名歌鑑賞

2009年10月21日 (水)

長塚節の歌を読む

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 秋の短歌行です。よろしく。

五: 今日は大井町駅にいます。

堂: そして、我々はいまバーミヤンにいますが、ここにたどり着くまでに、さんざん迷いました。

五: さまよいましたね。西大井で降りたんですけど、そこから大井町までちょっとした小旅行でしたね。ファミレスがどこにもないっていう。

堂: 途中で交番でお巡りさんに「ファミレスないですか」って聞いて、ありますよって言われたけど、そのファミレスはどこにもなかったね。

五: そう。ファミレスじゃなくて煮豆屋とかしかなかった。

堂: 昭和20年くらいから動いていそうな洗濯機のある家とか、路地裏で遊ぶ子供とか、染物工場とか。

五: 昭和をくぐり抜けてきましたね。そういった意味で、風情のある、なかなかいい旅でしたけど。

堂: で、けっきょくコンビニの店員さんに聞いて、バーミヤンを教えてもらったんですよね。

五: はい。ようやくたどり着いて、もう一仕事終えた気になってますが、始めましょうか。

堂: 秋の日はつるべ落としですし。帰りたくなっちゃう前に始めましょう。

五: 「島山のつるべ落としの喫茶室」という句は誰の作だったかな。まあいいや。始めましょう。

堂: はい。では今日のテーマは長塚節です。今回も五島さんおすすめで。

五: そうそう。長塚節、いいんだよー。いっぱい取り上げたいけど、まずはじめはこれからいきましょう。

  • 暑き日は氷を口にふくみつつ桔梗(ききょう)は活けてみるべかるらし

どうですか、これ?

堂: そうねー。……いいですねえ。桔梗がいい。桔梗が。

五: あー、桔梗いいですねえ。

堂: 桔梗、好きなんだよなあ……。風情のある歌だね。しかし、想像してみるとけっこうヘンなことしてますよね。氷を口に含みながら花を活けるおじさん。

五: ですね。しかしまったく嫌みはないですよ。氷がとっても涼しげで、だから桔梗もとっても涼しげに響くんです。暑くて氷を食うなんてことはみんな経験してるはず。特殊な感じはしないなあ。

堂: そうね。特殊ではないし、みんなやるけど、花を活けるときはやんない気がするし、あとここに視線を持ってくるあたりがさ。

五: たしかに実際にはやらないっていうのは分かります。しかし、花を活けるというのも昔ながらの暮らしという感じで、実際にはやらなくても文化的に染み付いたものでその組み合わせという感じも少しするんだよね。

堂: まあ、そうだね。ちょっと特殊さに注目するのは性急だったかもしれない。

五: うん、なんというか、完成されたものっていう感じがするんですよね。長塚節が特別なことをしているっていうよりも、日本人の共通感覚に訴えてくるような

堂: わかります。話の持っていき方が悪かったかな。この感じは時代の違う僕にもとてもよく分かって、なんていうか、「なじむ」感じがある。でも同時に、ただ自然な行為そのままという気もしなくて、ある作られたもの、もっといえば、表象的な光景でもあると思うんですよ。

五: そういうことですね。俳句のエッセンスを「俳」と「詩」に分ける考え方があって、すごく平たく言えば伝統有季定型を「俳」志向、高柳重信や西東三鬼やそれを受け継ぐ人たちを「詩」志向と言ったりするみたいなんだけど、それで言うと長塚の作風は、とくにその良質な部分はこの「俳」に近いと思うのね。ある表象の体系に向かって言葉を組み上げていく、というのに近い。

堂: そうだね。この「俳」というのも、かなり抽象的なもので、実際に体感できる感覚――まあもしそういうのがあったとして、ですが――とは少し違ったものだと思う。「俳」はかなり歴史的な堆積があるから自然に受け取れるけど、実はかなり抽象的なものを作り上げている気がする。

五: そう思います。外国人からしたら相当エキゾチックなんじゃないかなあ。

堂: でも、そういった抽象性を含んだほうがリアリティを感じられる、ということもありますよね。ほら、絵画なんて全部表象の世界、人間の目が見える世界とは異なった世界を描いているけど、そこである程度抽象的なものを含んでいたほうが実感に訴えかけることが多いと思うし。スーパーリアリズムの絵画よりもセザンヌのぼやーっとした絵のほうがリアルだなー、と僕は思うけど。

五: それは分かるけど、その対比が長塚の場合に当てはまるかなあ。むしろ長塚の象徴性には生活史が染み込んでいるというのがポイントかもしれない。このあいだ取り上げた「町」で、土岐友浩さんが芭蕉の

  • 春雨や蓬をぬらす艸の道

という句を引いていたけど、これなんかもプリミティブな風景という感じはあまりしなくて、むしろ相当観念的な風景だと思う。春の蓬の芽のやわらかさや、摘んだときの匂い、といったことを共有観念として持っていなければこの句は分からないと思うのね。

堂: なるほど。

五: 僕は子供の頃はよく蓬を摘んだし、蓬もちを作ったこともあるけど、そういうのをしたことがなくても言葉の中にそういう生活史が残っていて、それが共有観念として機能するということだよね。そういう意味では、この「桔梗」の歌なんかも日本人の生活史と分かち難い関係にあると思います。そこに「風情」を感じ、リアリティを感じるんだと思う。

堂: そうですね。ただ、僕は蓬を摘んだことがないからか、芭蕉のこの句はピンと来ないです。

五: そうか、やっぱり体験も重要なのかなあ。他の歌も見てみましょう。

  • 吸物にいささか泛(う)けし柚子(ゆず)の皮の黄に染(そ)みたるも久しかりけり

これはどうですか?

堂: ふむ。これもいい歌だ。「いささか泛けし」の「いささか」がいいと思う。

五: 「いささか」は読みにくいけど、かなり情報量が多いよね。

堂: そうだね。たんに浮いているんじゃなくて、「いささか」浮いていると。その、浮いている柚子の皮の量がより正確になる上に、ひとつひとつの黄色がより濃くなる。そして、浮いている柚子の皮を見ている作者の視線の細かさまで感受できる。作者の視線まで情報として読み取れるということで、情報量が多いと思う。なんか、ブレーキかけながらアクセル踏んでるな、とこの「いささか」で思うんですよ。

五: 「いささか」は渋い。これがなければ黄色が映えないし、柚子を浮かべたその豊かな気分まで伝わってくるから。この吸物は美味い。味わっていない僕の舌が満足させられるんですよね。

堂: まったく。ぜったい美味いよこの吸物。

五: ですよね。

堂: あと、結句の「久しかりけり」もよいですね。ここで時間が重層化する。この柚子の吸物を食べる経験が一回こっきりでなくて、ある時間の流れの中に置かれるんですよね。

五: はい。だから、この歌を良いと思う人はこの歌の中の生活スタイル込みで良いなあ、と思ってしまうと思います。自分もそんな生活がしたい、まで行かないにしても、わずかに憧れみたいなものが生まれるんじゃないかと。特に現代の読者は。では、次の歌。

  • つくづくと夏の緑はこころよき杉をみあげて雨の脚ながし

堂: あー、これもいいなあ。さっきからいいばっかりしか言ってないけど(笑)。この歌、内容は非常にシンプルですね。雨の中で杉を見上げていいなあ、とそれだけですね。

五: そうだね。

堂: でも、この歌で表されている感覚はとてもよく分かる。気持ちのよい風景を見たときって、「この杉の色が形が……」と思考に入っていくこともあるけど、それよりも「あー、いいなあ、気持ちよいなあ」と何にも考えないときのほうが多いですよ。鼻歌うたったりとかしてさ。鼻歌って、歌の内容や種類が大事じゃなくて、鼻歌うたうってこと自体が気持ちよい。それと同じでこの歌も何か言っているわけじゃなくて、言葉を発すること自体が気持ちよいという歌だと思います。それを表現できるのがけっこうすごい。

五: 気持ちいいよねえ。ただそれだけ。余計なものがないんですよね。こういうのを構えがいいと言うんだろうな。初句「つくづくと」と結句「雨の脚ながし」が気持ちよさを増幅している。

堂: そうだねえ。結句のこの字余りで流す感じが、「気持ちよいなあ」という感じ、鼻歌的な感じとよく合っているんですね。

五: そうそう。

堂: こういった言葉をゆるやかに使うやり方は学びたいね。

五: では次に。

  • いささかも濁れる水をかへさせて冷たからむと手も触れて見し

堂: この歌はどういう歌なんですか?

