分かってきたな。
堂: なんか、「短歌っぽい」に憧れがあるあまり、わざわざみんなが短歌でよく使いそうな言葉を使っているというか……。
五: うん。普通はもっと近くにそうした言葉がある印象だよね。たとえば田口綾子さんも同じような言葉を使うけど、もっと身近な印象がある。
堂: そうだね。
五: その印象はたぶん田口さんが自分の感情を美的に表現するために「短歌っぽい」言葉の象徴性を利用してるからで、いいわるいはともかく、手ざわりがある。平岡さんの場合は、それに対して、雰囲気を表現するために「短歌っぽい」言葉を使うから、茫洋とした感じになるんだよ。
堂: なるほど。平岡さんの歌がぼんやりしている理由は分ったね。森の中から海に向って長い竿で魚釣りをしているんだね。
五: そんな感じだねえ。
堂: でも、どっちも同じ海から同じ魚を釣ろうとしているのは一緒だし、さらにいえば、現代女性歌人の多くがその海に向って竿を投げてるよね。
五: 同じ魚で型を競っている。
堂: みんながみんな新しいことをしなきゃいけないってことではないけど、にしても、みんなが同じ魚ってのがなあ。
五: そうそう。みんな一緒ってのが問題だよね。
堂: 多彩さが減ってしまうからね。短歌はもっといろいろできるはずなのに。メルヘンっぽい歌の処理の仕方だけじゃないと思うけど。
五: それは私も思います。けっこう根深い問題だよね。いろんな均一化には突っこみを入れたいね。
堂: うん。では次。望月裕二郎さんの「水か油」です。
五: はい。いいと思った歌は
- さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく
です。
堂: 僕もそれです。
五: この歌面白いですよね。全速力で坂道をかけおりる意気込みようと、うちで幕府をひらくというスケールの小ささとのギャップが笑えます。幕府なんて昔の体制だしね。
堂: 今と昔のギャップの面白さもあるね。でかいことと瑣末なことの対比、面白い。「うち」という小さいところに「幕府」というでかいものをひらくのもそうだし。この対比のさせ方、言葉の混ぜ方が非常にスマートですよね。
五: スマートという言い方がぴったりくる感じはします。たとえば、
- ひたいから嘘でてますよ毛穴から(べらんめえ)ほら江戸でてますよ
の「江戸でてますよ」という言い方を支えているのはパッションとか必然性といったものではないですよね。
堂: そうですね。やはり現代的なんだと思う。どういった点で現代的なのかというと、ひと言では、「空気を読む」というところにおいて現代です。つまり、自分の言葉が周囲との差異においてどこに位置するかを正確にマッピングできる、というのが、現代なんだと思う。パッションとか必然性とかはもっと盲目的なものだからね。
五: マッピング能力のことを批評意識と同義だと思っている人は多いよね。
堂: だから、これらの歌の面白さを保証しているのは、それぞれの語への目の効き方であって、感情とか情念ではない。
五: そうだろうね。
堂: それは「新しい」し、面白いけど、僕の偏った立場からはやっぱちょっと物足りないかなあ。何で物足りないかというと、差異自体に視線が向うと、それ以上深まらない気がして。
五: ちょっと話を元に戻しますけど、「さかみちを」の歌、の「うちについたら」の部分は、僕の好みの表現にすると「家(いえ)についたら」になるんですけど、望月さん的にはやっぱり「うち」なんだと思うのね。「家(いえ)」だとニュートラルですっきりしているんだけど、「うち」の方が言葉がとぐろを巻くというか、叙情の質が内にこもる気がして、そういうのがやりたかったのかなあと。
堂: なるほど。
五: つまり、望月さんの言葉というのは、情念とか必然性に裏打ちされている感じはあまりしなくて、そういう意味ではスマートなんだけど、内容的にはどこにも行けない円環的な世界にいるように見える。叙情を開放することから距離をとっているように感じました。連作の中では「幕府」の歌は叙情が一番開放的だと思いますが、それを僕も堂園くんも選んでいるというところが面白いですね。しかし、この歌に関しても「うち」を選ぶところに好みの差が出ている気がする。
堂: そうですね。では次。吉岡太朗さんの「魚くじ」です。
五: どうですか、これは?
