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2010年4月

2010年4月21日 (水)

2009年を振り返る WEBバージョン

堂: こんにちは。おひさしぶりです。短歌行です。

いつのまにか、前回の更新から半年も隔たってしまいました。

今回は、昨年の年末に収録された「2009年を振り返る」という記事をお送りします。

内容自体は、昨年12月にとっくに収録されていたのですが、

私の都合により、ずるずると更新を延期してきてしまいました。

申し訳ありません。

もう4月も半ばを過ぎましたが、読者の皆様は今このときだけ、年末の気分で見ていただけると幸いです。

ちなみに収録場所は堂園宅近くの「ガスト」でした。

それではどうぞ!

※※※※※※※

堂: さてそろそろ始めましょう。

五: 今日のテーマは「2009年を振り返るWEBバージョン」です。

堂: NHK短歌では話し足りなかったことなどをしゃべっていきたいと思います。で、今年はどうでした? 五島さん。

五: 今年もいろいろありましたね。不況の波が日本を覆い、ついに政権交代。

堂: そこからか。しかし、いったいこの混迷はいつまで続くのでしょうか。

五: 続くのでしょうか。それはともかく、短歌界もなかなか賑やかな一年でしたね。まずは新人賞から振り返ってみましょう。

堂: NHK短歌では、ちょっとスペース上、話せなかったですからね。ではまず、今年2月の歌壇賞から。

五: 受賞は佐藤羽美さんの「ここは夏月夏曜日」ですね。

堂: 夏の学校生活を歌にした作品が多い連作ですね。作中主体はその学校の生徒の一人なんですね。

五: はい。ただ、学校といっても中学なのか高校なのか大学なのか、すっきりとは確定できないですよね。たとえば

  • 千億の生徒の指紋を受け取って体育倉庫で眠る跳び箱

は小・中学校だし、

  • 民俗学講義の間中ずっと鬼が窓枠つかんでおりき

は大学ですよね。

堂: そうですね。まあ学校っぽい雰囲気がずっと続いているくらいでしょう。五島さんは、この連作の受賞理由は何だと思います?

五: 雰囲気を出すのがうまいんだと思うよ。ほら、

  • バス停で夕方からの霧雨はぼやんと終わり西瓜の匂い

の「西瓜の匂い」とか、良い匂いとも悪い匂いともつかないじゃないですか。それが、学校への思いと重なるんでしょうね。学校も良いとも悪いとも分かんない場所だからね。思い出の中で。これは公立小・中学校の場合特にそうだと思うけど、性格も出自も違う人間が同じ空間に、まったく物理的にぶちこまれるわけだから、不思議な場所ですよ。

堂: ふむ。

五: あと、「鬼」とか、「生霊」とか、「民俗学」とか、そういう時空をずらすような存在をだしてきたり、良い―悪い、美―醜などで割り切れないものを出したりすることによって、「学校」というものを平面的にとらえていないことが雰囲気につながるんでしょうね。

堂: あー、分かります。その出し方にあまりムリがないから、口当たりがいいんでしょう。

五: と思います。

堂: でも、僕はあまり評価は高くないかな。

五: どうしてですか?

堂: うーん。評価しないっていうのを言うのは難しいなあ。どうしても感覚が混じってしまうからね。

五: それはそうだよね。でも、いちおう言ってみてよ。

堂: まず、よくないと思う歌を具体的に挙げて話をしますね。

  • 友達の呉くんちには沼亀がいてさ思春思春って鳴くんだ

僕はこれはよくないと思う。

五: うん。なんで?

堂: うーん……。まず「思春思春」って鳴かないだろうと思ってしまう。世界にはいろいろなものがあって、亀だっていろんなふうに鳴くかもしれないけど、それを「思春思春って鳴く」とひとつの秩序に押し込めてしまうことで、もともとあったいろんな良さが消えてしまっているように感じてしまうんだよね。

五: なるほど。

堂: でも、逆から言えば、「言葉を使って現実の新たな側面を見せている」とも言えるわけだから、それを楽しめばいいはずなんだよ。そもそも、言葉にした時点でどうしたって一定の秩序になるし。