五: 詞書に「草の花はやがて衰へゆけども、せめてはすき透りたる壜の水のあたらしきを欲すと」とあります。花壜の水を替える歌というわけです。このころの長塚節はすでに病がちなので、病室だと思います。

堂: なるほど。

五: この歌は「冷たからむと」にまず心の動きがあり、続いて「手も触れて見し」に体の動きがあります。この下の句がとてもいい。水が濁っているかどうか、というのと冷たいかどうか、というのはイコールではなくて、でも透き通った水を見たときに冷たいだろうなあという思いが湧くのは、一片の衒いもなくて生き生きしています。そして、心と体が連動した結句がとてもしなやかな印象を残します。

堂: あー、なるほど。分かりました。この歌もとてもいいですね。長塚節の歌はぜんぜん嫌みを感じないですね。

五: どうしてだろうね。

堂: 一服の清涼な水、というか。大きなものではないけれど、読むとスッとする。

五: うん。

堂: いつも茂吉を比較対象にして悪いけど、茂吉のこってりとだいぶ違うねえ。

五: 違いますね。杉の歌もこの水の歌もそうだけど、成功している歌は言ってることは複雑じゃないのに上から下まで読んでも飽きが来ない。それに対して、長塚節でも成功していない歌は、こってりしてない分だけ長さを感じてしまう。たとえば、

  • あをぎりの幹の青さに涙なすしづくながれて春さめぞふる

  • 倒れたる椎(しひ)の木故に庭に射す冬の日広くなりにけるかも

なんかは、何か読んでいる途中で長いなあと感じてしまう。

堂: 一首目なんか特にそうですね。

五: 途中で飽きてしまうでしょう?

堂: そうだね。なんか「長い」ね。

五: 「長い」よね。

堂: 何が違うのかなあ。

五: 二首目なんかはなんかいいような気もするけど、読むと「長げーなあ」と思っちゃうんだよね。

堂: 分かる。「冬の日」あたりで飽きる。

五: 不思議だなあ。では、最後に。

  • しめやかに雨過ぎしかば市の灯はみながら涼し枇杷うづたかし

です。これは中学2年生の教科書にも出ていると思います。とってもいいと思いませんか?

堂: うーん、いい。これ中学生の教科書に載ってるんですか。はー。

五: 市の灯と枇杷の橙の重なりが美しい。その橙も濡れてしっとりしていて、風は少し冷たく、市場のいろいろな匂いや音を運んできます。

堂: うん、分かります。ちょっと夕方なんですね。

五: そうそう。暮れていく風景だね。

堂: 「市」っていうのがいいね。「市」。テンション上がるよ、「市」は。「魚市場」でも、「商店街」でも、「ショッピングモール」でもダメで、「市」。

五: うん。「市」にはいろんなものが売ってますからね。そういうのがワクワクするんだろうな。

堂: そうそう。乾物とかね。

五: へんな豆とかね。

堂: そういう、パッと見ではわけの分からないものがあるのがいいよね。

五: めくるめく感じがする。

堂: 「ショッピングモール」にはゼリービーンズとか、ナイキのシューズとかしかないんじゃねえかっていう。

五: 分かっているものが売っている場所だよね。「市」のワクワク感はない。「市」のたい焼きとかたこ焼きとか美味いんだよね。誰がショッピングモールでたい焼きを購いましょうや。

堂: ありえませんね。

五: まあときどきは生協で冷凍食品のたい焼きを頼むことはありますよ。でもあれをレンジでチンして食べるときも、冷凍のたい焼き自体の美味さを味わってるというより、市や祭の残り香を食っているわけです。

堂: あの景色、あの匂い、あの喧騒を食ってるんですから。分かります。これは市ならではのものですね。高価なフランス料理を食うときに、シャンゼリゼ通りを食っているという人はいないでしょう。

五: これももしかしたら「俳」的な表象機能のなせる業かもしれませんね。

堂: 話が少々脱線してしまいましたが、この歌でも「市」にあるからこそ「枇杷」が輝くんですね。

五: スーパーでパックされた枇杷じゃねえ。

堂: あと、「うづたかし」もいいよね。

五: ゴージャスではないけれど。

堂: ゴージャスじゃないよ。ちょっといっぱいあって嬉しいっていう感じ。山になってて。

五: そうだね。あー、市に行きたくなってきた。

堂: ですね。

五: といったところでそろそろ夜ですし、終わりにしましょうか。

堂: そうしましょう。いやあ、長塚節、良かったですね。

五: 歌がべたべたしていなくて読後感がいいんですよね。今回は初のバーミヤン短歌行になりましたが、どうでしたかバーミヤンは。

堂: あっ、バーミヤン初だっけ? そうかあ。

五: バーミヤン初だよ。バーミヤンなんていかにも長居できなさそうじゃん。

堂: いわれてみるとそうだね。じゃあ、よく周りを観察してみましょう。

五: おっ、堂園くん、壁にこんな文句が掲げてあるよ。

堂: なんですか?

五: 「『バーミヤン』は、シルクロードの中心地にあったアフガニスタンの古都。隊商の休息の地、東洋と西洋の文化交流の地として栄えました。」へーそうなんだ。

堂: へーそうなんだ。続きは?

五: 「私たちバーミヤンは、世界をクロスオーバーさせた新しい中国料理をお届けします。」

堂: なかなかうまいこと言いますね。でも、もし店名が「南京」だったらまったくおんなじ料理を出してても「伝統の本格中国料理をお届けします」って言うよね。たぶん。

五: そうだねー。まあギョーザが美味いからいいんだけどね。

堂: ギョーザはギョーザというもの自体が美味い。

五: 万里の長城を食っているということだからね。

堂: なんかさっき言っていたことと微妙に矛盾する気がしないでもないですが。

五: そう?

堂: じゃあまあ、帰りますか。

五: はい。お疲れさまです。

堂: お疲れさまです。

2009年5月31日 (日)

山中智恵子の歌を読む

石巣(いわす)より石巣にとびて鳥首(とりくび)の重かりきわが狂心(たぶ)るる自由   山中智恵子  『みずかありなむ』

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: ごきげんよう。短歌行です。今日は戸塚のデニーズにいます。2回目ですね。戸塚はどんな町でしたっけ、五島さん。

五: 戸塚といえば「神奈川の魔境」ですよね。

堂: 前回より混沌度が上っている!

五: 徐々に進化するようになっているんです。前回は着工したばかりだったモールも完成しつつありますしね。

堂: はあそうなんですか。底知れないですね、戸塚。それにしても今日は寒いですねえ。もう五月だというのに。

五: そうですねえ。堂園くんの胃腸も弱る一方です。

堂: 僕は、『ちびまる子ちゃん』の山根くんと勝負できるくらい、胃腸が弱いですからね! 一日徹夜するだけで本当に使い物にならなくなるからね!