堂: そうですねー。まあ望月さんもそうですど、吉岡さんは体温が低めですね。
五: そう思うね。感覚をガーッと開放していくところからは遠いところにいる。
堂: うーん、土岐さんも体温が低めよりだし、「町」の男性陣にはその傾向がありますね。
五: うん。で、吉岡さんの歌は結句で膝を砕く歌が多いね。
堂: あ、分ります。
- 左手がどうであろうと鯖寿司を食べているなら食事中です
とか、
- 妹が恋人以上というひとを分らないからすきやきの具に
とか、
- 霧雨の夜の電話にでてみたら受話器が耳に触手をのばす
とかも。つまり、上句での緊張感や権力構造を結句で無化させようとする働きがある。結句で膝カックンだね。
五: マジなのか何なのかよく分からないところが特徴です。
堂: 正直うまく読み取れない歌が多かったなあ。
- 町中の電信柱がぐにゃぐにゃとお辞儀をするのでえらいひとです
とか。
五: これは誰かが道を歩いていて、その人に向かって電信柱がお辞儀をしている。だから、ああこの人はえらいんだ、と分かる、という歌だよね。
堂: ああ、そうかなるほど。今はじめて分かりました。そうすると、歌意が取れますね。でも、それでもやっぱり性急というか、舌足らずな印象があるなあ。その内容を「ので」だけで説明するのはなんか違和感ない?
五: そこでくいっと曲がる感じを出したいんだと思うけど……。
堂: なんていうか、こう、クッキーの型から生地がはみ出ているというか、歌の器以上に情報が盛られていて、適切な感じがしないのね。外部に散文的なストーリーなり、情報なりがさらにある気がして、それを読み解かされるのがつらい。
五: それは分かるなあ。
堂: たとえば他にも、
- 藍色のさかな帽子を買いましょう活魚専用車両に乗るなら
も、魚しか乗れない「活魚専用車両」に乗るなら、魚にならないといけないから、「さかな帽子」を買ってかぶって、魚に変装して乗ろう、という感じだと思うけど、それを「なら」の一語で説明している。やっぱりそれは性急だと思う。
五: その歌はそうだね。あと、
- プルタブをかちかちいわせる集団が音で仲間を増やして海へ
もそう。問題は、外部的ストーリー自体に快感がないことかなあ。
堂: うーん。読み取れてないだけかもしれないけど、そのストーリーが何を意味しているのかよく分からないんだよね。ただ変、てだけでは意味が分からないし。
五: うーん、何やろうとしてるのかなあ。
堂: 我々が読み取れてないだけかなあ。ちょっとしたきらめきやイノセンスへの憧れはほの見えるけど。
五: 特に後半そうだね。最後の歌とか。
- とりどりのカラー画鋲が照り返し君はきれいな魚になった
の「君はきれいな魚になった」。
堂: うん。でも他ちょっと難しいね。
五: ごめんなさい。もし、よい読みをされる方がいたら、ぜひメールをください。お願いします。
堂: 待ってます!
五: はい。では、これで、一通りの連作は読みましたね。うーん、そろそろ疲れましたし、企画の「本歌取りの複数」は、読者の方それぞれで読んでいただきましょう。
堂: そうですね。こちらも面白かったですけど、そろそろここらで締めましょう。けっこう喋ったしね。
五: ですね。
堂: あ、「町」をお求めの方は町のホームページ(http://000machi000.blog42.fc2.com/)からご注文ください。買って損はないですよ!
五: ぜひ。やー、今回も疲れましたね。
堂: でも鎌倉は素晴らしい土地でした。毎回、決めているのですが、今日も豊島屋本店で鳩サブレーを買って帰ろうと思います。キング・オブ・サブレですね。
五: いいね! あそこは落雁もおいしいよ!
堂: おっ、いいですね。落雁。さすが神奈川名物には詳しいですね。では、お茶が恋しくなったところで帰りましょう。
五: そうしましょう。ここで一首。
- 鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
与謝野晶子。
堂: おお、五島さんの風流っぷりが遺憾なく発揮されました。
五: でしょう。
堂: では、お疲れさまです。
五: お疲れです。