五: 現実を再構成しているわけだからね。

堂: でも、これはパッと見で「嘘だ」と思ってしまう。

五: そうですねえ。そこはかなりデリケートな問題で、現実をある秩序に向かって再構成するっていうことが悪いのではなくて、再構成されたものがどれだけ説得力を持つのかっていうことですよね。「嘘だ」というのはその時の説得力のなさを言っていると思うんだけど、何というか、ここは本気で言っているんですよ、という感じがこの歌からはあまり読み取れないんだろうね。

堂: そうでしょうね。その対立で考えるより、どれだけ本気か、言い換えると、どれだけ細部まで神経が通っているかが大切なんでしょうね。そういった意味でこの歌はちょっと見積もりが甘いかなあ。

五: そうかもしれないね。

堂: ほかにも、

  • 帰り道これっくらいの定型に昨日の思慕をちょいっと詰めて

とか見るとね。そう思うね。ちょっと軽すぎるのではないか。

五: ふむ。

堂: あと、一首でとれる歌がないのもちょっとなあ。

五: まあこの連作は全体としてあるふくらみを持っているわけだから。

  • ぐんにゃりと間延びしたまま消えてゆく下校時刻を告げるチャイムは

の、「間延びしたまま消えてゆく」あたりは身に覚えがある。学校特有のゆるーい時間の流れが思い出される感じがしました。

堂: そういう良さは分かります。

五: ただ、短歌でできるのは大体これくらい、ってはじめに規定した中で作っているような感じはする。リミッターをどこかで外すべきなんじゃないかと思う。

堂: そうだね。それはすごい感じる。あとで言うと思うけど、今年の新人賞作にはすべてそんな感じがあって、それが今年の特徴かなあ。「短歌でできるのは大体これくらい」感。

五: それでは、他の注目作を見ていきましょう。次席の塚本理加さんの「ビー玉図鑑」は完成度の高い一連だったと思います。好きな歌を挙げるなら、たとえば、

  • 見送りのためのくちびる両端をわずかに上げて描いておりぬ

でしょうか。そこはかとないさびしさと同時に明るさも感じます。見送りの場面に備えてあらかじめ微笑みを用意しておく、という歌ですが、自分の感情と、それに関係なく微笑んでいられる唇とのギャップが少しさびしい。でも、見送りを気持ちの良いものにしようという意志に明るいものも感じ取れて、そこがいい。

堂: そうですね。完成度はなかなか高いと思います。しかし、問題点はさきほどの佐藤羽美さんと同じで、「大体これくらい」感があることでしょうか。

五: そうですね。作りもわりと端整な歌が並んでいますし、振れ幅は小さいですよね。それは読み取りやすさにもつながるので、そういうやり方があってもいいと思いますけど。

  • 走るひと走るリズムに見送れば遠くさきまでひかる水面

も好きです。さらっとしているんだけど、特に上の句がいいと思う。

堂: 確かに。それから、歌壇賞の候補作には、早稲田短歌会の人が何人か入っていますね。

  • 夕立を抜ける東海道線をつかの間夢へ迎へ入れたり 服部真里子 
  • 願わくは海月のように透きとおるひとすじの概念になりたし 吉田恭大 
  • この世界で信じてもいいイヤホンの中のドラマーのタムタム連打 望月裕二郎

五: そうですね。やはり、早稲田短歌会の人たちは面白いと思いますね。僕は。自分がOBであることを差し引いても。

堂: では、次は短歌研究新人賞に移りましょうか。やすたけまりさんの「ナガミヒナゲシ」です。3首ほど挙げましょうか。

  • なつかしい野原はみんなとおくから来たものたちでできていました
  • ある年の数字がならぶ「ナガミヒナゲシ 発見」と検索すれば
  • 完璧なロゼットになれなくたって体育座りで空を見るから

そうですね。やはりひとつの世界観を立ち上げているのがよいと思います。

五: たしかにはかなげな文体で、はびこっていく(?)帰化植物を題材にしたところなど、新しいかなと思いますが、一読したときのインパクトがちょっと弱いような感じがしました。

堂: ふーむ。それは確かにそうですが、連作で読んで全体の雰囲気を読み取るのが、よい楽しみ方なんでしょう。

五: 一首一首の統語をゆるめてもいいから全体である雰囲気を作ろうとしていますよね。作中主体の存在感の薄さも特徴ですね。

堂: 帰化植物と同化してますからね。なんか、でかいものとつながろうとしている。

五: その同化の仕方が在来のものに対してではなくて、外部から侵入してきたものに対して行われている。というか、生命ってそういうものでしょう? という感じがある。常によそ者であるっていうような、そういう感覚が全体をつらぬいていますね。そこは少し新しい。