五: 自信まんまんだね。

堂: 挑戦者募集中です。

五: といったところで、そろそろ始めましょうか。今日は名歌鑑賞です。

堂: おっ、人気企画ですね。

五: そして、今回は満を持して、山中智恵子でいきたいと思います。

堂: おおっ。山中といえば、五島さんイチオシの!

五: そうです。このブログのタイトル「短歌行」も山中智恵子の第六歌集から取っているんです。もちろん、中国の楽府詩の形式でもあるわけですが。

堂: いま明かされる「短歌行」のタイトルの秘密! みなさん、曹操の「短歌行」とばかり思っていたでしょう? しかし、山中の歌集のタイトルはどれもかっこいいですね。『短歌行』『紡錘』『みずかありなむ』『星肆』。

五: 装丁もすばらしいですよ。この『短歌行』の装丁を見てくれよ。この紺色の美しいこと。

堂: ほんとにいいですね。こういう歌集を作りたいなあ。

五: 思うよね。本自体に帯やカバーがついていないのもいい。あれ結構邪魔じゃないですか? 私はいつも読むときカバーも帯も取っちゃいます。帯なんて、すぐくしゃくしゃになってしまうし、いいことないですよ。

堂: まったくね。じゃあそろそろ今日の歌の紹介を。

五: 今日は山中の第三歌集『みずかありなむ』から。

  • 石巣(いわす)より石巣にとびて鳥首(とりくび)の重かりきわが狂心(たぶ)るる自由

を取り上げたいと思います。

堂: はい。いやー、わくわくしますね。山中はずっとやりたかったですからね。さて、始めましょう。さっそくですが、五島さんはこの歌のどんなところが好きですか?

五: どんなところっていわれると、難しいなあ。

堂: うーん、なんていうか、読んだときの感覚というか、気持ちというか・・・・・・。

五: そうだな、世界が一気に開かれるような爽快感がありますね。言っていることはかなりシュールで怖いんですけど、不思議とそういう感じは持たない。

堂: あー、なるほど。僕は今日初めてこの歌を読んだんですけど、よく分かりますね。爽快感、たしかにあるなあ。

五: だよね。

堂: あと、「狂心るる」なのに怖くないのもすごいね。なんていうか、歌の姿がものすごくきりっとしているせいか、怖さとかシュールさには目が向かない感じ。

五: 少なくともシュールさや怖さを狙った歌ではないと思いますね。

堂: そうですね。

五: で、この歌の修辞の中心は「鳥」から「われ」への移行にありますね。キーになっているのは三句目「重かりき」です。純粋に鳥を描写しているんだったら、首の重さを感じるはずはないんですね。そこから一気に下句「わが狂心るる自由」へドライブしていく、その官能に強い魅力が宿っているように感じます。

堂: なるほど。ドライブの官能、面白いですね。しかし、どうして「重かりき」を基点として移行できるんだろう。

五: なんでだろうね。

堂: 一般的なところからいうと、やはり身体感覚みたいなことは言えますよね。鳥の首の重さが、「重かりき」で自分の感じているように語られる、ぐっと自分に引き付けられるから、単に対象でしかなかったものに自分の感覚が重ねられる。そうした働きがこの「重かりき」にはあると思います。

五: そうですね。身体感覚。それと同時にこのモチーフは非常に観念的でもあります。この歌の入った連作「会明」の中には他に、

  • きみはわが頭脳のほのほ 夏鳥の羽ふぶき啼く杉群も炎ゆ

という歌もあって、つまり「鳥」は「わが頭脳」の中の風景でもあるんですね。

堂: ああー。かなり観念的なところもある「鳥」なんですね。

五: 観念的だからこそ、「鳥首」という言葉でクローズアップされた鳥の頭が「重かりき」を媒介にして「われ」の頭脳とか頭蓋へと移行できるんでしょうね。「狂心るる」は、歌の中には直接書かれていないその頭脳のイメージから導かれるのだと感じます。

堂: つまり、「具体から抽象に移っていく」というよりも、抽象へ行くための素地が元からあるんですね。観念から観念へ飛翔する感覚だ。

五: 「石巣より石巣に」という部分からは、私は、切り立った崖から崖へ飛ぶ鳥をイメージするんですけど・・・・・・。

堂: そんな感じだと思います。

五: そうだとすると実景としても、かなり観念的な要素が強いですよね。イワツバメのような鳥をイメージしたとしても、切り立った崖のイメージは、何かしら激しいものが込められている。

堂: うーん。たしかに、「わが狂心るる自由」なんていう、ものすごいフレーズは簡単につなげられるようなフレーズではないですからね。

五: だよね。あと、「鳥首」の「首」というイメージも非常に重要で、なんていうか、「首」は頭につながっていますけど、頭が狂うみたいなイメージが潜在的にある。

堂: おおー、なるほど。

五: また、「石巣より石巣にとびて」も、とても危険なものを想起させますしね。

堂: 上句ですでに、緊張がびんびんにあるんですね。それでこその下句なのか。そもそも、「石巣より石巣にとびて」という始まり自体すごいよね。

五: いきなりスピードMax。ジェットコースターに乗っているようなものだ。山中はイメージの出足が速いのが特徴で、普通ならもっと地道な、たとえば身辺から歌い始めて、おかしなところにちょっと触れてそれで終わり。なのに、山中の場合は最初から尋常ならざる場所にいるから、到達できるところが非常に遠いところまで行けるというか・・・・・・。

堂: 開けるというかね。

五: このイメージの速さみたいなものについて行けないときは、山中はなかなか読めないね。

堂: だから、「難解」とよく言われるんですね。

五: 『みずかありなむ』の中では「鳥髪」の一連が有名だしすごい歌が多いんですね、それに匹敵するくらいよく引かれるのが、この歌、

  • 三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや

ですが、堂園くん、この歌はどうですか?

堂: うーん・・・・・・、たしかによく引かれる、有名な歌ですけど、

  • 石巣より石巣にとびて鳥首の重かりきわが狂心るる自由

より広がる感覚がないかなあ。素直に読むと。

五: そうだよねえ。私もあんまりこの歌がいいとは思えないんだよなあ。なんというか抽象的な普遍性へ到達する、「抜け」の感覚が少ない。なんでこの歌が評価されるんだろう?

堂: 「抜け」ね。分かるなー。たぶん、この歌は分かりやすいんじゃないかなあ。

五: どういうところが?

堂: そうだねえ。他の山中の歌に比べて、メッセージというか、内容があるよね。つまり、この歌は「三輪山の背後から月が昇っているけど、月って不思議だよなあ、そもそも月って呼び始めたのは誰なんだろう」という歌ですよね。もちろん、「三輪山」の「古事記」に出てくる伝承とか、あるいは月の照っている山の光景の神秘とか、イメージの広がりはあるけど、でも結局は「月って誰が呼び始めたんだろう」というメッセージが眼目になる。あるいは、それが前面に出る。

五: なるほど。

堂: そうした、メッセージを言語的に抽出できる分かりやすさが、たくさんの引用を招くのではないかな。

五: この歌がちょっと閉じている感じがするのは、良さがある程度簡単に説明できてしまう、すぐパラフレーズできてしまう、というところにあるのかも知れませんね。僕の思う山中の良さとはちょっと違う。最近僕が好きなのは『星肆』のこの歌、

  • 明日といへば余生の一日(ひとひ)きみあらば百歌(ひゃくか)のあらむ余生の一日

です。『星肆』は第八歌集。ご主人を亡くされたあとの歌集ですね。

堂: 「明日といへば余生の一日きみあらば百歌のあらむ余生の一日」・・・・・・。うん、これはすごくいい歌だとおもいます。広がるし、気持ちは強いし。

五: いいでしょう?

堂: なんていうか、歌に対する愛と、夫に対する愛が同じくらい強く感じられる歌ですよね。

五: うん。この歌は「(愛する君が亡くなってしまったから)明日はもう『余生』の一日なんだ。もし、君がいたなら百首の歌があるくらい素晴らしいはずの一日なのに、『余生』の一日なんだ」という意味だからね。

堂: 「百歌のあらむ」が「素晴らしい」につながるところが驚異ですよね。ここまで愛されたら、歌のほうも幸せだね。

五: 二句目と結句のリフレインは、たとえば日本書紀に

  • ぬば玉の甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒

とあるように、古くからある手法なんだけど、その韻律をすごく生かしていると思いますね。「百歌のあらむ」には感動しますね。塾の授業前に読んでたから生徒に笑われてしまった。「先生、目が赤いよ」って。

堂: 感動するよなあ。山中智恵子は、「歌」が本当に好きな感じがするよ。いや、「好き」は違うな。ちょっと安っぽい。そうじゃなくて、「山中は歌だなー」と力を込めて言う感じかな。

五: 山中はなんかもう「歌」に作らされている気がするよ。

堂: それがすごいことだし、素晴らしいですね。ほんとに芸術家だなあと思う。山中は。

五: そうだね。

堂: あんまりこういう印象を他の歌人に抱かないね。たとえば、岡井(隆)さんなんかは芸術家というより、「詩人」て感じだな。僕は。

五: ふーん。

堂: 塚本(邦雄)は「文学者」ね。

五: なんとなく分かるなあ。山中は自らを歌の中に消すことができるというか、歌と一体化して舞っているような感じがあるからね。官能に身をゆだねることができるというか。

堂: そうだね。ジャンルに一体化してる、という感じだね。

五: そうした人の作品は、なにか連れて行ってくれる感覚があるよね。

堂: そうなんだよ。よく分からないところに連れて行ってくれる。「作者が見たもの」とか「作者と対象物」という対立とかでは、どんどんなくなっていく。「詩人」はもっと「言葉を扱う人」という主体が強いなあ。もちろん、良し悪しではなくて、違いだけどね。

五: そうだね。岡井さんの歌は、特に最近のはすごく好きだけど、岡井さんの歌の世界の中に佇んでみたいとは思わない。それに対して山中の歌は、その世界に連れて行ってくれるだけではなくて、読者がその中にしばらく佇むことができるのね。その世界は観念の世界なんだけど、そこで呼吸して、伸びをしたり、寝転んだり、泣いたりできる感じがするのね。

堂: うん。それが「抜け」だよね。

五: そうそう。多くの短歌は、歌われた世界に作者一人の席しか用意されていない。歌を読む僕ら読者は、その歌の光景に感心したり、感動したりはできるけど、普通、一緒に参加はできない。

堂: つまり、スクリーンに映される映像として、歌の中の世界を味わうしかない。でも、「抜け」ると、広い世界が広がっていて、そこに読者も参加できるんだ。

五: その「抜け」た世界の成分は何なんだろうね。観念的っていうのが大事な気がするけど。

堂: そうだね。観念的というか、ある種の普遍性の世界だよね。

五: 普遍性っていうのは?

堂: 表現されたものが古びない世界っていうか。最近出た高橋源一郎の『大人にはわからない日本文学史』という本で書かれていた論理を利用するけど、たとえば、「サザンオールスターズの歌を聴いて感動した」っていうことがあったとして、そのことを言うときに、「サザンオールスターズに感動した」という事実は古びる。しかし、「歌に感動した」という感情は古びない。

五: 「抜け」た先の世界っていうのは、そうした古びないことやものの世界ということか。

堂: 「古びない」が普遍性ということだね。

五: 「発見の歌」なんていう言葉があるように、「発見」による世界の更新に価値を見出す考え方も分かるけど、「発見」だけだと古びてしまう可能性がある。しばらくするとそれが常態化してしまう。だから、「発見」が最重要っていうわけではない。

堂: 小さな更新をどれだけたくさん積んでも、普遍性にアクセスできなければ古びてしまう。小さな差異の世界に留まってしまう。つまり、どう違うかばかりが目立ってしまう。そうじゃなくて、差異を起点として、より大きな世界にたどり着いて、そこで呼吸できるようにしなければね。

五: たどり着いただけでなくて、呼吸までする。読者の居る場所を作る、というのが大切で。観念性というか普遍性への回路はいろいろあると思うけれど、大抵の歌は観念に触れたあと、帰ってきてしまうんだよなあ。

堂: そうそう。観念のことを言うんだけど、それが現実に従属しているんだよ。現実の事象、たとえば、「私の人生がつらい」とか「もっと私を見て」とか言いたいがために、観念を使う。

五: 意味づけの問題があるね。そのときに「使われる」ときの観念って必ず矮小化されてるでしょ。「死」とか「愛」とかそういう風に。これって観念っていうより概念なんだよね。だけど、山中の場合は観念自体が自律しているよね。パラフレーズできないでしょ。

堂: うん。「私の人生がつらい」と言いたいために観念を使うと、どうしても矮小化されてしまいますよね。

五: あと、逆のパターンもあるよね。「愛」とか「死」とか一般的な概念に向って差異を使うパターン。

堂: ああ、あるね。概念のために現実を従属させるパターンだ。

五: 差異に、「それはつまり○○だ」と概念を当てはめてしまうと、差異自体が持っていたはずの様々な要素がぜんぶ捨象されてしまってきらめきが失せるんだよ。

堂: そうだなあ。

五: だから、「愛」や「死」と言葉にできてしまうものを目的にするのも問題なんだよね。こちらも矮小化されているのには違いないんだから。しかも、「私の人生がつらい」とか「もっと私を見て」よりも陳腐さが見えにくいから、より罪が重いよ。

堂: そうすると、やはり山中の凄さは自律した観念世界を作ったことですね。現実と観念はどちらがどちらかを従属させるような陳腐な関係にはないはずだからね。

五: 現実の差異を見ることで「抜け」ることはできるはずだからね。それからもう一つ、パラフレーズ不能という意味で、観念の世界っていうのは非常に現実的な世界なんであって、観念の中では観念こそが現実なんだよね。読者にとってもそうだし、山中にとってもそうなんだと思う。だから、観念と現実の区別は究極的には重要ではないんですよ。

堂: うん。とてもよく分かります。というところでそろそろ締めますか。

五: そうだね。

堂: 五島さん、今日はいかがでしたか?

五: 疲れたけど、楽しかったね。山中智恵子だったからなあ。どんどんテンションが上ったよ。堂園くんの胃腸は?

堂: 僕の胃腸も山中智恵子だったせいか、どんどんテンションが上ったね。

五: それはよかったね。さっき途中でしょうが焼き定食食ってたもんなあ。

堂: 胃弱には山中を読もう。といったところで帰りますか。

五: そうしましょう。戸塚の魔境を通って帰りましょう。

堂: 次に来るときには、さらに複雑になっているといいですね、戸塚。

五: そうだね。二度と帰れないくらいにね。

堂: では、おつかれさまです。

五: おつかれです。

2008年10月25日 (土)

会津八一の歌を読む

わが かど の あれたる はた を ゑがかむ と ふたり の ゑかき くさ に たつ みゆ   会津八一 『鹿鳴集』

堂: こんにちは。

五: こんにちは。

堂: 今日も前回に引き続き横浜のジョナサンです。横浜アゲイン。再び聞きますが、横浜はどんな地でしょう。神奈川博士。

五: 今日は夜の横浜ですね。夜の横浜は昼の横浜とは一味違います。西口の近くを流れる川からは海草の腐ったような臭いが立ち込めて黒雲は空を覆い、道行く人々は百鬼夜行図を彷彿とさせますね。

堂: 五島さん、横浜キライなんですか?