堂: そうですね。そして、その感覚は時代に合っているんでしょうね。それが受賞の一因にはなっている気はします。

五: 次席は雪舟えまさんの「吹けばとぶもの」でした。

堂: 夫が求職中という設定だったり、ビッグイシューが出てきたり、時代に対する感性と、歌としての神秘性を同時に保った一連でした。

五: 夫が面接に行く場面で、

  • ホットケーキを持たせて夫送りだすホットケーキは涙が拭ける

という歌があって、これなんかも作品としての次元と時代に対する感性という次元が平行して現れています。現実的に考えれば、お弁当がホットケーキというのはまずないですよね。この選択は作品を創造するという意識がなければたぶんできない。だから、ポーズだからだめとかいう批判は当たらない。ポーズとしてやっていると思うから。

堂: でもこの歌を読んで何がしかの迫真性を読者が受け取れるのは、「ホットケーキは涙が拭ける」という下句に力があるんですね。

五: 捨て身のユーモアという感じ。思わず笑ってしまうんだけど、心のどこかがすごく真面目になるというか、正座してこのメッセージを受け取ろうと思わせられるところがあって感動する。

堂: そう思います。

五: そういうテーマ性とは別に好きな歌もありました。一番いいと思ったのは、

  • はつなつの風おとなりは息子たち声変わるまで住んでいますか

です。隣の家にはまだ小さい兄弟がいるんだけど、「声変わるまで」という期限設定がすごい。

堂: どうすごいんですか?

五: たとえば、その部分に「5年経っても」を代入してと比べれば明らかなんですけど、「声変わるまで」のほうがずっと立体的なんです。時間の経過だけじゃなくて息子たちの肉体の変化が重なってくるからです。子供の声から青年の声になるというだけじゃなくて、両親や学校に反発したりするようになるだろうとか、好きな子と手をつなぎたいだろうとか。あるいは服装に気を使うようになったり、新聞を読むようになったり、部活が忙しくなったりするだろう、そういう頃までっていうような情報がばーっと駆け巡るんですね。

堂: しかも隣人として、となりの子たちの成長を見守る喜びみたいなものも感じられますよね。

五: それに加えて「声変わるまで住んでいますか」という質問自体がとても謎めいている。言い換えればいくつかの位相が同時に介在している感じがするんです。

堂: どういうことですか?

五: うーん、説明しようとすると難しいけど、まず素直に形だけ見れば、息子たちに対する質問という位相がありますよね。だけどそんな問いは答えることはできないでしょう。それにそんな質問が何を意図して発せられているのか分からない。それから、この子たちはいつまで隣りに住んでいるかなあという自己完結的な軽い疑問という位相がある。最後にもう一つ、「はつなつの風」の効果もあるんでしょうけど、何かもっと大きなもの、神様とか運命とかに問いかけているような感じがするんですよ。この子たちと私の時間が交差するのはあとどれくらいの期間なんですか? というような問いかけですね。

堂: そういうもろもろが自然に読み取りうるような形になっているんですね。なるほど分かりました。僕はこの連作を読んでいるとなんだか英雄的なところがあるなあと思って。今の話を聞いていてもそうだけど、個人的な実感とかが、簡単に大きなものへの信仰に結びつく。そういった意味で個人的なんだけど、同時にすごく無私ですよね。呟きが個人の感慨で終わらない。オイディプスとか、個人の考えで動いているけど、でもあれは同時に人間の代表みたいなとこありますよね。ああいう感じ。

五: ヒロイニズムは濃厚に感じます、無償で何かするっていうような雰囲気に満ちている。

堂: あ、そうそう。オイディプスっていうか、アンティゴネーって感じかも。たぶん、けっこうナチュラルにそういう感じがあるんだろうね、その方面への努力があんまり見えないから。普通、もっとがんばった結果、英雄的になるから。いや、逆かも。自然にやっている感じに見えるから、英雄的に感じられるのかも。