五: 風情がある、と言いたいだけですよ。

堂: そうですか。そういうことにしておきましょう。僕は横浜と言えば、最近では今やっている横浜トリエンナーレに注目していますね。現代美術のフェスティバル。ぜひ行ってみたいです。

五: 今日もテレビの「日曜美術館」という番組で特集していましたね。ではそろそろ始めましょうか。今回は名歌鑑賞です。会津八一のこの歌。

堂: 「わが かど の あれたる はた を ゑがかむ と ふたり の ゑかき くさ に たつ みゆ」です。『鹿鳴集』に収録されている歌です。

五: はい。今日は会津八一をやりたいです。ではまず会津八一の紹介を。

堂: はい。会津八一は1881年新潟県生まれです。家は百年も続いた料亭をやっていて、使用人もたくさんいたとか。そこの次男ですね。ちなみに「八一」という名前は八月一日生まれだからみたいです。

五: そうなんだ。堂々とした名前のわりに安直な命名理由なんだね。

堂: ね。「会津八一」。この風格にして、この安直。すばらしい。そして、その後長じて古美術研究、書道、短歌などの各方面で名を残しました。

五: 歌人、ていうより文化人て感じだね。

堂: そうですね。歌も『会津八一全集』に収録されているのは総数1,036首らしくて、かなり少ないです。第一歌集も153首。

五: 少ないですね。正岡豊か会津八一かってくらい少ないですね。

堂: 正岡さんは『四月の魚』が208首ですか。それが十年間の作品だから、年間20首くらい。会津八一は本人の弁によると、年間5首くらいだそうです。

五: はー。

堂: でも、それくらいの数でもいいかなー、と思うときもあります。

五: ありますね。では始めましょうか。

堂: 今回この歌を選んだのは、前の釈迢空のときと同じように、良いとは思うのですが、その良さがうまく説明できる感じがしないからです。

五: それで今回も二人で色々喋っていこうというわけですね。じゃあまず、堂園くんはこの歌のどういうところが好きなの?

堂: えーと、それが難しいんだよな。「わが かど の あれたる はた を ゑがかむ と ふたり の ゑかき くさ に たつ みゆ」……。

五: 読者が食いつきそうなわかりやすいサビのある歌ではないですしね。

堂: そうですねー、やっぱりこの歌を読んだときに自分の中で広がる感覚があるからかな。

五: わかります。

堂: 景色の捉え方の問題だと思うのですが、かなり広いパースペクティブで景色を捉えていますよね。自分の家の近くに畑があって、その脇に草が生えてて、そこに絵描きが二人立ってるんだけど、この風景をイメージするときにかなり遠方からのカメラを想像します。まあ、実際は会津八一は結構近くで見ているのかもしれないけれど。

五: うん。目や頭に負荷をかけることによって普通なら目に入らないものをみてしまう、というのがよくある方法ですが、会津八一は違います。細部を捉えようとか、普通とは違った見方をしようとか、そういう力みが感じられない。目に力が入ってないんですね。だから一首の佇まいがすっきりしていて格好いい。 

堂: それで、その光景の中に余計な夾雑物がないことも「広い!」という感覚を増しています。周りには山があるんだろうなー、とか、空があるんだろうなー、とか周囲の風景までも想像させる。当たり前のことかもしれませんが、意外に珍しいですよ、こんなふうに広がっていくタイプの歌は。

五: ふうむ。広がりは感じますが、私のイメージでは畑の周囲は茫洋としていますね。茫洋としていることが広がりに繋がるような感じです。

堂: ちょっと言い方が拙くなってしまいました。周りに山がある、とか空がある、とか想像させるのが大事なのではなく、そうではなくて、目の前にある風景だけが世界ではない、という感覚でしょうか。限定されない感じ。もっと簡単にひと言で言えば、自由さを感じますね。それは、のどかな景色を見て心が休まるのとは全く別種の感動です。

五: そうですね。だいぶ大まかな輪郭は見えてきましたね。そろそろ細かいところを見ていきましょうか。この「ふたり の ゑかき」というのは洋画家中村彝(つね)(1888-1924)の門人二人らしいですね。

堂: そうらしいですね。中村彝が会津八一の友人で近所に住んでたらしいです。『自註 鹿鳴集』に書いてあります。門人、ということはこの二人は無名な人たちですね。有名な画家よりも、無名な二人の絵描きの方がこの歌はいい感じがします。

五: やはり、有名な画家だとイメージが強すぎて歌の性格が決まってしまいそうですよね。風景の広がりが消えてしまいそうです。それに「あれたる はた」が特別な価値を持つものになってしまうと良くないのではないか、という気がします。

堂: そうですね。会津八一の歌は他の歌人の歌と比べると特殊に見えますが、歌の中の言葉はかなり一般的ですね。言葉が一般を目指している。

五: わかります。もし「ひとり の ゑかき」だとしたら、その「ひとり」の画家の特殊な美意識がクローズアップされてくると思います。

堂: まったくそうですね。「ふたり」であることで、その二人がなんとなくそこにいる感じが強調される。二人の絵描きが「ここでも描こうか」というふうに選んだような。しかし、ここに一人の画家が絵を描いていたら、それはその画家が明確な意思を持ってその場所を描こうとしているように見えます。

五: はい。さらにこの光景を詠んだ作者の美意識も、二人の絵描きがいることで限定されすぎずに表現されている。

堂: 一人の画家だと、作者の美意識がはっきり出すぎてしまって、読者を選んでしまうんですね。

五: もちろん、美意識が出ていない訳ではないですけどね。

堂: ですね。でも、それが広いかたちで表現されている。

五: そうだね。こういうふうに広く広く捉えるのは、迢空にちょっと似ているのかもしれませんね。

堂: あー、似てますね。風景として捉える視線がここにもありますね。

五: あと、その二人の絵描きの足元なんですけど、立っているところは「くさ」ですね。「くさに たつ みゆ」。絵描きの足元が草に隠れている情景が思い浮かびます。

堂: この草は若草ではないですね。「あれたる はた」に引っ張られて自然とくすんだ緑を想像させられます。

五: 夏草が萌えている訳ではないね。それにこの「くさ」が景物の抽象化に働いていることも見逃せません。

堂: というと?

五: 足元が草によって覆われることで輪郭がぼやけますよね。もし、これが道路に立っているとしたら、一首全体の景がもっとくっきりはっきりなると思う。一首の終わりのほうで草の中に立っているという、輪郭がぼんやりとした景を提示することで、ある場所に確固として立っている訳ではない、ある種の観念的な場面を提示することに成功している気がします。幽けさ、というとちょっと通俗的ですが。

堂: たしかに徐々に観念的になっていくような作りになっていますね。

五: こうした観念的な終わり方が広がりにつながっていると思います。最初に話した茫漠とした感じにもつながりますが。

堂: そういえば、始まりは「わが かど」と、かなり具体的でくっきりしていますね。

五: はい。「ふたり の ゑかき」ぐらいからぼんやりしてきて、かなりぼんやり終わる。くっきりからだんだんぼんやりへ。ここは工夫がありますよね。

堂: そうですねー。

五: 実際、何ほどのこともないことを歌っていますからね。ぼんやりで終われる。

堂: や、会津八一は内容的にはたいしたことを言っていないのがいいですよね。

五: たいしたことないと思うのは、歌を自意識の葛藤というか、自己表現のために奉仕させることがたいしたものだ、という認識を下敷きにした言い方だよね。でも言いたいことはよく分かって、要素はかなり少ないですよね。「おほてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ」にしてもどんどん抽象化されていく手つきがありますし、要素も少ないです。

堂: こうした要素の少なさは現代では珍しいですよね。五島さんの言葉で言えば、自己表現であることが多くて、結果、一首の中に要素が多くなる。自分の心をしっかり表現しようとすると要素が多くならざるをえない。しかし、会津八一はあまりそうした欲望を感じないですね。

五: そうですね。一個一個の言葉に作者の期待がべったりと張り付いていくと、言葉が重く重くなっていくんですよね。そういうのは会津八一にはない。

堂: そうそう。分かりやすくなるので、また斎藤茂吉を引きますが、「こらへゐし我のまなこに涙たまる一つの息の朝雉のこゑ」では、どの語にも作者の気持ちが込められている。簡単に言うと、この「朝雉のこゑ」は茂吉の声でもある。つまり、この一首では茂吉の感情の強さが表現される訳です。しかし、会津八一の「あれたる はた」は別に会津八一の心が荒れている訳ではない。

五: 茂吉の歌の方は言葉のひとつひとつに気持ちがこもっているから、読者としてはひとつひとつ読み解いていく。息が抜けない。その分体力を使いますね。

堂: 会津八一の方は体力を使いませんよね。

五: うん。そこが違い。しかし、改めて読むとこの茂吉の歌もすばらしいね。気持ちがビンビン伝わる。

堂: 読み解かせるだけ、強い気持ちが読者の心に残りますよね。

五: 会津八一は強い気持ちが心に残る訳ではないよね。そうではなくて、もっと世界が広がると言うか……。

堂: そうそう。何か目が開いていく感じ。

五: 強い気持ちというものは心に残るけど、ある意味閉じられてもいますからね。

堂: こうした広がりの歌が最近は面白いと感じるようになった。

五: そうだね。最近本当にそう感じてしまいますね。会津八一の歌には心の軽みというか、余裕を感じますね。

堂: 余裕は会津八一のとても大切な要素だと思います。「わが すてし バナナ の かは を ながし ゆく しほ の うねり を しばし ながむる」も海を余裕を持って眺めている。海の歌といえば、そうだな、例えば北原白秋の「寂しさに海を覗けばあはれあはれ章魚(たこ)逃げてゆく真昼の光」もすばらしい歌ですけど、ここで感動するのは白秋の心です。白秋の心が寂しくてきらきらしているのがよく分かるから僕は感動する。しかし、会津八一の方はバナナの皮の方に興味がいきます。バナナの皮が潮にうねっている動き自体が面白く感じる。しかし、白秋の方はタコの動き自体の面白さではなく、そのように見える白秋の心の面白さだと思うんですよ。

五: あー、分かります。もちろん、会津八一も心を表していない訳ではないのだけれど、歌の中での心の表出の激しさが他の人よりも少ない感じです。心に必要以上に価値を見ないんですね。

堂: そうそう。バナナの歌にも、会津八一の視線の面白さ、バナナを見る心の余裕の面白さはあるけど、読んだときに「バナナかー」と思うんだよね。「バナナうねってるのかー」って。でも、白秋のタコの歌は「タコかー」とは思わない。

五: 「ゑかき」が二人だなー、と思うよね。

堂: では、ちょっとまた「わが かど の」の歌に戻りますか。あとは、そうですねえ、「あれはる はた」、つまり作物の作られていない畑を二人の絵描きが描いているのも面白いですね。

五: そうだね。

堂: 池とか山とかをもし描こうとしていたら、もっとその対象に集中しますよね。視線が一箇所に集まる。しかし、荒れた畑だと、作物もないし、たぶんそんなに脇の道とかと色が変らない。しかも、目立つ中心物がない。やはりこの畑も茫漠とした感じ、広がりを持つ感じを表現しています。

五: 同感ですね。あと、作者が対象にあまり興味がない感じもして、それも面白いですね。

堂: あー、そこ不思議ですね。「わが かど の あれたる はた」を絵描きが描いていることにそこまで興味がなさそう。

五: 描いてんなあ、というか。

堂: やっぱり風景になってる。

五: うん。対象に興味がないというよりも、対象を捉えている自分の心に興味があまりないという方がいいのかも知れませんが。白秋の『雲母集』の歌とか読んでいると、生命力が横溢していて、きらきらしているじゃないですか。

堂: 穂村さん的に言うと、心が一点に張られているよね。

五: でも、会津八一は心が一点に張られていないのに面白いよね。

堂: 結局、心を一点に張るだけが短歌の面白さではない、ということでしょうね。

五: そうだね。その通り。

堂: なんていうか、別の価値観があることをちょっと言いたいね。

五: そうね。釈迢空とか会津八一の歌を読んでいるとそう思う。

堂: うん。その二人は推していきたい。もちろん、二人にも違いは結構あって、さっき会津八一は読むのに体力いらない、って言ったけど、迢空は結構いりますね。この違いは自分としては興味深い。

五: 迢空の方が情念がずっと強いですね。執念深いというか。ただ私はそれほど体力を使って読む感じはしないです。歌柄がでかいからかなあ。

堂: ふーむ。しかし、心が粋で視野が広い会津八一、心が強く視野が広い迢空、心が強く視野が狭い茂吉の中で、一番継承されているというか、言及される度合いが多いのが茂吉というのは面白いですよね。

五: 若干片寄った印象があるなあ。歌い上げる(下げる、と言う人もいるがこれも同じパターン)とか心を張るとか、言い方は色々ですけど、そういう方法が現代短歌のあるトーンになっていると思いますね。個人的には「歌いゆるめる」、という感覚も大切にしたいです。

堂: 茂吉がいけない訳じゃないですけどね。すばらしいものがとてもたくさんある。やはり茂吉がいなかったら、現代短歌の豊かさは今よりも確実に減っていたでしょう。ただ、現代短歌を読むときのある種の疲労を考えると、歌いゆるめる、という感覚も提示したいですね。

五: うむ。しかし、それでもやはり会津八一は近代以前の歌とは明確に違いますよね。そのことも言っておきたい。

堂: ああ、それも大事だ。

五: 例えば、今回の歌では、「わが かど の」という始まり方をしているところに若干の矜持が見られます。近代的まではいかないにしても。

堂: よく歌に出てくる仏に対する視線が分かりやすいですよね。非常に近代的。例えば、「あせたる を ひと は よし とふ びんばくわ の ほとけ の くち は もゆ べき もの を」が分かりやすいと思います。「びんばくわ」は「頻婆果(びんばか)」で、インドの果実で赤いそうです。この歌は、世の人々は仏というものは古色蒼然としているのがいいと言っているけど、本来仏の唇は頻婆果のように赤く輝いているものなのに、分かってないなあ、て感じの歌です。この歌を見ると、仏像を宗教的ではなく、美的に見ている。これは非常に近代的ですね。

五: 近代的なロマン性が見られるように感じますね。

堂: 「かたむきて うちねむり ゆく あき の よ の ゆめ にも たたす わが ほとけ たち」の「わが ほとけ たち」とかね。『鹿鳴集』の装丁は青山二郎なんですけど、美術への視線に共通するものを感じますね。二人とも古美術を近代的にリファインしていると思う。

五: 会津八一には今後注目ですね。

堂: 最後に、僕の好きな会津八一の文章を引用します。『渾齋随筆』からです。長いですがほんとに鹿は、いつ見ても、誰の目にも面白い。生きてゐるからである。美術も生きてゐるのであろうし、もちろん天然の鹿などより、高尚なものに違ひなからうが、それを活かして見るのは、見る人の目のはたらき一つである。めいめいが、果してどれだけ、ほんとに活きた美術を見てゐるのか、比較することも出来ないが、それでかへつていゝのかも知れぬと思ふほど、むつかしいのは美術である。そこにいたると、鹿はとにかく自體が生きてゐるのであり、出来上りに巧拙もないし、見やうによつて生きるの死ぬのといふのでもないから、まことに簡単でそして安心である。あの色合の鮮かさ、動きの軽さ、とりわけ、あの鳴き聲は、大ッぴらで、高ッ調子で、そのくせ、そのまゝ人の心に強く沁み入る。あんな調子で人間の歌も詠めないものであらうか、と、つくづく思ふこともある。かう考へると、『鹿鳴集』とは、私の集の名としては、少し不似合なほどに出来過ぎてゐるのかも知れない。 」