五: 「父母わたしから生まれなよ」とかすごいよね。

堂: ほんとに。びびります。

五: ナウシカっぽいっていうか、ほとんど「ついておいで」という声が聞こえてきそう。

堂: できないよね。あと他で注目したのは、フラワーしげるさんの「ビットとデシベル」です。

五: 目立ちますね。

堂: 選考委員の意見も様々で、加藤治郎さんが一位に推して絶賛、穂村さんが二位に推して、面白いけど、いまいち最後に推しきれない、米川さん、栗木さんが、意欲的なところは面白いけど、よく分からない、佐佐木さんが面白くない、とざっくり言うとそんな感じですか。

五: だいぶざっくりだけどね。

堂: で、これらの意見は全部分かります。なんか、問題作だし面白いけど、面白くないといえば、面白くないかなあ。

五: 僕はいろいろ考えさせるし、問題作ということは認めるけど、この作品世界に何か邪悪なものを感じる。

堂: ふーん、それはなんで?

五: なんでかなあ?

堂: うーん……。たぶんそれはここに出てくる言葉の質の問題ではないですか。これらの言葉はなんていうか、言葉自体の自律性とか生命感をあえて排除した言葉で、言葉の中に出てくるものたちを要素として扱っている。もちろん、言葉へのフェティシズムとか愛着は感じられるけど、現れる人物や世界に人格を認めていない感じがする。そういうSFっぽさというか、試験管の中の実験として言葉を使う感じとかが、「自然」とかを信じたい五島さんの気持ちと相反するのではないですか。

五: あー、まあそうかもね。

  • 橋のまえに濃い色の服の男ならび誰にでもある手首はふたつ

とかにそう思う。

堂: さっきの雪舟さんと比べるとよく分かるよね。

五: そうですね。フラワーしげるさんのはヒロインではなく、神の視点だよね。コンピューター制御の神。

堂: たとえば、

  • 小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく

とかも、「おまえが彼女の何を知っているんだ」と言いたくなる。そういうところは諸手を上げて賛成はできないけど、でも、文体が短歌のリズムを踏襲していることは明らかだし、そこにムリはないと思いますね。やりたいことはけっこう高いレベルで成功していると思いますよ。

五: それはその通りです。短歌の生理で言うと、読むときに上の句と下の句の間で一拍置きますよね。その生理には適った作りになっている。目につくのは用言の連用形で一拍置く方法です。さっきの歌だと、「男らならび」の「ならび」ですね。「ビットとデシベルぼくたちを明るく照らし薬指に埋めこんで近づいていく」の「照らし」もそうだし、この形がとても多い。

堂: あ、本当ですね。「きびしい言葉で叱責し」「つるばらに音はなく」。ほとんどそうだね。面白い歌を挙げると、僕は

  • ただひとりの息子ただひとりの息子をもうけ塩のなかにあるさじの冷たさ

かな。

五: 私は、

  • 壁面をなだれおちるつるばらに音はなく英国のレスラー英国の庭にいる

ですね。

堂: はい。では、次は角川短歌賞に移りましょう。11月号。受賞は山田航さんの「夏の曲馬団」です。

五: どうかなあ。

堂: 僕はなんていうかある種の模範解答みたいな作品だなあと思いました。よくできてるし、しっかりしてるけど、あまりにも「短歌」すぎるというか。修辞もほとんど、誰かのコピーですしね。

五: うーん……。

堂: まあ、コピーでもいいけど、それが分かりすぎるよ。

五: 選考委員の人々も同じようなことを言っていましたね。

堂: まあ歌を挙げていきましょうか。では、表題作の

  • 積乱雲に呼ばれたやうな感覚を残して夏の曲馬団去る

どうですかね。

五: 僕なら「積乱雲に呼ばれた」まで作ってあきらめると思う。すでにパーツがはまりすぎている感じがするのね。そのはまった感じでさらに持続していくっていうのは何なんだろう。

堂: なんでしょうね。穂村さんが『短歌という爆弾』の中で「○○おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏」の「○○」に何を入れるか、っていう話をしていたときに、普通は「コーラのビン」て入れちゃうけど、村木道彦の元の作品は「うめぼしのたね」でそのインパクトの差を解説していたけど、山田さんは、この「コーラのビン」の側の作品に見える。どの歌も。

五: 

  • 地に落ちる水の未来をおもふとき涙はふいに逆流をする

はいいと思いませんか?