五: 『鹿鳴集』ってかっこいいタイトルだよなあ。

堂: 歌集名ランキングトップ10には入るよね。というところで、もちろん語り残したこともありますが、この辺で今回は締めますか。

五: そうですね。ああ疲れた。私はもう疲れてしまって、机の下までずりおちそうです。(ずりずりずり)

堂: そうですね。もうすっかり五島さんは下までずりおちてしまって、僕からは顔しか見えません。シュールな光景が広がっています。まるで現代アートのパフォーマンスです。

五: でしょう。

堂: まあ五島さんは生ける現代美術と呼ばれていますからね。

五: 横浜トリエンナーレでお会いしましょう。(むっくり起き上がる)では帰りますか。

堂: お疲れ様です。

五: お疲れです。

2008年1月23日 (水)

釈迢空の歌を読む

ゆくりなく訪ひしわれゆゑ、山の家の雛の親鳥は、くびられにけむ

鶏の子の ひろき屋庭に出でゐるが、夕焼けどきを過ぎて さびしも   釈迢空 『海やまのあひだ』

五: こんにちは。

堂: こんにちは。今日は大森にいます。僕はまだ大森に来て五分で、この町が全然分かりませんので、例によって大森がどういう町か解説をお願いします。

五: そうですね。大森といえば、昔、葛原妙子が住んでいたとかいないとかいう話が有名ですね。

堂: え、知らなかった。全然イメージ違いますね。雑然としてて。

五: それと、おいしい鰻屋があります。永井祐さんのお母さんに一度ごちそうになったことがあります。下町風情でいい鰻屋でした。

堂: 鰻屋、いいですね。しかし、残念ながら今日もファミレスからお届けしたいと思います。今回はジョナサンです。今日はちょっと趣向を変えて、いつものように総合誌の歌を取り上げるのではなく、既存の一首だけを取り上げて、その一首について延々と喋りたいと思います。

五: 今回の一首は、釈迢空の「鶏の子の ひろき屋庭に出でゐるが、夕焼けどきを過ぎて さびしも」です。詞書に「ゆくりなく訪ひしわれゆゑ、山の家の雛の親鳥は、くびられにけむ」とあります。

堂: この歌は第一歌集『海やまのあひだ』の冒頭にある「島山」という連作の最後の歌です。大正十三年。

五: ではここで、迢空の来歴を簡単に説明しましょうか。

堂: 明治20年、大阪府生まれ。本名折口信夫。国学院大学卒。民俗学・国文学に多大な業績を残す。大正6年「アララギ」同人となる。13年「日光」創刊に参加。民俗学に裏づけられた独自の歌風を展開、茂吉・白秋と並んで多くの歌人に影響を及ぼした。歌集『海やまのあひだ』『春のことぶれ』『倭をぐな』など。昭和28年没。

五: 詳しいね。

堂: まあ、「『現代の短歌』高野公彦編 講談社学術文庫」にある略歴をそのまま言っただけですけど。

五: では、さっそく、本題に入りましょう。私はこの歌が非常に気に入っているのですが、なぜこの歌がいい歌なのか、その秘密がいまいち解けた気がしないんですよ。

堂: そうですね。僕もこの歌は非常にいい歌だと思いますが、この歌のどこがよいのか、これこれこういう理由で素晴らしいのである、とスパッと言えない。なんていうか、論理で切っていくとこぼれていくものの多い歌のような気がします。それで、二人で色々と話をしていく上で、魅力が分かっていけばいいなと思いまして。

五: まず目につくのは結句「さびしも」。この「さびしも」の感じは他の歌人とは違いますね。「島山」には「さびし」の歌がこの歌の他に三首あります。

  • 山の際の空ひた曇る さびしさよ。四方の木むらは 音たえにけり
  • この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの さびしさ
  • いまだ わが ものに寂しむさがやまず。沖の小島にひとり遊びて

この中でも、「ものに寂しむ」は結構ヒントかなと思います。自分の心と景物とが混然一体になっているというか……。

堂: そうそう。かなり独特です。茂吉と比べるとよく分かると思うんですが、例えば手元にあるアンソロジーからひきますと、茂吉の

  • あしびきの山のはざまに自らはあかつき起の痰をさびしむ

の「さびしむ」とか、

  • をやみなく雪降りつもる道の上にひとりごつこゑ寂しかるべし

の「寂しかるべし」とかのさびしさとは全然違う。茂吉は徹底的に「自分」て感じです。明けても覚めても、自分にさびしさが返ってくる。しかし、迢空のさびしさはそれとは違います。もっと広い感じがある。

五: はい。ちょっとしたことですが、「ものに寂しむ」の「に」は、私の感覚が正しければ普通の言い回しではないと思います。普通は「ものをさびしむ」であって「に」ではない。これは大きな違いです。「に」の方が外へ向かうベクトルが強調されている。そういう眼差しが広がりを生み出しているのかなと思いましたね。

堂: 「ものをさびしむ」だと目の前のものを「さびしいなあ」と思いながら撫でている感じがしますが、「ものにさびしむ」だと、目の前のものを起点としてパーとさびしさが広がっていくような。

五: そうそう。はじめの鶏の子の歌にしても、そういう視線があるような気がしますね。茂吉のさびしさは具体的ですよね。

堂: うん。対象が存在している。でも、茂吉はずっと茂吉だから、そこで統一感がとれている。対象が移りかわっても伝わってくるのは茂吉のさびしさの強さです。

五: 幅ではなくて強さってことね。

堂: そう。色んなものにさびしさを感じて、そのさびしさの種類は確かに同一ではないのだけれど、結局印象に残るのは茂吉がさびしがっていることだと思う。

五: それに対して鶏の子の歌では、鶏の子の親がくびられてさびしいわけでも夕暮れ時を過ぎてさびしいわけでもなくて、なんだかよく分からないさびしさで、それは迢空のものであると同時に世界のものでもあるような気がしてくるんですよね。

堂: 自他の峻別、とかじゃない。迢空は明確な対象や理由があってさびしがっているんじゃないと思います。

五: それから「ひろき屋庭」という部分がまたいい。

堂: 「ひろき屋庭」、いいですよね。「ひろきやにわ」の「や」の音とか僕には気持ちいいです。

五: 「ひろき屋庭」いいよなあ~。

堂: あと、思うのが、「ひろき屋庭」くらいの語への距離感でいいと思うんですよ。

五: というと?

堂: いや、なんだか、描写って詳しくしなくてはいけないような雰囲気があるじゃないですか。「黄色」だけじゃ分からないから、例えば、「枇杷のような黄色」と言わなくてはいけないとか。

五: うん。今はそういう雰囲気ありますね。

堂: 描写の的確さを競うというか。でも、「黄色」の方が取りこぼしが少ない場合もあると思うんですよ。詳しくしちゃった瞬間に失われてしまうものもある。その点この「ひろき屋庭」は全然詳しくないけど、十全な描写に感じます。

五: なるほど。

堂: 複雑性が保たれていると思うんですよね。もちろん、詳しくしていくことで限定させていく方法が良くない、と言いたいわけではありません。その手法での良い歌は当然たくさんある。しかし、その手法に限定する必要はないんじゃないかと思います。まあ、多くの良い歌は両方の要素を持っていると思いますが。

五: そうですね。「ひろき屋庭」と、例えば「昔あった物置を取り壊したので広くなった屋庭」とを比べた時に、後者の方が情報量が少ないという逆転現象が起こるわけですね。

堂: そうなのです。

五: あまり関連していないかもしれませんが、もう一つ付け加えたいことがあります。私は2年くらい前にノルウェーに2週間くらい行って来たんですが、友人とか両親は私が何でノルウェーに行くかに興味あるんですね。

堂: はい。

五: それで、「何のためにノルウェーに行くのか?」というような聞き方をしてくるわけです。私は彼らのために「オスロとベルゲンの大学の制度を調べてくる」というような答えを即席で用意したわけですけど、実際にはそんなことは5%くらいしか思っていない。

堂: ふむ。

五: 今でもよく覚えているのはオスロで本屋を探しているときに会った、乳母車を押した若いお母さんのことです。その人は私を本屋に連れて行ってくれて、おすすめの本まで教えてくれました。私の使ったたどたどしいノルウェー語の感触まで克明に覚えています。大学の制度は忘れましたが。

堂: いや、関連していますよ。

五: そうかな。

堂: なんていうか、人間の行動とか感覚は「何のために」とか「原因と結果」では捉えきれないし、迢空の鶏の子の歌も理由をうまく遡求できない種類の歌だと思いますし。そういえば迢空自身も「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」の歌の自歌自註で「この歌は葛の花が踏みしだかれているのを見て、山道を行った人を推理しているわけではない。人間の思考は表現してしまうと因果関係的になりがちだが、そうではない。葛の花が踏みしだかれた所を歌ったものだ」という意味合いのことを書いていました。

五: うまく回収しましたね。

堂: ただ、もちろん、理由は完全には遡求できませんが、色々と考えることはできるから、細部をもう少し見ていきましょうか。えーと、「鶏の子」はどうですか?

五: どう、とは?

堂: いや、イメージとか、えーと、鶏の子の存在感とか……。あ、いま言ってて気付きましたが、「鶏の子」って言い方自体変ですね。

五: そうですねえ。鶏の子と言うと、素朴な、昔からある風景という感じがある。やがてにわとりになってくびられる、そして人がそれを食べるというサイクルの中に置かれる感じがあります。

堂: ペット性は皆無だ。たぶん可愛くないね、この鶏の子は。

五: そうです。卵を産み、卵の半数(?)は人間が食べ、残った半数がヒナになり、親になって卵を産み、また食用に供される。人間の生活と供にある家畜としての歴史性みたいなものが張り付いている感じがあります。何でもないことなんだけど。

堂: そう、なんでもないことなんだけどね。ざっくりと言うと、厚みのある言葉な気がしますね。鶏の子は何羽くらいいるのかなあ?

五: 何羽くらいかなあ。5羽くらいかなあ。

堂: ちょろちょろいる感じですよね。迢空も「目で追っている」というより、「いるなあ」っていう感じ。

五: うん、そう。景色の中で把握している感じね。

堂: 茂吉はきっと景色の中で把握しないよなあ。対象になって。

五: 迢空はそこが珍しいのかもね。「汪然と涙くだりぬ。古社(ふるやしろ)の秋の相撲に 人を投げつる」っていう歌の「秋の相撲に 人を投げつる」とかも風景で把握しているよなあ。

堂: そうですよねえ。

五: あと気になるのが「出でゐるが」の「が」ですが、何でしょうね、この「が」は。

堂: 「しかし」とかの逆説じゃないよね。

五: でもこの「が」がまた広いですよね。「庭に出ている」ということに重点がある。

堂: そうですね。「鶏の子」に注目しているのではなく、「鶏の子」が「庭に出ている」ことに注目している。

五: ここでも風景として捉える視線がありますね。

堂: しかし、この歌は口に出してもいい。なんかゆっくり言うよね、この歌は。ついゆっくり読んでしまう。

五: この表記が効いているよね。つい切りながら読んでしまう。「鶏の子の」の後の一字空けで、ああ鶏の子がいるなあ、と思わされて、それから次に行くという感じ。

堂: 頭の中に空白や句読点はないのにねえ。そりゃ速いスピードで読むことはできなくはないけど、とても無理しているふうになっちゃうね。「鶏の子のひろき屋庭に出でゐるが夕焼けどきを過ぎてさびしも」(速く読む)。ほら気持ち悪い。

五: ロボットみたいだなあ。

堂: 読むスピードのコントロールは難しいですよ。さすがだな迢空。昔初めて迢空の歌を見たとき、「、」とか「。」とかいっぱいあってなんか気持ち悪かったですけど。

五: ふうん。そうなんだ。

堂: なんか啄木の三行書きは全然気持ち悪くなかったけど、迢空の「、」や「。」、空白は最初気持ち悪かったなあ、僕は。

五: 妖しい感じがあるよね。茂吉なんかに批判されたけど、その調子を崩さなかったのがすごいですよね。

堂: 前に、近代歌人で野球チームを組むとしたら、茂吉が空振りをするけどホームランも打つ4番バッターで、白秋が華麗な3番バッターで、迢空が変化球を投げまくるピッチャー、とかいう話をしましたよね。

五: あれ、面白かったですね。迢空はナックルボーラーだなあ。

堂: そうそう。魔球系。魔球系。

五: 近代チームは強かったね。

堂: 比べちゃうと、どうしても現代が弱くみえてしまう。

五: こういう卑俗な遊びは案外大事だと思うんだよね。なんか短歌を語るときの風通しって、他のジャンルに比べて極端に悪い気がするんですよ。

堂: そうだね。もっと色々な面白がり方があると思う。

五: 学究的で綿密な考証も確かに大事だけれど、総合誌の評論でも公式見解的な賢い顔が並びすぎていると気色悪い。

堂: 今は個人的で恣意的な読みばかりで、評論が不在の時代と言われるけれど……。

五: むしろ逆だよね。

堂: そう。もちろん、押さえるべきところは押さえなくてはならないけど、何らかの形で自己と関わる読み方をしなければと思いますね。そうじゃなきゃ面白くない。

五: そういう意味で今回の歌は堂園くんにとってどうでしょう?

堂: 僕は今回の迢空の歌は広がっていくところがよくて、なんか、安心とも癒しとも違う、不思議な落ち着きを感じますね。もちろん茂吉の歌も大好きだし、すごいと思いますが、茂吉の歌のどんどんと尖っていく感じと比べて、迢空の歌は丸く膨らんでいく感じがする。「ながき夜の ねむりの後も、なお夜なる 月おし照れり。河原菅原」とか、膨らみまくっていて、すごくいいです。五島さんは?

五: 私は迢空の視線のやわらかさというか優しさに打たれますね。「鶏の子」の歌でも生まれて死んでいくものに共鳴しているというか、「鶏の子」のいる世界の一部になって、そこで「さびしも」と言えるところは、やっぱり優しさと言っていいと思う。穂積生萩が迢空は業の深い人だった、と言っているのを読んだことがあるけれど、その業の深さが優しさの源になっているのかもしれないと思いますね。それから当然とはいえ、空白、句読点の置き方は考えさせられます。

堂: そうですね、分かります。それではそろそろお腹も減ってきたことですし、終わりにして、さっき言ってた鰻屋にでも行きましょうか。

五: いいですね。そうしましょう。鰻はビタミンEが豊富ですからね。

堂: お疲れ様です。

五: お疲れです。

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プロフィール

  • 五島諭 1981年生まれ。「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。
    堂園昌彦 1983年生まれ。「コスモス」「pool」所属。「ガルマン歌会」運営。

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