堂: あっ、ちょとこれは公式から外れているかも。「涙はふいに逆流をする」というところに、ちょっと体感が含まれていて、それが他の歌と違う。涙が体の中に入っていく感覚ですね。

五: うん。次に、候補作の平岡直子さんの「瓶を流れる水のように」です。

堂: 平岡さんについては、「町」のときにかなり話しましたから、あまり今回は詳しく話さないですが、やっぱり注目してしまいますね。

五: 言葉にある種の官能があるのが面白い。

堂: そこが平岡さんの本質でしょうね。選考会でも触れられていた

  • 弟と妹連れてデニーズへ行く君たちを産んだ気がする

も梅内美華子さんが「誠実で使命感を持った作者の姿」と言っていて、それはその通りと思うけど、それ以上にこれは官能性の強さをより感じますね。

五: 

  • 父が育った部屋に貼られたメーテルの流し目のした眠ろうとする

もそうですね。空間が官能性の方向にぐにゃーとねじ曲がっていくような感じ。

堂: はい。といったところで今年の三賞を振り返ってみたわけですが、今年の新人賞はどうでしたか? 全体として。

五: 短歌研究新人賞が面白かったです。新しかったり振り切れていたりする作品が多かったような気がしました。

堂: そうですね。僕もそんな気がします。しかし、三賞全体を見渡すと、今年は短歌という枠におさめる作品が多くて、そのことを思いました。

五: 思いましたって。どういうこと?

堂: いや、なんか、そういう作品を選んでいるところに今年の気分が反映されているかな、と。安心したい、というか。

五: ほう。あまり冒険はなかったと。

堂: いや、そんなことはないけど、たとえば短歌研究の年鑑で「評論の時代」という言葉があったけど、それも、このよく分からない混沌とした時代を説明したい、してほしいという欲求が表れていると思いますね。で、それは年々高まってきている。

五: ふむ。

堂: 今は「次の新しいことを」っていうよりも、「今、目の前のことを何とかしてくれよ」という声が大きい気がします。どんな世界でも。

五: 時代と照らし合わせて「ここを何とか」というのは言いやすいからね。新しいものというのは、そういう形では言えない性質のものなんだよ。

堂: で、そんな状況だからこそ、自分としては次のことを考えたいというか、小さな変化は今でも刻々と起きていると思うし、そこに目を向けたいと思います。

五: それは短歌の世界で具体的には?

堂: NHK短歌の年間回顧でもちらっと言ったけど、歌人がいろんな場所で活躍し始めたのが、私は面白いと思いますね。石川美南さんとか、雪舟えまさんとか。まあ、まだそれほど目立った動きでもないですが。

五: 同人誌も続いていますしね。「町」は早くも第二号です。それに新人賞では早稲田短歌会の人たちが多く候補になっていますし、若い人がたくさん出てきましたね。面白くなってきた。

堂: 実際嬉しいですよね。

五: 少し気になったのは、角川の新人賞の座談会で三枝昴之さんが、「若い人たちの短歌は神経過敏の競争をしているようなところがどこかにある」とおっしゃっていたんだけど、本当にそうなのかどうか。三枝さんがそう感じるっていうのを否定するわけにはいかないけれど、僕はむしろ全体として風景や世界との和解に向かって動き出している気がして、そのための苦しさみたいなものはあっても、単に神経質さを競うというやり方は減っているような気がする。10年前とはだいぶ景色が違うなあと。

堂: そうですね。ナイーブさを前面に押し出して、それですべての価値が逆転する、というようなモードから徐々に変わってきている気がします。少なくとも、身近な若手には、そういう人はあんまり見ない。

五: と思いますね。あとはそうだなあ、うーん、歌集にも触れたい気がしますが、そろそろ疲れてきましたし、今年はこれで終了にしますか。

堂: ですね。残念ですけど。

五: 来年にも期待したいですね。というところで締めましょう。

堂: はい。では、今年の最後に五島さんの年末ギャグでお別れしましょう。

五: 粘膜が冷える年末!

堂: ダジャレにもなっていないですね。

五: そう?

堂: まあいいか。それではみなさんよいお年を。

五: お疲れさまです。

堂: お疲れです。

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プロフィール

  • 五島諭 1981年生まれ。「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。
    堂園昌彦 1983年生まれ。「コスモス」「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。

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  • お気軽にお便りください。「ここの読みは違うんじゃないの?」とかも大歓迎です。

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    堂園昌彦が一人でやっている現代詩鑑賞blog。 現代詩文庫を1番から順番に読む。
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